科学研究費成果報告書「日本近代史料に関する情報機関についての予備的研究」(基盤研究(B)(1)、平成910年度、研究代表伊藤隆、課題番号:09490005)より

 

13 伊藤 隆氏

いとう たかし 政策研究大学院大学・大学院政策研究科・教授

日時:1999226

出席者:伊藤光一 梶田明宏 勝村哲也 小池聖一 小宮一夫 櫻井良樹 塩崎弘明 季武嘉也 田浦雅徳 中見立夫 西川誠 武田知己 矢野信幸

 

季武 科研の聞き取りも本日が最後となりますが、掉尾を飾るにふさわしいということで伊藤先生にお願いいたしました。

伊藤 掉尾を飾るなどと言われると面はゆい感じですが、早速始めたいと思います。

私は東大を定年になった年にこの本(『日本近代史−研究と教育』)を出しまして、この3月でそれからちょうど5年経つことになります。そのときまでに扱った史料の問題というのは大体この中に含まれていると思います。そこで今回、これ以後の5年間に史料に関して一体どういうことをやったのかメモを作りましたが、この中にはこれからの予定や進行中のものも含まれているわけですから、これをなし遂げるためにはもうちょっとは生きなければいけないなと思っている次第です。

実は昨日も尚友倶楽部で品川弥二郎関係文書の最終校訂を1日中やっておりました。それから児玉秀雄関係文書という、これはかなり大量のものですが、これの整理ならびに編集・刊行ということがある程度具体的になってきましたので、その仕事もしておりました。それで尚友倶楽部に昨日おりましたら、坊城家の方――いま噂の方のお父上がやって来られまして、西園寺さんからの手紙10通ばかりを含む史料群があるので、それをここで引き受けてエバリュエーションをやってくれませんかという話がありました。

 そこでお話をお聞きましたら、いま持っているのは石本男爵の子孫の女性なんですが、石本男爵というと、加藤勘十夫人になったシヅエさんが、かつてそこのお嫁さんであった家です。それで何で西園寺の手紙があるのかと思いましたところ、その方のお母さんが有名な華族の実吉さんで、実吉さんのお母さんがまた福岡孝弟の子孫の家のお嫁さんでありまして、その妹が杉村という家に嫁いでおりまして、その杉村虎一に宛てた西園寺からの手紙だそうです。その姉妹のお父さんが相良という大名家の子孫で、そのお父さんが実は徳大寺なんです。徳大寺は西園寺と兄弟ですから、そこで西園寺との関係があって西園寺やその周辺の人々からの手紙がそこに来ているということです。その話を聞いて系図を書いたら、女性、女性、女性と伝わっているんですが、こういう史料の伝来の仕方もあるものかと思って感心して聞いていたわけです。

 それから、尚友倶楽部に三宮義胤さんの文書が入ったというので見ましたところ、いろんな人から三宮さん宛ての手紙があり、伊藤博文などからの手紙も含まれていて、段ボールでいくつかあります。どういうわけでこれが入ったのかというと、私が朝日の書評委員をやっているときに、長岡祥三さんという方の『ベルギー公使夫人の――』という本が出て、私は書評をやったんです。そのときにお互いに知ったんですが、たまたま長岡さんが尚友倶楽部の人と知り合いでした。それで『ベルギー公使夫人の――』の中に三宮夫人が出てくるわけです。三宮義胤の奥さんはイギリス人で、三宮は宮内省である程度の地位までいきましたが、それほどビッグネームにはならなかった人です。しかし奥さんのほうは、外国に行く日本婦人に作法などを教えたり、あるいは外国から日本に来た婦人に対して、日本の宮中での立ち居振る舞いの仕方などを教える役割をしていたので、その本の中に三宮さんが出てくるわけですが、長岡さんは三宮さんの遺族にアプローチをして、そこに史料があることを確認していたらしいんです。そこでいろいろ話があって、整理を尚友倶楽部に頼んだらどうかということで持ち込まれたわけです。

 尚友倶楽部もだんだん世の中に存在感があるようになってきたものですから、いろんな情報やこういうものはどうかというような話がどんどん舞い込むようになって、非常にマンパワーが足りない状況になってきています。そんな中で60何項目のうちこれからやらなければいけないものが大分あるのですが、まだまだ広がりそうな感じで、体がもつのであろうかと心配をしております。

 それでは書き出した順序に触れていきたいと思いますが、私がどういう関心でこういうものを集めたかとか、ここから何をくみ取れるかというお話をしていきますと時間では終わらないということで、どうしてもというところ以外はカットさせていただこうと思っております。

 1番はもう終わったことで、田浦君や皆さんのご助力を得まして、随分長いことかかりましたが本にすることができたました。

 2番の『高木惣吉―日記と情報』は、随分前から皆さんにアナウンスしながら本が出ないということで、これはみすず書房に原稿は全部渡ってしまっているんですが、みすず書房はいろいろと細かくチェックをするものですから、手間がかかる上に人が足りないのでなかなか進まないという状況です。本当は昨年の4月には出すという話でしたが、それを1年延ばしてくださいということですから、今年の4月ぐらには出ると思っております。しかし、ものは国会図書館と防衛研究所の図書館に行けば見られるものですから、それほど犯罪的な行為ではないと思っております。

 研究の問題としては、日本の戦争の終結の仕方という問題と関わらせて高木文書は非常に興味深いものでした。特にソ連仲介という構想。もともとはソ連と同盟するという構想で、日ソ中立条約をさらに強化していく構想の延長線上にあるという位置づけをしたわけです。

 3番は『町田忠治―伝記編・史料編』ですが、これは季武君等々とあちこち駆け回って史料を集めたのにも関わらずあまり成果は上がりませんでした。町田関係文書というのはどうしても分からないということで、寄せ集めの史料集ですが、史料集としてはまあまあのものだと思っております。

 4番は『品川弥二郎関係文書』ですが、これは「さ行」が終わったぐらいで、今年中に5が多分出ると思いますが、8ぐらいまではいきそうです。実は『日本近代史−研究と教育』に確か経緯を書いてあると思うんですが、それ以後、平成8年に品川家からまた見つかったということで尚友倶楽部にご相談に来られました。それで大体の目録を尚友倶楽部に作ってもらいましたが、これがなかなかいいもので編纂中のものに追加で入れさせてもらう許可を得ました。しかし、もの自体は憲政資料室が大部分を持っているわけですから、そこに行くように斡旋してちゃんと入りましたので、いまは見ることができると思います。

 その中には福沢諭吉書簡が1通ありまして、これは福沢全集や補遺などにも収録されていないものです。福沢と品川弥二郎の関係は結局、伊藤・井上と明治14年の政変で切れてしまったんですが、そのあと藩閥の関係の修復はどこから始まったのかと思いましたら、やはり品川のところからやっているんです。品川・山県という線で明治20年前後に復旧を始めて、明治20年代になってまた伊藤・井上との関係を復旧する。福沢が当時の藩閥政府との関係を非常に上手く大人の態度でもって処理しているという感じを受けて、非常に面白かったので日本歴史に書いておきました。それをもとにして、尚友倶楽部でいま近代史の研究会をやっておりますが、そこで福沢と藩閥みたいな話をいたしました。

 次は『日本海軍史』ですが、これは小池君も含めて多くの方々にご協力をいただきました。全11巻ですが、私が直接担当したのは第2巻です。全体の編集にも非常に深く関わりましたが、こういう編纂というのは慣れない人は本当によく分からないことでたいへんイライラしましたが、何とか11巻を全部出せたと。

 その過程で「岡敬純日記」と「嶋田繁太郎日記」というものがあります。これは両方とも海軍歴史保存会という財団で出版しますからと申し上げたんですが、2つとも家族会議を開いて否決されました。しかし、確か岡敬純のほうだったと思いますが、これは封印をして預けるということで、財団が解散するときに、その同じ形で確か防衛研究所の戦史部に移管したと思います。

 嶋田日記に関しては、私は嶋田さんに聞き取りをしたことがあるのですが、そのときにご本人が開いて、その日は云々と説明をしていましたので、私は脇のほうから覗こうとしたんですが、見せてくれないわけです。遺族にも絶対にこれは人に見せるなと言い残したようです。これはしかし今後とも狙い続けていかなければいけないものだと思います。

 岡敬純は開戦時点で軍務局長で非常に重要な役割を果たした人物ですし、嶋田さんは開戦のときの海軍大臣です。嶋田さんの行動というのは、沢本日記である程度推測がつきますが、中途までは日米開戦を避けるというスタンスで、伏見宮の一言で引っ繰り返るという事態が非常によく見えてきますが、この辺は非常に面白いと思います。

 次は『山県有朋関係文書』ですが、これも長年の懸案で、アキタ・ジョージさんと広瀬君と私の3人でやっておりまして、あとで小林君、長井純市氏に参加していただきまして、いま主として作業は尚友倶楽部が進めています。

 実は尚友倶楽部と私の最初の関わりは、品川文書を出すにあたって援助を申し入れたことから始まっております。そのとき向こうは、お金を出せばいいと思ったようでありますが、編纂事務から始まり、だんだん読むほうも手伝っていただくようになりました。あそこは聖心を出た女性で、子育てが終わって何か社会的に意味のあることをしたいという、そういう人たちにいろいろお願いをしているうちにだんだんとのめり込む人が増えて、いまや大戦力になっております。ところが、いまや史料の山のほうが大きくなりまして、戦力が足りなくて何とかしなければならないという状況になっているわけですが、読める方は大分増えました。それで、山県文書は私と広瀬君とアキタさんで書き起こしを随分したんですが、その落ちている部分を相当そちらの方が埋めてくださいまして、そろそろ編纂のめどが立つ段階になってきております。これは3巻ぐらいでまとまると思っております。

