科学研究費成果報告書「日本近代史料情報機関設立の具体化に関する研究」(基盤研究(B)(1)、平成1112年度、代表者伊藤隆、課題番号:11490010)より

 

8 佐藤 能丸

さとう  よしまる  早稲田大学・大学史資料センター・研究調査員

  時:2000年7月28日

出席者:伊藤隆  季武嘉也  有馬学  小池聖一  我部政男 西敦子  矢野信幸

       梶田明宏  戸高一成  伊藤光一  小宮一夫  黒澤良  土田宏成  千葉功

         西川誠  高橋初恵

 

 

伊藤 今日は佐藤能丸先生に、早稲田大学の日本近代史関係の史料ということで、お話をいただくことにいたします。お話いただく時間は、1時間でも1時間半でも2時間でもかまわないんですが、なるべく詳しくお話いただければと思いますので、よろしくお願いいたします。あるいは、途中で質問を差し挟ませていただくこともありますので、よろしくお願いいたします。

佐藤 遅れて申し訳ありません、佐藤でございます。私、あまり外に出ない人間でございまして、学会をすることがなくて、初めてお目に掛かる次第なんですが。

伊藤 いや、ここにいる連中もみんな、学会なんかそんなしょっちゅう出てるような人はあまりいないんですよ。

佐藤 私は、必ずしも専門があるわけでなくて、大変やじうまみたいな人間なので、今日は先生方の日頃のご関心とはちょっと外れたことになるかもしれません。私は早稲田大学で飯を食ってる人間ですので、自分のところの大学の宣伝ということも多少含めて、今日はお話させていただきたいと思います。今日はレジメに沿って、だいたい1時間ぐらい、ごくかいつまんでお話させていただきたいと思います。

 早稲田大学と申しましても、イメージとしてはずいぶんいろんなものを持ってるなということを感じておられる方、大変多うございましょうけれども、じつは日本近代史関係の史料を早稲田がどこで何を持っているのかという、そういう全貌をセンターのような役割で把握しているところはひとつもないんです。このレジメを切るのに、じつは僕はこのレジメは3時間ぐらいで書いたんですけれども、書く前にいろんなものを調べましたけれども、結局はないと。従って、もっと完備した報告が本当はされるべきかもしれません。これを機会に、これを第1次案として、この際調べてみようかなと思いました。従って、これは中間報告というふうにお考えになっていただきたいと思います。

 従って、早稲田大学の各箇所それぞれで目録が出されております。じつは目録が出されていない未整理のもの、あるいは内部用の手書きのもの、最近はワープロとかパソコンでずいぶんきれいになりましたが、かつての国会の憲政資料室の目録が手書きであったように、それに類するものが早稲田でもまだあるのが現状でございます。従って、それぞれの箇所で活字化されている所蔵の資料、あるいは保管の資料の目録の類を丹念に集めてみるしか、じつは仕方がないんだと。そういうことでございますが、そのなかでも、かなり広くとらえた日本近代史関係の史料を所蔵、保管している箇所を、大学全体で大きく分けてみれば、大学の本部そのもの、慶応でいえば塾監局ということになるんだろうと思いますが、それから各学部、それから付属研究所の類、そしていわゆる中央図書館。図書館といっても、中央図書館と各学部の図書室というのがございます。最近、各学部の図書室も、図書館というふうに命名して、所沢図書館とか、文学部の場合には文学部のある地名になぞって戸山図書館とかですね。そういうふうに言うようになってまいりましたけれども、俗称学部の図書室でございます。従って、今日はこの(1)、(2)、(3)、(4)@、(4)A、ということでございますが、何といってもメインは(3)と(4)でございます。

 私立の大学の場合には、資料が入った時にどうなるのかという、そのごく荒っぽいルートを申し上げますと、それが大学の本部の・でございます。じつはこれが大変なのは、大学にとって最も貴重でありかつ重要な史料は何かといったら、それは在学生であり卒業生の学籍簿と成績簿です。これは心臓部の史料中の史料です。従って、早稲田大学は戦時下において、この学籍簿、成績簿の疎開ということを真っ先に考えました。図書の史料では、とにかく疎開しようとしたのが官報でした。活字の官報ですね。官報を荒縄で縛って、全部並べて、さあ運搬だという時に敗戦になって、かろうじて行かないで済んだと。そういう話を我々は大先輩方から聞いております。