 それと山県有朋書簡集というのも前から手をつけておりまして、いままでいろいろなところに入っている文書の中から山県書簡を引き出す作業をやりました。それだけではなくて、山県のところへ手紙を寄越している人の子孫を探して、「ついてはあなたのお父さんなりお祖父さんなりの手紙が山県家に来ております。当然、山県からの手紙もいっているはずなので、もしございましたらぜひ使わせていただきたい」という依頼状を出すわけです。たとえば、渡辺千秋のはたくさん来ているわけですから、渡辺のお孫さんに問い合わせをしましたら「ありますからお見せします」ということで、見せていただいたときに憲政資料室に寄贈していただく交渉をしました。その結果、了承していただきまして寄贈してもらったんです。そこから今度は渡辺昭さんという、この方は実は尚友倶楽部の理事長なんですが、私が尚友倶楽部に関わるようになってから渡辺千秋関係文書を出そうということになりまして、渡辺さんは家から尚友倶楽部に来るたびに少しずつ少しずつ史料を持ってきて、それをコピーを作った上でまた憲政に寄贈していただきました。それで例の『渡辺千秋関係文書』というのはできたわけですが、そういう形で史料収集にたいへん役に立ったわけです。しかし書簡集は、関係文書がまだできていないということで、しばらくお預けになっております。

 次の『田口卯吉』は、田口さんの子孫の方が、吉川弘文館の人物叢書に田口卯吉というものを書いて持って来られたのですが、私がエバリュエーションをやりまして、これは年譜に「てにをは」を付けたようなもので、とても吉川弘文館の人物叢書とはいえないと言いましたところ、人物叢書から外してお前が書けと言われまして、私は自分一人で書く時間的な余裕がないので、梅沢さんとか村瀬君とか梶田君などに分担をお願いして書いてもらいました。ところが吉川弘文館の方針が変わりまして、やはり人物叢書で出すので、ついては執筆した人たちの権利はちゃんと保証するけれども、田口さんの名前で出してもらいたいという申し入れがありまして、虫のいい話なんですが何とかしなければしようがないなと思っております。

 実はその田口さんの家に田口卯吉関係文書がありまして、それをお借りして筆写をいたしましたので、それはなるべく使うようにしようと思っております。これは多分、田口さんの子孫の方は早稲田大学の図書館にお勤めでしたので、そちらのほうに入ると思います。

季武 田口文書というのはどのぐらいの量なんですか。

伊藤 通数にして100通足らずだと思います。

 田口は尾崎三良と関係があって尾崎の日記にもよく出てまいりますし、尾崎文書の中にも田口書簡があります。田口の書簡自体はあちこちに散在して出ております。ですから、この逆も田口の家にあります。田口関係の史料については、田口の周辺の人々の史料について梅沢さんが大分調べてくださいましたので、梅沢さんによく聞いておきたいなと思っております。

 8番は、東京大学史史料研究会というものを作りまして、『東京大学年報』という史料集を出しました。いちばん最初は開成学校年報ですが、そこから始まって明治20年ぐらいまでのところがきちんとした年報としてあって、そこから先は統計年報みたいな形になっていきます。

 年報については非常に強い関心を持っていますが、大体明治5、6年ぐらいから各省庁が、学校もその中の1つですけれども、一斉に年報を出し始めるわけです。有名なのは内務省年報ですが、ご覧になるとお分かりだと思いますが、各局が年報を出していて、その各局の年報をまとめて文部省年報にしているわけです。

 『東京大学年報』の場合も材料は各部局から出させておりまして、それは部局の年報、さらには個人ですが、刊行した『東京大学年報』の中で非常に面白い部分というのは外人教師の申報です。それは、外人教師が今年はこういう講義や研究をして、教育の結果かくかくしかじかであったと。非常に詳しい人は、学生個人についてのコメントならびに成績までその中に含めて、それをそのまま印刷して配っているわけです。

 これは東京大学の系統だけではなくて他の学校も、あるいはいろんな施設、役所ですと局のレベルぐらいだと思いますが、そういうところで自分たちは1年間にこれだけのことをやったという報告です。そして、ちゃんと印刷をして各部局に配布したものだと思いますので多分、帝国図書館にも配布したはずでありますから、帝国図書館はあれをどういうふうにしたのかは分かりませんが、内閣文庫や何かには多少残っています。そういう類のものですが、これは非常に貴重なものだと思います。

 実は、東京大学史史料研究会が休眠状態になりましたのは、この本が売れなくて東京大学出版会は非常に泣いておりまして、次の企画どころの話ではないということです。

 次は『茨城県社会運動史』です。これは、茨城県議会史を作るときに私がそこの職員の人とプライベートに、いろいろな社会運動をやった人の聞き取りを何10人かやりまして、それをまとめて本にする予定です。これも私にとっては非常に面白かったものです。

 10番は「沢本頼雄日記」ですが、一部は中央公論に紹介したことがございます。これは開戦前後で、ちょうど開戦前から沢本は海軍次官でしたので、海軍省の内部の動きがかなりリアルに分かるものです。しかし、沢本さん自体はしばしば軍政に関わっておりまして、ロンドン軍縮のときは軍務局に確かいたと思います。その関係の史料もありますし、かなり古い時期の日記もたくさん残っておりまして、これを何とかしたいと前から考えております。沢本さんの息子さんも一生懸命ワープロを打ったりしていました。

 実は、高木日記が終わったらこれに取り掛かろうということでしたが、高木日記が終わらないし、そのうちにいろんなことが次から次へと起こりまして頓挫しておりますが、軍事史学会が『機密戦争日誌』をたいへんな苦労をして公開にこぎつけて出版いたしまして、こういう史料集をきちんと出していくというのは、学会の一つの仕事ではないかという認識がやっとできましたので、いくつか候補を上げて明日の理事会で僕のほうから提案することになっていますが、その候補の1つがこの沢本日記です。これは海軍でありまして、あそこも依然として海軍と陸軍という対立がございますので、『機密戦争日誌』は陸軍ですから今度は海軍のほうがいいんじゃないかと私は言おうと思ってますが、どうしても陸軍だという場合は、最後の陸軍大臣でありました阿南さんの日記を何とかしようと思っています。

 次は『有馬頼寧日記』です。この出発点は、大久保先生から「これは有馬の娘さんから託されているのだが、有馬頼寧の獄中日記だが、これを出版するように努力せよ」というお話がございました。それで尚友倶楽部にちょっと手伝ってもらいまして、解説を書いて一昨年に出版いたしました。これは巣鴨に入る日から出る日まで、彼はそんなに長くはいませんでしたが、その間は殆ど毎日、日記を書いてました。ちょうどこれと時期を同じくして笹川良一の巣鴨日記の校訂等をやりましたので、非常にコントラストがあって面白かったんですが、中に女性関係の問題などを回想しているところがたくさんありまして、大丈夫なのかなとは思ったんですが、別に問題もなく全文を出版いたしました。

 それが引き金になりまして、有馬さんの日記を全部出そうということで、大正の半ばから昭和2年ぐらまでの分を第1冊目にして全4冊ぐらいで出します。ついこの間までかかってゲラの最後の素読みをしまして、第1巻は今年中に出すと。しかし、前に獄中日記を1としてしまったものですから、今度は2になるということです。ちょうど大正の終わり頃の社会運動に彼が入っていく時期で、特に同和問題に対していろいろとやっております。それから、近衛とか木戸等を含む革新的な華族さんたちが、貧乏な人たちの教育をする組織を作るなど、いろんな活動をしております。社会運動家に対する資金的な援助もしておりまして、そのことについての彼の考えもある程度書いてありますので非常に面白いのですが、読んでいると女性関係が全面に出て、その間に彩りとして社会運動が出てくるという印象なんです。それで随分以前ですが有馬頼義さんが御生存中に「女性問題がいっぱい出てきますが、どうしますか」と聞きましたら、「君と僕とは観点が違う、俺はそれがあるから出すんだ」と言っておりましたので、ご子孫の意向も十分にくんで全部を出すことになっております。

田浦 日記そのものはいつまであるんですか。

伊藤 日記は昭和2年から突然昭和12、3年に飛んでしまうんです。その間がない。

田浦 20年以降は?

伊藤 20年以降はありません。

 次は「阿南惟幾日記」ですが、これは前に文芸春秋が出版をするということで、私が半藤さんに呼ばれまして一緒にやることになったんです。そのときにコピーをもらいましてザッと読みましたら、面白くないです。これは何か彩りをつけなければということで阿南さんの息子さんにお聞きしましたら、手紙がたくさん来ているというので、その中からピックアップして、日の間に挿入しようと考えたわけです。それでスタートして直に半藤さんから、実は儲かりそうもないので上から止めろと言われたと連絡がありました。僕はそのあと大分気になっておりましたので、しばらく経ってから半藤さんに、あれは一体どこまで進めたのか聞いたところ、本文をワープロに入れて打ったものは阿南さんに渡したという話でしたので、阿南さんがいま持っているはずなんです。そしたらここから作業ができるなと思いまして、海軍をやらずんば陸軍という、その陸軍のほうでこれを出版にこぎつけようということであります。

 その次は塩崎さんが発掘した「川村茂久日記」ですが、これを何とかしたいと前から考えておりまして何か機会を狙っているんですが、なかなか引っ掛かりが見つからない。それで、実は昨年から外交官のオーラルヒストリーを始めたので、いま外務省に小池君とは違ったルートで中枢部にアプローチを試みておりまして、そこで何とかしようと思っております。

 次は「近衛文麿全集」の計画ですが、これは実はゴードン・バーガー氏と前からやっておりまして、陽明文庫に近衛の文書があるわけですが、近衛の出した書簡もある程度収集しており、僕自身も少し収集いたしました。ところが、バブルの時は良かったんですが、バブルが崩壊いたしましたので頓挫してしまったんです。要するに、陽明文庫がお金がなくなってしまって援助してもらえない。のみならず、近衛が自決した部屋が残っている敷地を陽明文庫の所有に移転して、近衛文麿と篤麿の文書だけは東京で見られるようにしようという計画でした。しかも、近衛通隆さんは相当のお年ですから、遺産の問題を考えなければならないわけです。それで財団に寄付すると贈与税がかかるので、贈与税でまず土地を売らなければならない。そして売った土地に対して所得がありますから、これにまた税金がかかる。今度はさらに建物を作るための資金を得るためにまた売らなければならない。そうすると残る面積が非常に小さくなって建たなくなってしまう。こういうジレンマに陥りまして、地価が上がることがあるかどうか分かりませんが、しばらく計画が中断ということになりました。しかし全然仕事をしていないわけではなくて、少しずつ暇があるたびに仕事はしておりますが、いまのところ機会を見るといったとろです。

 次の「徳富蘇峰書簡集」ですが、徳富は非常にたくさんの書簡を書いております。徳富自身が生存中に自分の書簡集を作ることを考えて自分自身で集めたものが徳富家に残り、ある程度の部分は蘇峰記念館にあります。それを原稿化したものは徳富家にあって、これをどうしようかという話が徳富敬太郎さんという方から前にありまして、憲政に入ったものの中にも随分あるので、僕はそれもどんどん拾わせたんですが、その後またいろいろやっているとどんどんあるわけです。それで、その方ももうかなりのお年ですので、何とかしたいということを今年の年賀状で言ってまいりました。

梶田 徳富さんは書簡集より日記のほうを先にしたいとおっしゃってませんでしたか。

伊藤 それも言ってましたが、日記も両方に分かれていて、徳富家と蘇峰記念館との関係が非常に微妙で、火中の栗を拾うということは悪くはないんですが、そのためには相当のエネルギーが必要なので、ちょっといま手は出せない状態です。

 次は「斎藤隆夫日記・関係文書」です。日記の一部はかつて中央公論に紹介いたしました。それで、渡辺さんと一緒にしばしば斎藤隆夫の息子さんのところにお伺いいたしましていろいろ申し上げるのですが、チラリと見せてくれるだけです。日記は長期間に渡ってございますし、演説草稿が山のようにあります。それから来簡が段ボールに何箱もある。ですから、これは非常に面白いもののはずなんですが、非常に頑なで出してくださらない。それで私は毎年々々、年賀状に「今年こそは――」と書くのですが、どうも反応はない。しかし、今年ぐらいはもう一押しやろうと思っております。というのは、もうじき『鳩山日記』が出ますが、その中には非常にたくさんの斎藤の話が出てまいります。これを贈呈して、斎藤隆夫の日記もこういうふうにしませんかと説得をしようと思っております。それから、私は人物叢書で鳩山一郎を書くことになっておりまして、鳩山書簡が絶対あるはずですから、それを獲得するためにもと思っております。

 次は「高橋亀吉関係文書」ですが、ご遺族に接触をしましたところ、証券図書館に全部寄付したので家には何も残っていないという話だったんですが、しつこくいろいろ言いましたところ、少しは残っているので今度持っていくとおっしゃいまして、左翼の人たちの手紙や何かを持ってきてくださいました。それで、これだけということはないのではないかと思いまして家中探してみてもらったところ、地下みたいなところに書棚があってそこに何か少しあると。それをいただくことになりまして広瀬君と車で取りに行きましたところ、段ボールで10箱ぐらいあるという話でしたが、その倍はありました。それを憲政に寄付してもらいました。それで今度は証券図書館に高橋さんの息子さんから紹介状をもらいまして行きまして、向こうの係の人に経緯を説明して、史料というのは1ヵ所にあったほうがいいと思うので、もしよろしかったらこちらに保管させてもらえるとたいへんありがたいと申し入れをいたしましたら、これは目玉の一つですので差し上げるわけにはまいりませんが、お貸しいたしますのでコピーをお作りくださいと、こういう話になったわけです。それで、少しずつ借りてきてはコピーして返す作業が進行中ですが、国会図書館ではコピーが終わらないうちは公開しないようなことを言っています。しかし、高橋文書は将来的には全部を憲政で見ることができるようになる、そこまで仕掛けだけは作って終わりました。高橋文書は非常に僕は面白い史料だと思いますし、これで戦前から戦後にかけてさまざまな形で分析ができるデータだと思っております。

 19番の「鶴見祐輔関係文書」ですが、ハワイ大学のミニチェロさんが鶴見研究をするということでしたので、鶴見和子さんにアプローチをいたしましたが、実はアメリカ人の研究者で前に鶴見にアプローチした人がいまして、その人は私を指導教官にしておりましたので、彼は自分でコピーを作るときに2部作りまして1部を私に贈呈していたわけです。ところが、それを使うことができない。それで和子さんに手紙を書きまして、お目にかかってご相談したいという話をしましたら、「あなたのところにもコピーがあるんでしょう、いいわよ」というので見せていただきましたところ、これはたいへんなデータだなと思いまして、その当時は憲政を充実させることに全力をあげておりましたので、憲政にぜひ入れていただきたいとお願いをいたしました。

 結局これは憲政に入ったわけですが、日記だけは駄目だということで日記は後回しになりました。それでこの日記を何とかしたいということで、年賀状で毎年々々書いておりましたら、ある年突然「もうすでに寄贈しました」と言ってきたんです。国会図書館は僕がそういうことをしているということを知っているはずですから、一言いってくれたらどうかと思うんですが、それをやらない。

 いま実はこの日記をミニチェロさんと二人で起こしながら読んでおります。やはり非常に面白い日記で、この日記を中心にまたデータを全部組み直してみると、当時の日米関係をこの人たちが一体どう考えていたか、それからまた鶴見がどういう人脈で動いていたかということが、かなり分かってくるような気がしております。

 次は「蝋山政道関係文書」ですが、ミニチェロさんが蝋山文書を何とかしたいということで、それで中央公論の嶋中鵬二さんの奥さまは蝋山家さんのお嬢さんですので、そこで縁を使って蝋山家からミニチェロさんが借り出すことができたんです。それは随分長い間ハワイ大学の彼女のロッカーの中に入っておりましたが、僕はそろそろ返せと言って、それでミニチェロさんは返したので、蝋山道雄さんにその後、返ってきたのを見せてくださいと言っているんですが、どういうわけか見せてくれない。それでこの間、嶋中夫人にお会いしましたので、あれはぜひ我が大学で整理させてもらいたいと申し入れをしましたところ、よく話しておきますということでしたので何とかなるかなと思ってますが、これもまた大仕事でございます。

 この蝋山文書の一部をミニチェロさんが使って、特に昭和13年の上海会議ということを書きました。それで私もその後の追跡をしたものをあとで紹介します。上海会議というのは、中国にいかなる新しい政権をたてるかを議論する向こうの特務機関との会合で、中西功という戦後は日本共産党の大物になり、またクビになっておりますが、その人も会議の中に入っているんです。そして松本重治もその中に入っていると。そういうところも私は非常に面白いと思いまして、蝋山文書へは相変わらず情熱を持っております。

 2223は重点領域研究で戦後日本形成の基礎的研究のときのお話でありまして、「三輪寿壮関係文書」は、軽井沢町立図書館にあるということを山室君が聞きつけて山室君の車で私と季武君が行きましたところ、目録も何もなくて茶箱か何かに入っていたんです。それで、その場で季武君お得意のパソコンに打ち込んで目録を作りまして、それを置いてまいりました。

 ただ、非常に重要な部分を林茂先生がお借りになっておりまして、借用書がございました。その借用書に書いてあるものは、現物はそこにはないので、借りたままになっていることが分かりました。そこで、林先生はもう亡くなられましたので、そのとき林先生の下で誰がやったのかということを聞き合わせまして、そちらに問い合わせをいたしましたところ、どなたもよく分からない。もしかしたら林先生の遺品の中にあるのではないかという見当をつけておりますが、林先生の奥さんもいまはもう旦暮に迫るということで、林先生の本等はオックスフォードかケンブリッジのどちらかに寄贈することになっていて、そのまま行ってしまったらこれは困りますから、これを何とかチェックしたいと思ってはいます。

 それで「松村謙三関係文書」へのアプローチもしましたが、これは厄介な問題があります。富山県福光町に記念館があって展示があるのですが、そんなにものであるわけはないんです。桜田会というところで私どもは町田忠治を担当したんですが、早稲田のグループが松村を担当して、慶応のグループは大麻を担当していたんです。それで松村家からそこが大量に史料を借り出しているはずなんですが、私どもと大麻のほうはもうすでに本が刊行されたにも関わらず、松村のほうはもう10何年経っていると思いますが一向に出る気配がないので、早稲田のグループにもう一度きちんと接点を持とうと思っております。

 いま桜田会との接点は大事にしておりまして、季武君の刊行助成金などをいただきましたし、そこの理事の田川誠一さんのインタビューをいまやっております。

 そのあとのオーラルヒストリーですが、やはり重点領域研究で河上民雄さんとか和田一仁さん、山本幸一さん、それから田崎末松さんともう一人誰かにやったはずですが、ちょっと名前を忘れています。それで河上さんは、河上丈太郎日記を自分で出すと明言していてなかなか触らせてくれませんが、一向に出る気配はないので、これもまた年賀状でどうなりましたかとやっております。そのうち多分、ギブアップするのではないかなと思って待っています。戦争中から戦後にかけてずっと置いてあるそうですので、これは狙っております。