 そして在学生・卒業生の学籍簿と成績簿は、一種の戸籍でございますので、大変貴重なもので、戦時下においてはコピーがございませんので、すべてではないですが、コンニャク版のような形とか、複写するという手書きの複製をつくったと聞いております。全部が終わらないうちに敗戦になったと。ですから、この在学生・卒業生の学籍簿と成績簿は、早大の場合は東京専門学校として明治15年の創立以来の学籍簿と成績簿が、ほぼ保管されています。部分的にはなくなっているのもありますが、ほぼ保管されているといっていいと思います。

 これらの閲覧は、教務部の教務課の学籍係で担当しております。ただし、本当にここ4、5年の間にプライバシーの保護によって、本人以外の閲覧複写の場合は、本人またはご遺族の許可が必要となっています。ですから、諸先生方が学術研究のために何の誰がしの学籍簿と成績簿が見たいと言っても、研究のためぐらいではだめです。私どもの大学は私立大学のなかでもかなり早く率先して、最も厳しくプライバシーの保護というのを守ろうとしている大学でございまして、ですから研究のためぐらいの理由だけでは、閲覧・複写できない。私の場合には立場上、見る申請ができる立場におりますので、そういう業務用としてという形でない限り、ほとんど見られない。しかし、最近はそれすらも大変難しくなっております。

 ですから私がいままで書いたもので、たとえば大山郁夫とか猪俣津南雄。猪俣の学籍簿と成績簿は僕は全部見て、しかも簡単にコピーできたんです。僕が大学院を出た間もない頃は。いまはそれは無理ですね。ですから、津村喬さんたちが猪俣津南雄の研究雑誌を出していたんですよ。機関誌をね。そこで僕の論文が注目されて、猪俣は大変優秀だと伝わっているけれども、成績がクラス中で何番で、何の科目が何点だというのが初めてわかったと。これで裏付けがとれたと。妙なところを感心されたことを、いま思い出しましたけれども。もう、それはいまや、ちょっと不可能なことだと。先生方が早稲田出身の政治家とか、あるいは思想家についていまのようなことは、かなり難しくなってきています。

伊藤 遺族の了解をとればいいわけですか。

佐藤 そうです。ご遺族の了解を得ればいいんです。そこをきちんとさえすれば、大丈夫だということですね。今後の時のお役に立てていただきたいと思います。

 じつは早稲田は、折に触れて大学の本部が、大学の関係者から貴重な資料の寄贈を今日も受けております。それらは適宜、それを保管するにふさわしい各箇所に配置されて、閲覧に供されて、公開されています。その資料類の落ち着き先は、書籍類はやっぱり主に図書館に、当然でございます。それから博物類の類は、早稲田大学の旧図書館がいま会津八一記念博物館となっておりまして、その博物館へだいたい納まるようになってきている。

 それから芸能・演劇関係は、坪内博士記念演劇博物館へ。ですから最近では、杉村春子さんのものの一部とか、越路吹雪のものは口紅に至るまで、マニキュアから舞台の衣装から化粧台まで、全部ここの演劇博物館に入っております。文化史とか映画といった類は、軽演劇まで含めて、近代の資料は坪内博士記念演劇博物館にだいたい納まっている。これは適宜公開し、また特別展を開いております。

 それから、意外と大事なのが貴金属・調度類・骨董的なものなんですね。これ、最近は貴金属というのはなくなりましたけれども、たとえば著名な大家の油絵。こういったものはある意味においては値打ち物なんですね。破格の値段のものを、意外と早稲田は持っております。油絵とか、そういったものは大学の総務部へ保管されている。

 これが大方の道筋でございまして、じゃあ大学の本部で、たとえば総務部でいかなるものをどう持っているかというのは、総務課長とか担当者ぐらいしか掴んでいないんじゃないでしょうか。一般には公開されていません。従って大学の本部が何を持ってるかというのは、ほとんどの大学でも似たり寄ったりではないか。ですから我々が何かを調査する時に、課長に連絡をとって、「こんなものがありますか」と。「いや、そういうものはありません」と言うと、「ないのですか」と。もうそれで終わりだということですね。でも、私立の場合には、ここは意外と大事なところではないかなと思います。

 次に学部に移りたいわけでございますが、じつは学部は、本部以上にわからないということでございまして、各学部の貴重な固有の資料を詳しく精査して作成した、全学部に渡る資料目録はないようなんです。つまりそういうことが、いまだに行われていない。目下、私のおります大学史資料センターが、各学部の広範囲に渡る事務書類等のなかでも、資料価値の高いもの、大変貴重なものに関心を持っています。現用文書ではないものです。もう歴史的な文書になっている。これを収集、保存、整理に着手しようとして、永久文書の保存規定という類のものをいま作成して、大学の本部の了解を得ようとしています。