 次の「石井光次郎日記」は、石井さんの遺族――光一郎さんという日本会議の中心人物と石井好子さんにもお会いしまして頼みました。これも重点領域研究のときにアプローチをしたわけです。そしたら日記だけあるということで昭和10年ぐらいから戦後まであるんですが、戦後は非常にラフな日記になります。飛び飛びでたまに書いている日記ですが、たとえば、鳩山家で会合が行われて鳩山がトイレで倒れる場面などは書いてございまして、非常に臨場感のあるところです。そういうものをまとめて『THIS IS 読売』に紹介をいたしました。

 ただ、これは全体を出したいと思っています。石井は戦前から戦争直後ぐらいまで朝日新聞の幹部で経営面での最高責任者でありまして、その時期の日記を見ておりますと、この人は緒方の子分ですから情報局総裁の緒方とのやりとりとか、読売の正力さんと経営上の問題――特に広告費をどうするかとかいう話とか、東京新聞になりました都新聞の福田という非常に有名な経営者がおりますが、新聞統合の問題をめぐっての彼らとのやり取りなどもなかなか面白いところがあります。朝日新聞の社史編集室に謎をかけたんですけれども全然関心がない。それなら自分でやろうということで、これも尚友倶楽部に手伝ってもらって書き起こしなどを進めているところです。昭和17年、18年、19年、20年、それから20年以後はワープロ化が終わったところです。

 次の「鳩山一郎・薫日記」は前から狙っておりまして、鳩山威一郎さんにお願いにあがったりなどしたんですが、鳩山威一郎さんが亡くなるちょっと前の頃で、糖尿で表情もなく何だかわけがわからないうちに終わりになって帰ってまいりまして、これでは駄目だなと思っておりましたところ、スタンフォードのフーヴァー・インスティテューションのワークショップに片岡鉄也君という人がおりまして、いろいろ話しているうちに鳩山由起夫は俺の親友だというものですから、彼の方から話をしてもらいました。それで僕は手紙を出して、鳩山安子さんと由起夫さんから、全部コピーしたからと渡していただいたわけです。その後、昭和26年で倒れてそこから先がないというのは何とも情けないということで、向こうにお話をいたしましたら、薫さんが日記を書いていることが分かりました。見せていただきましたところ何時登院などと書いてありますから、これは要するに一郎に代わって書いているんだということが分かりましたので、鳩山一郎が死ぬまでのところを本にさせてくださいとお願いしましたところ、了承していただきましたので、またそれもコピーをいただきました。

 それで、4月に『鳩山一郎日記』は出すことになっておりまして、最後の素読みを私がしておりますが、中央公論の人たちが日記を立てて写真を撮って口絵にしようということで鳩山記念館に行きましたら、昭和6年ぐらいからの日記がありましたということなんです。私もちょっとびっくりいたしまして、安子さんのお話を伺ってああそうかと思ったんですが、鳩山会館を作るときに全部整理をして、いろんなところから見つけだして全部あそこに持っていきましたというお話でしたので、私に最初コピーを渡してくれたときは、13年からしかなかったんだと思います。そのあと昭和6年から10年ぐらいまでの分が見つかったということのようです。それで中央公論の人は、これは中央公論が出さなければいけない義務でありますと言ってますが、また作業をする人はたいへんだと思って、ちょっと心配しております。薫日記が今年の夏ぐらいまでかかって全部の索引や解説をつけて出しますので、それが終わったらまた次の作業というふうに、これは一巻の終わりというわけにはいかなくなったわけです。

 次は「酒井三郎日記」ですが、酒井三郎というのは昭和研究会の事務局の人で、『昭和研究会』という本を書きました。あれは確かに日記がもとになって書いていますので、私は酒井さんが亡くなられたあと奥さまにアプローチしまして、戦後の日記もありましたが、戦前期の昭和研究会に関わってと、それから戦後ちょっとの時期、他の団体――緑風会にもちょっと関わったのか、それぐらいのところまでの日記をお借りいたしまして、それをワープロ化いたしました。しかし、こういうのはなかなか発表の機会がない。そこで、この政策研究院では自分の研究費で報告シリーズというのを作るんですが、それで何10部か作って、ご関心のある方はどうぞという形で頒布しようと思っております。これは全部出してもよいということでしたので、その紹介自体は日本歴史にちょっと書いておきまし。

 次は「山本勝市関係文書」です。山本勝市はあまり有名な人ではないのでご存じないかもしれませんが、山本勝市についての覚書というものをつけて、亜細亜大学の日本文化研究所の紀要に3回に亘って連載をいたましたところ私がここに移ることになりまして、それで私がここに移りましたら日本文化研究所というのはなくなって、紀要もなくなったと。それは4で終わりのはずだったので、それをまた出そうと思っていま準備をすすめております。

 山本勝市という人は自由主義経済論者で右翼という、そういう意味で革新派の対局にある人物です。実は鳩山日記にもしばしば出てくる人物で、戦後は自由党を作るときの政策綱領の立案などにも深く関わっている人物です。その後、自由党の代議士になって、入ったり落ちたりを繰り返して大した政治家としての出世はしなかった人物ですが、どこかの講演でこういう面白い人物がいるという話をいたしましたら、いま拓大の総長をされている小田村四郎さんから関係ある史料を送ってもらいました。それでこちらから山本勝市についてまとまった史料が何かあるのかお聞きしましたら、「いまうちの兄貴が整理をしている」と。兄貴というのは小田村寅二郎で、矢部さんをいじめた有名な右翼ですから怖いなと思ったんですが、当時は銀座に国民文化研究会というのがありまして、そこへ恐る恐出掛けましたところ、たいへん穏やかなおじいさんで、「どうしたらいいか困っていたところだが、君はどう思うか」と聞かれたので、「国会図書館にぜひ入れてください」と申しましたら、遺族とも相談をして了承を取ろうということになりました。それで、ご遺族に僕も直接会いまして納得していただいたので、国民文化研究会が目録を完了したところで寄付するということで、目録つきで寄贈が行われました。目録はかなり立派なものですが、問題がないわけではありません。

 そのときにご遺族が日記だけは駄目だということで日記を外されました。それで僕はその日記が欲しいと言いましたら、あなたに貸してよろしいということで、それで日記を借りて全文紹介をやり続けてきたわけです。これを見てまして非常に面白いのは、小川平吉とか真崎とか鳩山などといっしょに、笠信太郎の日本経済の再編成批判ということで、経済新体制のときに反対派としていろいろ活躍をするのです。要するに、矢部さんの精神右翼と自由主義者が結託しているという、まさにそれを絵に書いたような人脈ですので、これまた面白かったと。もう殆ど出ていますが、いずれ全貌を出すことになっております。

 29はもっぱら塩崎先生にご協力をしたということでありますが、「古沢磯次郎関係文書」です。古沢さんは昔インタビューをしたことがあるんですが、どれがそのテープか分からないという状況です。古沢という人は確か茨城の出身の人で、その関係でやったんだと思いますが、そのときの史料はたくさんあるということを本人は言っておりました。アプローチしたのは塩崎先生でありまして、これも重点領域研究のときに収集してコピーを作り、最終的には憲政資料室に寄贈か買ってもらったのか、とにかくそこに現在ございます。

 次は『佐藤栄作日記』ですが、これは前から狙っておりまして朝日の人たちに、一度は契約まで作ったんだから再開するように何とか働きかけろと繰り返し言っていたんですが、なかなか難しいというお話で、平成6年に斎藤隆夫顕彰会での講演で竹下さんから佐藤栄作日記の話を聞きまして、竹下さんに協力を求めて、朝日がもう一度、佐藤家に働きかけて、どういう形でやったのかは分かりませんが、竹下さんが多分働きかけてくれて、それで出せるようになりました。そこに書いてあるような経緯で私の手も最終的に離れまして、4月に完結予定です。

 これもなぜか岸内閣前後の時期だけは抜けておりまして、非常に面白い時期のはずなのにそれがない。誰かに貸したという話なんですが、日記を借りられるとしたら兄貴である岸しかいないということで、岸家をいま一生懸命追及しているんですが、岸家は見当たらないと申しております。あるいは岸の秘書たちがどうかしたのではないかというので、いまはそちらを追いかけておりますが、見つかりしだい朝日新聞は出すと言っております。

 31は、三笠宮の「支那事変に対する日本人としての内省」という昭和19年かなにかの文章を紹介したものにコメントしてくれと言われまして、須崎氏とは全然違った視点からコメントをいたしました。須崎氏は、三笠宮が戦後ご承知のように進歩派でございますので、三笠宮は反軍国主義だといわんばかりのことを書いたんです。私は三笠宮の文章のポイントは、日本とソ連と中国が団結すれば将来の展望が開けるんだというところにあると読んだわけでありまして、そういう解説を書きました。そしたら柴田さんは、あれはすでに公開されているもので新史料でも何でもないというので、僕は慌てて見ました。そしたら確かにそうなんです。そうなんですけれども、私がポイントだといったところはスポッと落ちているものでありまして、肝心なところを何で削ったのか、逆にあれを編纂した方に何か意図的にそこだけ落としたのか聞きたいようなところでございました。

 33の「水野直日記」の刊行計画というのは、これは一部を西尾林太郎氏と一緒に紹介したわけですが、全体を何とかしようということで、尚友倶楽部で出版の計画をしています。内容的にはそれほどすごいものではありません。いちばん内容のあるところは、すでに紹介してしまった部分です。

 35の「渡辺国武関係文書」の編纂刊行の計画は、随分昔に渡辺千冬の文書を探しに行って国武文書にぶつかって、国武文書をマイクロフィルム化して社研の雑誌に主なものを紹介したわけですが、当主の武氏は尚友倶楽部の理事で、私が借りて「これは大事なものですから厳重に保管してください」といってお返したんですが、あまり厳重に保管しすぎたのか、どこにしまったのか分からなくなってしまったというんですが、探しているうちに別なものが出てきたということで、別なものを大分出していただきました。いまそれをワープロ化している段階で、これもなかなか面白いものです。憲政資料室にも一部ありますので、それも含めて渡辺国武の関係文書を出版する計画です。

 次の江戸さんのは、財閥解体関係の事柄について三井関係のことを聞いておこうではないかということでお聞きしたわけです。本当は林彦三郎という、これは重光の日記の中に絶えず出てくる人物で吉田との間を斡旋したりなどしているので、その人のことも聞こうと思ったのですが、要するにけしからん奴だという話だけで、それ以上の話はあまりありませんでした。それで、三信ビルというのが僕はどこにあったのかよく知りませんが、それをめぐって暴力団が絡んで、銀座警察がどうのこうのとか、銀座警察というのは要するに暴力団なんですが、そういういろんなゴチャゴチャがありましたので話したくないということで、その話をうけたまわることができませんでした。ただ、林彦三郎の問題は佐藤日記の中にも出てまいりますので、それで林彦三郎という人間を追わなければと考えております。

 次はオーラルヒストリーです。文芸春秋の平成8年の1月号だったと思うんですが、僕が佐藤誠三郎氏と対談をしまして中央公論の巻頭か何かに出したんです。中曾根さんはそれを見て聞き書きを私達にさせようと思ったようで、文芸春秋が間に入って聞き取りをいたしました。中曾根さんの『天地有情・五十年の戦後政治を語る』という名前の回想録ができあがったということであります。私としては岸さんのインタビューをやって以後、久方ぶりの元総理大臣のインタビューで、中曾根さんはお喋りだったので僕は大分楽にやりました。

 途中で「この時期の日記がありますか」と聞きましたら、「日記はずっと書いているわけではないけれどもときどき書いていた」ということでしたので、お話になった部分の日記を出していただきました。あれをよく読んでみると分かると思いますが、喋っていることと日記の記述は必ずしも整合的ではない。ですから、かなり日記は信用できるなと私は思ったんですが、出してくださったのを見たらワープロでございましたので、これから日記はワープロになるなと。そしてワープロだと改訂版ができると思いまして、将来どうなるだろうかということが気になりました。

 次は、帝国議会秘密会議議事録の公開で、渡辺さんや伊藤さんと憲政記念館の展示などの際に公開してくれないかという話をしばしばしていたわけですが、秘密会にするという規定はあるけれども、秘密会の議事録を解除する規定がないというようなことで、それをやるためには法律を作らなければならないような話をされたんです。ところが、なんのことはない土井さんの一言であっという間に公開になりました。

 その公開をめぐってはいろんなことがございました。それで、いろいろそれについてコメントを求められたり、またそれについての文章も書かされましたが、いちばん面白かったのは、あれが出たときに尚友倶楽部に朝日の記者が取材に行ったんです。それで、今度公開されたものの他に貴族院特別委員会小委員会の筆記要旨というものがあって、それは自分たちがコピーを持っているということを話していたにも関わらず、そのあとを全然追わなかったんです。僕はちょっと読んでみましたが、これは実に面白い。しかし、それは正式の議事録ではありませんので出さないということでした。それで、参議院事務局に相談などするといろいろとうるさいから、出してしまってから何か言ってきたら対応しようということで出してしまいました。ところが、出すぞ出すぞと言っているうちに、どうも参議院に聞こえてしまったらしいんです。そしたら参議院は何月何日に公開すると言い出したので、それまでに出さなければこっちは意味がないので、その年の暮れから新年にかけて大車輪で作りまして、公開される1週間ばかり前にこのパンフレットを出したわけです。

 これを見ておりますと、たとえば、芦田委員会秘密会の指別委員会小委員会議事録では、肝心なところにいくと速記停止で、速記停止が終わりますと全然別な話になっているんです。ところが、これは正式な議事録ではありませんのであけすけにいろいろ言っておりまして、吉田総理も金森国務省も結構ペラペラといろんなことを喋っています。議員さんたちも非常に憤懣やるかたないというようなあからさまに喋ったのが出ており、日本国憲法の制定の裏側を覗くのにたいへん面白い史料です。

 次の「矢部貞治関係文書」の整理ですが、これは伊藤さんが憲政記念館の展示のために矢部さんにアプローチして日記を出してもらったりなどをしていた関係で、憲政記念館に預託になっておりましたので一部整理をしたんですが、とにかく毎年展示会をするものですから、整理をしている時間的な余裕がなくてそのままになっております。伊藤さんがお辞めになるということで、あのまま置いておいたのではどうなるか分かりませんから、矢部さんの息子さんとお話をいたしまして、ここに寄贈していただくことになりました。いま鋭意、目録作りを進めています。

 これがもとになりまして、ここの学長の吉村さんのお父さんが吉村正という政治学者で自民党や何かに関わった人ですから、あの人の史料も出してくださるということになっております。これも非常に面白い史料で、戦前・戦中・戦後ということでいろんなものが入っております。

 次は『水野錬太郎回顧録・関係文書』ですが、これは西尾君との関わりでやりました。西尾君が、水野さんにアプローチしているんだけれどもなかなか上手くいかないので手伝ってくれというので、水野さんの息子さんに会いに行きました。それで行っているうちに巻物が出てまいりまして、原敬からの書簡や何かが出てきましたので、これは本にしようということで前から計画をしておりましたら、尚友倶楽部がやってくれることになり、昨年の12月にできたところです。これをまとめるのには相当手間ひまかかりましたので、私も大分お手伝いをいたしました。

 ところで、45に「児玉秀雄関係文書」とありますが、この児玉秀雄関係文書の目録をみながらどれを出版しようかと考えて見てましたら、原敬から水野錬太郎宛ての書簡があるんです。それから水野錬太郎の意見書などもあります。多分、児玉は寺内内閣の書記官長をしていた関連かなと思っております。

 42は「樺山資紀関係文書」ですが、中曾根さんのインタビューのときに文春の白川君という、いま新書の編集長をしている人と一緒にやったわけですが、「あなたみたいに顔が広い人は、僕と一緒に仕事をしたら必ず一つぐらいは、どこか史料のあるところを人脈で探して提供してくれなけば駄目だ」という話をしましたら、知り合いに樺山さんと親しい人がいるということだったんです。しかし、樺山資紀の関係文書というのは憲政にあると言ったんですが、でも何かあるらしいという話でしたので、その人にも一緒に行ってもらって樺山さんにお会いしましたら、ありますということでした。それで、ついでに愛輔さんのものはありますかと伺いましたら、それもありますと。それで、まず資紀文書を出してくださいまして、これは憲政にあるものと合わせると実によくいろんなことが分かるという仕掛けのものでございます。いま仮目録がやっとできた段階で、その仮目録をお見せして、こんなふうにやりますよといったら喜んで、今度は愛輔さんの史料を出してくれました。

 それで愛輔さんの文書の中に多分、あの人はアメリカとの関係が非常に深いですから、アメリカン・カウンシル・オン・ジャパンについての史料が絶対あるはずだと思ったんです。それで尚友倶楽部の講演で「アメリカン・カウンシル・オン・ジャパンと渡辺武」というタイトルで話をすることにして、それまでに愛輔さんの文書が来るつもりでおりましたら、それがちょっと伸びましたので、やむを得ず渡辺武日記で、とくにあれにはパッケナム、カウフマンなど関係者がたくさん出てきますので、そのことを話したわけです。そしたら、あそこの理事が慌ててもういっぺん樺山さんに交渉しまして、愛輔さんのが最近入ってきました。ザッと見ましたら、キャッスルから牧野さん宛ての手紙のコピーと、それに同封されてきた書類のコピーがありまして、全部アメリカン・カウンシル・オン・ジャパン関連のものでした。それで今度は「樺山愛輔と牧野伸顕」というタイトルで次はやるぞと予告をいたしました。

 それで、牧野さん宛てのもののコピーが樺山さんのところにあるんだから当然、牧野文書にも入っていると思いまして憲政に行きました。そしたら全然ないんです。戦後のものは殆どありません。それで、これは一体いつ購入したのか聞きましたところ、牧野さんは昭和23年ぐらいに亡くなられたんですが、昭和25年か6年ぐらいに買っていました。ということはつまり、まだ占領中なんです。そこでいちばん新しい部分は多分、リザーブしてしまったんだと思うんです。それで、研究会には実は牧野伸和さんが毎回必ず出席されるものですから、その経緯の話をして、牧野さんの家にあるはずだとその席で言って、次の機会に出してもらって、今度はこれがテーマになると話をしようと思っていたら、牧野さんは病気で入院いたしまして、これは頓挫いたしました。

 しかし、牧野文書はあそこにあると思いますので、ちゃんと後を追わないと駄目だと思います。だから憲政の人にも言ったんですが、憲政で最近、牧野文書の目録を新しく作り直しています。それをまだ牧野さんに送っていないというので、僕が渡すということでコピーをもらいまして、牧野さんが来なかったものですから、牧野さんの親戚の交野さんという方にお渡して、ちゃんときょうのお話の趣旨を伝えてこれを渡してくださいとお願いしました。そういうフォローをしませんと、残存物が必ずあるはずなんです。

 次の「木戸孝允関係文書」は、西川君と堀口氏が企画をいたしまして、私を代表者に担ぎまして、私も一部受け持ってやっております。これはまた非常に厄介なことでありまして、書陵部が整理がなかなか進まないということで、書陵部との間にいざこざもございます。しかし、大体もう見切り発車でやるということで、みっともない部分は書陵部のせいということを謳って出しちゃえと、こういうことでいよいよスタートすることになりました。刊行開始は再来年ぐらいで、毎年1冊ずつそれから出していこうということです。あれは通数が非常に多いので、特に幹事である西川君と堀口氏の負担はたいへんなものでありますが、何とかやってくださると思っております。

 44は、亡くなった酒田君が預かっておりました「安部井磐根関係文書」ですが、これは実に面白いものです。しかし、非常に困ったことに、酒田君が書いて目録を作ってあったわけですが、目録が完璧ではなくて目録外のものもあったんです。それだけではなくて、誰から借りたのか分からない。多分この人ではなかろうかと見当をつけてみましたら、どうも貸した人は亡くなったらしいんです。それで、その遺族というのが非常に複雑でわけの分からんことでしたが、何とか遺族の間で協議をして代表を出していただいて、これは憲政資料室にぜひ寄付してもらいたいと交渉をいたしました。それで、向こうも会議を開いて納得して入れてもらいました。目録がある部分についてはすぐ公開したらどうかと憲政に言いましたが、全部目録を作り直しておりますから、まだ公開になっていないと思います。これも一時が万事のうちの一つの例として非常に憤懣にたえないところであります。

 次が「児玉秀雄関係文書」で、木戸孝彦氏がある日電話をかけてきまして、児玉家が絶えかかっていて、おばあさん1人が残っていて、史料が残っているがどうしたらいいのか分からないと自分のところに相談があったという話でした。私はすぐに連絡をとりまして、宅急便で尚友倶楽部に送っていただきました。いま尚友倶楽部の助けを借りて整理をして、目録を作成していますが、児玉源太郎関係文書も少しあるんです。そこで桂内閣の地租増■延長問題をめぐるときの桂の上奏文というものを一応紹介しながら、こういう史料があるということをちょっと書いて、さらに大正14年の吉田書簡を紹介する形で児玉秀雄のことも書いたわけです(『日本歴史』)。

 実はつい昨日も整理をしていましたら吉田書簡がもう一通出てきたということで、これもそのうち何かの形で紹介しようと思っております。これは一部筆写といいますか、必ず入れるというものからどんどん…どんどん入力をやっている最中ですが、これは季武君と一緒にやろうと思っています。

 次は笹川良一の『巣鴨日記』で、これもいろいろあります。

 47ですが、斎藤静さんという方は有馬家から斎藤実の息子さんのところにお嫁にいった方で、大久保先生と昔からよくお知り合いで、大久保先生のお嫁さんの話を聞きますと、静さんが来るというと大久保先生がたいへんお喜びになるという、昔どういうことがあったのか知りませんが、そういう方だそうです。この方がその後、斎藤実関係文書の一部が出てきたということでお持ちになりまして、これは憲政資料室に確か寄贈して頂きました。

 次はオーラルヒストリーですが、もともと重点領域研究のときに始めていたオーラルを御厨君が責任者になってオーラルについて独立して科研費申請を出して、私は顧問的な感じで名を連ねたわけです。それをこの大学の正式のプロジェクトとして認定していただき、予算をつけてもらっていよいよ大掛かりに始めたわけです。それで、平成9年11月に「オーラルヒストリーと政策研究」という題のシンポジウムをやりまして、中央公論社からその速記をまとめたものを本にして出したということでございます。

 ここからまた副産物がありまして、そのプロジェクトの最初の正式な仕事が後藤田正晴氏のインタビューで、『情と理』という本になって出ました。これは上下各10万部ぐらい売れたということで後藤田先生もたいへんお喜びでございました。

 つい数日前に後藤田さんにお会いしましたが、それはオーラルヒストリーの法律関係をどうするかということで伺いまして、契約を結んでオーラルの権利関係を将来的にどういうふうに決めていくかという案をいま作成中です。これをやらないと著作権問題が非常に厄介なことになりますので、それをいま進めているところです。

 53番は渡辺恒雄読売新聞社長の聞き取りで、これは去年の夏にやりまして、冬からいまも『中央公論』に連載中です。何か途中で変なものが出まして、あれはちょっとパクリのような感じがしますが、あまり気にしないでやっております。これやっている最中に渡辺さんは中央公論社を買いまして、我々としては非常に奇妙な感じになりましたが、渡辺さんもたいへん気にしまして、我々を後楽園の日米野球初日にご招待ということで、誠にどうも無愛想なことで申し訳なかったというご挨拶がありました。

 次の有馬元治さんは、内務省そして労働省と、戦争中は軍需省の総動員局に勤務しておりまして、その話から始まって労務というような関係をずっとやってこられ、他方で国防問題に従事しておられた議員さんです。この方が非常に面白いお話をしてくださいまして、これは楠精一郎氏と一緒に20回以上インタビューをしました。実は海軍歴史保存会で日本海軍史を作るときに氏が理事長をしておりまして、そのときからの長い付き合いでございます。

 61番は田川さんのオーラルヒストリーについてですが、伊藤光一さんにも参加していただいて、同時に自治大臣時代の日記を提供してくださいましたので、いまこれをワープロ化する作業をやっております。

 それから、渡辺武さんのところでダレスとの秘密会談の話が出てきましたが、そこに参加していた一人が海原さんですが、海原さんに後藤田さんの出版記念パーティーで会いましたので、話を聞きたいということでお願いしましたら快く引き受けてくださいまして、これもいまやっている最中です。

 外交官のオーラルヒストリーは今月から始まったところで、すでに数回の座談会をやりましたが、何人もの方を集めて座談会をしますと、皆さんそれぞれお話になるんですが、お話の途中で他の人が割って入るものですからどうも欲求不満になるということで、念には念を入れて三回やりましたが、次回からはお一人お一人からお話を伺うということで、いま全員の話をそれぞれ聞くプロジェクトを作りまして、今月からスタートいたしました。

 それでオーラルはいろんなところで始めまして、50番もその一つです。関科学技術振興財団というのがありまして、ここで虎の門病院の中心人物であった浅井一太郎という86歳のおじいさんからお話を伺ったり、山崎さんというTDKの元社長のインタビューをしましたが、インタビューが終わってからこの方は亡くなってしまったので非常に困っております。その後は王子製紙元社長の河毛さんという方から4回お話を伺って、私も紙については随分知識が増えました。これらはいずれも出版に持ち込む話であります。

 52番は『大本営陸軍部戦争指導班・機密戦争日誌』です。これは直接には関わりませんが、これを公開しかつ出版できるようにすることについて督励をしたということでありまして、これは会長としての役目だろうと思ってやりました。今度は続きをやろうと考えております。

 55の矢次関係のものは、ここに書いてあるようなことであります。

 56番は、去年ある古美術商から伊藤博文関係文書を持っているという情報が入りまして目録を見せてもらいました。それで我々が編纂した伊藤博文関係文書と照合してみましたところ全然重複がないので、全く別系統で流れたものだということが分かりました。ということは、平塚さんがタイプ版を作る以前に伊藤家からなくなっていたもので、外遊日記なども入ってました。それで国会図書館の憲政資料室にすぐこれを買ったらどうかと話をいたしましたら、予算がないということなんです。それで「伊藤博文関係文書が国会図書館にあって、他からも出てきたのにそれを買わないで他が買っていいのかと」と言いましたら、「まあ、仕方がありません」と言うので電話で怒鳴りあげてしまいまして、「早速、上司に言え」と。そしたら上司のほうは少しは分かったらしくて早速予算手当てをしましたが、最初に古美術商が私に大体これぐらいで売るつもりだと申していたよりも高く買わされたようです。それでもとにかく久々に大物が入ったということで、憲政資料室がたいへん喜んでおりました。

 57番は、伊藤光一さんと一緒に松本剛吉の遺族のところに行きまして、念のために日記・日誌を全部見せてもらいましたら、昭和4年に彼は亡くなるんですが、昭和4年の亡くなるまでの日記が3種類ぐらいあるんです。それをこの間からワープロに入れて検討しているんですが、どれが草稿で、それに手を入れたのがどれで、最終はどれなのかが分からないんです。こっちに書いてあることがこっちには書いてないとかそういうのがありまして、そのときに伺いましたら何か屑みたいなものがまだあるということでしたので、それを全部見せてくださいということでお願いしております。確か西園寺さんからの手紙もあったというお話でありましたので、これは絶対に追おうと思っております。

 あと注目すべきものは59番で、読売新聞社の『昭和史の天皇』全30巻の元になりました聞き取りテープを寄贈していただきました。これは広瀬君が連絡をとってくれて会いに行きまして、読売の人といろいろやっているうちに、2人ですぐ目録を作りましたが、目録を作って眺めてみると聞いたはずのテープが随分ないんです。しかし、これはできれば我が校に欲しいという話を内々にしておりましたら、担当者が退社することになりまして、どういう手続きをしたのかよく分かりませんが、宅急便で送ってくれました。いま武田君が一生懸命それをMDに入れようとしていますが、リールの止めのところが落ちていたりして聞けないのがかなりあるんです。それをなんとか修復してダビングする計画ですが、これからまたそういう声の部分を少し広げていこうと考えています。

 63番に山県有朋談話録の追加と書いてありますが、これは二上さんの遺族が持っていたんですが、実はこれは多分、枢密院の解体のときに入江さんのものを預かったか何かで、これは入江さんのものだと思います。はじめ目録があって、大正政変記といわれるものがありますが、あのあとの動きを大隈内閣の崩壊のところまで談話したものを筆記して山県自身が手を入れているものです。これはもう前に出したわけですが、その目録のないものを何とか見つけてくださいと申しておりましたところが少し出てきているので本にしたわけです。そしたらそのあとまた入ったんです。その部分で全然連絡がなかったので知らなかったんですが、この前念のためにと思って見に行ったら新しいのが入っていて、それでかなり外交の部分が埋まりまして、この間全部それをワープロに入力いたしました。これもここの出版物として出して皆さんに配ろうかなと思っております。

 最後に、史料やオーラルの形で政治情報を中心に日本近代史の情報をどんどん収集していく作業をしているわけですが、これは組織立ったものにしなければいけないということで科研費を申請しているわけです。続けて皆さんにまたご協力を得まして、来年度からの計画の申請をいま出しているわけですが、これも何とかして取ろうと考えて行動を開始しているわけです。具体的には、国の機関として前近代の史料のセンターというのは、これは間違いなく東大の史料編纂所だと思います。しかし、近代のものはセンターがない。国立公文書館はそういうものにはなりえないので、私としては情報のセンターがあればよろしいということで始めたわけでありますが、最終的な着地点をどのようなものにしようかということで、政策研究大学院大学付属の全国共同利用施設として日本近代史料情報センターを立ち上げることがいちばんやりやすいのではないかと考えて、来年度の概算要求に出してもらいたいと学長に申し入れています。

 一方、先ほど申しました有馬さんが、それは非常に意義のある仕事で、意義のある仕事というのはどこから始めなければならないかといったら、土地の取得が先決問題であると。それで有馬さんは、六本木の防衛庁跡地の本館がよろしいと言っております。あれはいろいろ地下の施設もあるし云々というお話なんですが、あれは大蔵省の特別財政か何かに入っていてそう簡単に出せるものではないんですけれども、有馬さんの話を聞いていると、そんなことは何とかなるんだという話で、本当かどうかは分かりませんが、とにかく肩を入れてくださっていることは間違いありませんので、そのお助けも得たいとは思っております。本格的なセンターを立ち上げるということを、少なくとも来年・再来年の間にめどをつけたいと考えておりますので、皆さんのご協力を得たいということでございます。

季武 ご苦労さまでした。私も断片的には先生からいろんな史料の話は聞いておりますが、こういうふうに体系立って聞くとまた随分すごいものだなと思いました。先生が毎年ゼミで自分の仕事の一覧というのをあげてますが、それが大体40ぐらいだったと思いますけれども、きょうは重複を入れても63ですから、これは最近になって随分やっていらっしゃると改めて思いました。あと40分ぐらいですが、どこからでも質問していただければと思います。

矢野 先生のお話の中にはなかったんですが、山本勝一の史料紹介の中で、郷古潔さんの日記を先生が見せてもらったということを臨場感のある記述でお書きになっていたんですが、それはどういうふうになっているんでしょうか。

伊藤 これはまた尚友倶楽部なんですが、あそこで郷古潔という人のことをどうしても知りたいんだと話をしておりましたら、郷古という姓はめったにない姓ですが、ある方が私の知り合いに郷古さんという人がいるが、多分そうではないかということで問い合わせてくれたんです。そしたらそうだということが分かりまして、私は手紙のやり取りをしたわけです。その結果、日記は絶対に見せたくないが、何日の何に関する記述という指定をしてくださったら、その部分を書き抜いて差し上げますということでしたので、山本さんの日記に郷古さんの名前が出てくる日付を書いて、この日とその前後で山本という名前が出てきたら書き抜いてくださいと頼んで、それで送っていただいたわけです。

 それで、あの人は三菱重工の確か社長だったんですが、三菱は政治に関与することはまかりならんと言われていたも関わらず、彼は大政翼賛会に関わったわって、それで辞めさせられた形になっているわけです。ですから、あの当時の財界人と政治の関わりというものを私は知りたいと思いまして、これは将来とも触れていこうと思っておりますが、なかなか向こうはガードが固くてそう簡単にはいかないでしょうから、多方面からアプローチをかけていく必要があると思っています。

塩崎 渡辺武さんとダレス会談のことで、アメリカン・カウンシル・オン・ジャパンをトピックにしている集まりはもっているんですか。

伊藤 そうではなくて、尚友倶楽部の中に日本近代史研究会というクラブができて、その幹事役が大久保先生の息子さんと外交官でありました本野盛幸さんで、本野さんは私どものインタビューの対象なんです。そこは華族の子孫が大体メンバーですから、たとえば、石本さんという方が杉村虎一の関係文書をお持ちだというので、それでずっと遡っていくと姻戚がすごかったように、聞いている方たちはみんなそれがあって、自分たちの先祖と関わりのある人たちの名前が必ず出てくるわけです。それで非常に皆さん関心をもってそういう会をやっているわけです。

 それで渡辺武さんのインタビューを始めたんですが、もう少し記憶が薄れております。ジャパン・カウンシルの問題もそうなんですが、もちろん彼は昭和24年か5年にアメリカに行ってケイ・スガハラとかキャッスルに会うんです。それで、海原さんにこの間インタビューしていたら、やはり同じ時期にアメリカに行っているんです。それで同じ人たちに会っているんですが、そういう集団があっていろいろ活躍していると知っていたわけではない。でも、パッケナムとかカーンとかキャッスルとかドゥーマンとか、こういう人たちとはいろいろやりとりがあったんです。

 そうすると、どうもまだ僕はよく分からないのですが、樺山愛輔とか牧野さん……どうも牧野さんのような気がするんですが、牧野さんの手紙によりますと、キャッスルからこういうふうに言ってきたけれども、これにどう対応しようかということで吉田に話すが、その前にあなたと相談したいのでちょっと来てくれという話なんです。だから、吉田文書を何とかしなければならないということで、いまアプローチの方法を探っている最中です。結局、占領下でのGHQとアメリカの本国のいろんな筋、特にジャパン・ロビーといわれるグループとの関係ですが、その辺の動きをもう少し綺麗におさえてみたいと思っているわけです。牧野さんの戦後の文書を開くともう少しいろんなことが分かるのではないかと思います。

塩崎 ロックフェラーのアーカイブスにジャパン・ソサエティーとか、ロックフェラーが関東大震災後、日本側に教育関係と医学関係を中心にたくさんのドネーションをしまして、あそこには日本関係のものが結構あったので、いま先生が言われたルートの掘り起こしはできるかなと思いました。

 それと日本との関係でいえばおそらく、図式化すれば共和党の国際派と戦後の吉田なり、戦前との絡みでいえば自由主義者と言われたような連中の接点みたいなものは、キャッスルが日本大使でやってきた頃、そのあとグルーがやってくるわけです。それでグルーとキャッスルというのは、キャッスル文書の中に、キャッスルとグルーとの間でお互い同士でしか見合わない日記を書きあっていたという記事が出てくるんです。だから、非常に密接な関係があって、その2人が日本側の牧野や何かとの間で戦前からコネクションを作り、それを戦後にと。キャッスルや何かがマッカーサーを大統領に担ぐというので、共和党の選挙対策のカモみたいになる辺りから焦点を当てて、それに見合った史料発掘をしなければいけないと思っています。

伊藤 キャッスルとの間手紙は、当時は直接日本人がアメリカに手紙を出すことはできませんので、どうもマッカーサーの副官を通じてやっていたようです。

塩崎 フェラーズですか?

伊藤 別な人です。それで、キャッスルが手紙に書いているのは、日本に行って吉田に会うことと、できれば天皇陛下にお目にかかりたいということを強く希望しています。もちろんあなたにも会いたいということも書いていますし、あなたの知っている人々にぜひ、いまの日本の状況を具体的にインフォメーションとして自分のところに送ってくれるように頼んでくれと書いています。ということは、マッカーサーはどうも情報をあまり送っていない。それで、本当のことを知りたいと非常に強く希望しているんですが、どうもそれがいちばん大きな手紙の趣旨でもあるようです。牧野さんはそのときの手紙だけコピーして送ってきたので、牧野さんのところにはもっといろんなものが来ているはずだと思うんですけどね。

 あと、沢田節蔵さんのやっていた世界経済調査会とも接点があるように思えるんです。クライマンという人物は戦前から日本企業との関わりで仕事をしていた人で、日本の財界とも関係があって、もともと世界経済調査会というのは財界の団体から分岐していますから、どうもそこは足掛かりになっている感じなんです。アメリカの実業家たちに言わせると、日本で将来儲けようということで、いまのマッカーサーに封鎖されたような日本では困るということは一つの動機になっていると思いますし、そういう人たちがいろんなところをやっていて沢田さんもその一つの節だと思いますので、沢田文書にもアプローチしたいと思ってます。

塩崎 それから、吉村先生とは電話でしか喋れなかったんですが、「吉村正さんの文書はありませんか」と言ったら、「一切ありません」と言われたんですが、ここにはどういう類であるんですか(笑)。

伊藤 それは矢部文書の整理を終わってから(笑)。

 塩崎さんは、川村のコピーは外務省の分も含めて全部持っていらっしゃるんですか。

塩崎 外務省は持っていません。

小池 川村に関しましては、川村が執務に使っていた史料があるんです。特に面白いのは、昭和10年の外務省の機構の立案をするんですが、その史料があります。それ以外でも満州事変以降から辞めるまでの間の外務省の執務記録が全部残っていて、未整理という形になってますが外務省の中に入っています。

伊藤 あなたがコピーしたもので抜けている部分だと思います。それは原本でしょう。

小池 原本です。それ以外のものもありましたが、南方軍政関係の史料を整理していたので、そちらのほうまでは手が回りませんでした。昭和10年代関係は武田さんがやられていた松本文書ですね。それともう一つは、敗戦時に各部局から公文書を集めて重複のものはみんな捨ててしまうんです。その重複のものをそのまま持ってきているというのがあるんです。それと突き合わせると、昭和10年代の史料を焼いてますから、相当のものが明らかになると思います。

伊藤 今年、国立公文書館が地方の文書館の専門職の人を集めて講義をしたんですが、僕も一つ講演をしました。たとえば、児玉秀雄関係文書などを見てますと、公文書に準ずるもの――そのプロセスが分かるものがあるわけです。ところが、一般的に公文書とされているものというのは、その最後のものなんです。ですから、もうちょっと個人文書にも目を向けないと、分かりきった最後のところだけしか見えないという話をメインにしました。

小池 今度の情報公開法では、メモの類は公開の対象にしないということになりましたが、将来は公開の対象になるかもしれないということになったら、役人は特に挿話の類やメモの類は捨てるでしょうね。

伊藤 それに保存期間というのを作りましたが、保存期間のあとはどうするのか規定は全然ないわけですから、それが国立公文書館につながっていく保証が全然ないわけです。要するに一件書類というのが、その事柄が終わって3年経ったら廃棄で、それを受け止める機関はないわけです。それで私どもは、それに対する対策を考えております。公文書館がそれをどんどんやってくれればいいですが、そうでなければ課長クラスぐらいのところと接触を広めて、一件書類が3年経って廃棄されるときに受け皿にしておいて、それでいつどういう形で公開にするかというような、こっちでやってしまおうと考えているわけですが、これは非常に危ない話ですから、どうすべきかいま研究しているところです。

小池 大学史をやっていたものですから、大学の庶務関係の資料や課長の手元資料まで全部開けさせて見たんですが、文書の作り方が決定的に違います。一つは、外務省などの場合は一件書類型にするんですが、文部省などの場合には殆ど課長の手元資料が重要な資料で、3年経って一件書類みたいな形、課の執務記録としてもう必要ないものを追いやるという形をとりますから、先生がおっしゃったように、いちばん重要なものは課長の手元資料なんです。ところが、課長の手元資料というのは、責任関係が非常に重要ですから、殆ど表には出さないですね。

伊藤 というか、公文書とはそもそも何をいうのかが定まっていないわけですから、今度の公開法だって、これは公文書ではありませんという形になる危険性はあるんです。

 この前、公文書とは何かという質問をしましたら、現に官庁の中にあるものだという話でしたけれども、それならばメモや何かも全部入るわけです。

梶田 いま書陵部で議論していますのは、情報公開法の定義でいえば包括的な定義だけれども、ただし次のものは除くということで、歴史的史料というのがあるんです。歴史的史料としか規定していませんが、たとえば、公文書でもそういった年限を過ぎたものは歴史的史料でいいのではないかと。それでうちの公文書係が、歴史的史料を保存するのは、歴史的史料機関として認定されなければいけないが、書陵部はまだそういう機関として認定されていないから、公文書館に全て移管しなければいけないと言ってまして、ちょっとそれは本当なのかなと思いました。そういう機関になっても歴史的史料は歴史的史料として持って別に構わないと思うんです。ただ、歴史的史料であればまた別途公開しなければいけないので、それは非公開の道にはならないというような話はしているんですけれども。

伊藤 いまのところ情報公開の対象になっているは行政文書ですよね。

梶田 全ての国の機関にそういったものを当てはめるというのは、それぞれの組織に応じた文書の作り方をしてますから非常に無理がある。

伊藤 まず公文書の定義から始めないと、どうにもならないわけです。

小池 政策研究院の付属施設として情報センターという話をなさいましたが、これには公文書機能もつけるんですか。

伊藤 何でも集めます。

小池 これは国立大学レベルなんですが、いま筑波と九大が裏で動いてまして、大学史の史料を残しているのと、そのためには公開機関を作ろうと。僕も実は案を作って、後ろ弾をくらって駄目だったんですが、なぜか情報公開法の関係で事務局の中で一人歩きしはじめたんです。もう一つは京都大学のほうで法規係が動いていて、学内措置としてそういうものを作ろうと。筑波もオオハマさんが動いていて、九大も大学史を中心にして動いている状況があるんですが、それには2つのケースがありまして、オオハマさんは公文書館を念頭に置いているから、公文書だけにしていこうという話です。それは大学史で使った公文書類も含めて公文書の上で残していくという考え方です。もう一つは、それでは大学の独自性が出せないということで、私立大学の場合には、大学史史料に殆ど個人蔵史料を入れています。ですから、特に広島大学の場合には森戸がありますから、大学史の史料として森戸を位置づけてもらいたい。あるいは地域開放型の大学などといっているんだから地域史料も入れろと、このような形で実際しているんですね。

 そういうようなことがあって、まだこれは海のものとも山のものともわかりませんし、概算要求に出しているのも九大だけですので、まだどうなるか分からないんですが、たとえば政府研究院がやるというときに、それをどういうシステムでやれるのか、ある程度モデルケースで早く立ち上げていただけるとありがたいです。

伊藤 ネットワークでつなぐ話だから、いろんなところにいろんな形の文書館があって、それをもとの形を崩さないままでネットワークでつないでいこうという、そうでないとやっていけないです。

 何か今度、史料編纂所がデータベースの問題でシンポジウムをするとか、学術会議もやるということで案内状がきましたけれども、いまいち狙いがよく分からない。データベースの規格化みたいなことを考えているのかどうかですが、あまり規格化のことは考えなくてもいいのではないかと思うんですが。

小池 ああいうのも全く研究者の意識なんですね。もう一つは、地方史研究会がかつてやっていたものを接合しようということではないですか。あともう一つ、文部省史料館のアーキビストの生き残りをかけての動きもありますので、いろいろ難しいことがあると思います。

伊藤 文部省史料館のアーキビスト養成と公文書館の専門官の養成がどういう関係になっているのかよく分からないんですが、あれは共同なんでしょう。

小池 あれは2系列です。ただ、講師で中大に来られた森さんとかが兼ねてやられているということはあります。僕は公文書館の方には行ってます。

 それから、先生が話をされていたのを系統立てて見てみると、先生がやられた近代史関係で、たとえば、軍事関係なら軍事史学会ということで、政治関係では西川さんなんかの木戸関係と、それから尚友倶楽部関係ですね。日記の類では鳩山とか田川とか佐藤とかが出てきまして、オーラルヒストリーに関しては、政界・マスコミ・官僚・財界人と非常に手を広められておりますが、これはどういうふうに整理をつけていかれるんでしょう。

伊藤 オーラルヒストリーが流行りになりましたから、あちこちで始めていると思うので、情報交換が必要になってきます。ただ、談話してくれる人が秘匿したいこともたくさんあるわけですから、簡単にそれを公開することはできない。しかし、どこがどういう聞き取りをやっているという情報だけは流通させる必要があるだろうということで、情報センターみたいなものを作るとすると、その1つのセクションとしてオーラルヒストリーは入れておく必要があるだろうと考えています。そこで今年は、オーラルをやっているところの集まりを行って、情報交換をしていこうと計画しています。前に1度、非常に限られた範囲でやって、状況がその後で随分変わってますから、いろんなところがやっているわけです。外交官については、吉村さんが外交史料官報か何かに書いていたでしょう。

小池 公開を前提にしない話ですね。

伊藤 ええ。だから、どれぐらいのことをやっているのか、何回ぐらいやっているのか、どういう聞き方をしているのか、そういったことがよく分からないし、いま僕らがやっているのは、本当に包括的に聞こうということで、その人の出生から現在までを全部聞いています。それで、できれば3つバージョンを作る。本当に彼らが洗いざらい喋ったものと、外務省幹部の教育用のために部内秘版を作る。それから、最初は守秘義務だと言っているけれども、一旦口に出してしまって、しかもどんどん速記がくると、本人がこれはやっぱり本にしたいという気になってくると思います。そういった場合は、こちらがきちんとチェックを入れて、人によってはコマーシャルベースに乗る人もあるだろうし、自費出版する人もあるだろうけれども、私どもが関与したものについては例の我々のマークをつけていく。こういう形でやっていこうというのがいまの考えです。

小池 外務省の研修所で結構オーラルをやっていて、本も何冊か出ているんですが、そういうものと我々のオーラルとの突き合わせみたいなものも出てきますから、そういったこともやられるということですか。

伊藤 おそらく。ただ、こちらは洗いざらいということですから、どういうことになりますか。

小池 外務省だったら自分の執務したことをまとめますから、自分が書いた執務記録を薄めた形で出すというのは結構ありますよね。そういうものも同時に集めていくということもあるでしょうね。

伊藤 全部つながっているわけですから、田川さんだって将来的には日記から文書まで全部をいただいてしまおうという遠大な計画なんです。

小池 新自由クラブの史料というのは憲政に入ってますよね。

伊藤(光) いいものはないです。展示をすることにおいて都合のいい看板とかは十分にありますが、他のものは図書館に入れました。

小池 それから社会党関係が結構出てきましたね。

伊藤 社会党は憲政に入れたんですが、全部ではなくてある部局です。

小池 あれは広報か何かですか。

伊藤 よく知りませんが、ある人なんですよ。

小池 山県のいちばん最後の談話録というのは、どんなものが入っているんですか。

季武 第1次大戦の前後で、開戦のときの話だとか、21ヵ条だとか、それからそのあとの日露協商などで、非常に面白いです。

西川 憲政に入っているんですか。

季武 はい。

西川 現物は公開されていますか。

伊藤 公開されています。

小池 これは二上文書を見ていたら出てくるわけですね。

伊藤 そうです。

季武 それでもまだ抜けがあるみたいで、飛んでいる番号があります。

 それでは、まだまだお話は尽きないと思いますが、一度ここで御開きにしたいと思います。きょうはどうもご苦労さまでした。

伊藤 どうもありがとうございました。(第13回終了)