 つまり、各学部が文書を廃棄する時、あるいは永久文書として保存する時には、必ず私どものほうに連絡をすることを義務づける規定です。いままでは、各出先の学部長あるいは学部の事務長の裁量であったものが、その裁量をする前にとりあえず大学史資料センターに見てもらって、濾過してもらう。その結果、「あなた方にはそんなに大切な資料と思えないかもしれないけれども、私たちの目から見ればこれは大変な資料である」と。そういうことは現場とはちょっと感覚が違いますので、そういう規定をいま整備しているということでございますので、実際にこの運用ができるのは早くても来年度からではないだろうかと思います。

伊藤 収集するというのは、大学史資料センターに持ってくるということですか。

佐藤 そうです。持って来て、保存も大学史資料センターが保存するわけです。つまり、大学のアーカイブズとしてですね。そして、いずれできるだけ早い時期に整理して目録化して、できたらそれを公開したい。つまり、いま大学というものはご存じのように、だいたい創立 100年から 120年ぐらいを迎えているわけです、近代の大学は。そして、各大学が百年史を編纂するに伴って、大学史専門の研究者が育ちつつあります。いちばん若い世代が40代の後半というところだと思います。かつて東京大学百年史を大学院を出たてでお手伝いした方々が、いま50前後におなりになっていて、大変その道のエキスパートになっておられる。

  僕は、それはそういった意味で、お祭りとしての 100年ということは研究者を育てたと思います。大変いいことで、そういうことから見ると、もはや大学というものは研究対象にもきちんとなっているんだと。いままでの制度とか機構としての大学史ではなくて、日本近代史のなかの大学というもので、学問の研究対象にきちんとなってきている。そういう自覚が私どもにあるものですから、資料もきちんと保存して、研究者にご提供したい。そういうことにシフトを変えてきているわけでございます。従って、各学部の資料も含めて集めようとしているわけですけれども、学部の事務書類以外の書類は、なかなか把握されていないです。

 たとえば文学部の場合を例とするならば、戸山図書館、つまり文学部の図書室、教員図書室のほうですが、この戸山図書館に関係教員の旧蔵書籍というものが、「○○文庫」として書庫に配架されて閲覧に供されているものがあります。そして、日本近代史に関する限りは、渡辺幾治郎さんの旧蔵書籍が「渡辺文庫」としてまとめて配架されております。このような例は知る人ぞ知るの類であり、丹念に調査する必要がある。これ、外部にはわからないんです。文学部の図書館の蔵書目録というのはないんですから。図書室の入口には、カードとしては行けばあるんです。じゃあ、それが簿冊になった本になっているかというと、なっていないんです。もうこれは口コミで見るしかない。ですから、この「渡辺文庫」にしかない本としてたとえば、新潟の政界と論壇で活躍した人に広井一という改進党系の政治家がいますが、広井一の伝記とか地元で出たものというのは中央図書館になくて、この「渡辺文庫」で初めて我々は見た。ですから、そういうちょっとしたものが、点と点で顕在しているような気がいたします。

  たとえば理工学部の図書室などを見ますと、我々はまったく素人でわからないんですけれども、その道のたとえば電気とか建築の大家の先生がお亡くなりになって、その蔵書を図書室に納めている。そういった例は決してないわけじゃないと思いますね。ですから、意外と文学部を初めとする各学部の図書室は、精査して見る必要があると思います。ですから先生方が、何かというと早稲田の図書館ということですが、図書館以外のものもいちおう念のために調べる必要があるのではないか。従って僕の調査……というか、調査してないんですが、学部はまったく手つかずということでございます。

伊藤 いまの「渡辺文庫」と、あとの図書館のところで出てくる「渡辺幾治郎収集謄写明治史資料」というのは……。

佐藤 これは別です。文学部の「渡辺文庫」というのは、みんな単行本の旧蔵書ですからね。ところが後のは、生とか写本の類ですから。

伊藤 これは別々に寄贈されたものなんですか。

佐藤 はい、そういうことなんです。そのことは後でちょっと申し上げます。大学の本部とか学部では、実際にはご覧のように、実態がつかめていないということでございます。

 次に、近代史の史料としてまとまったものを多少持っているのが、付属の研究所等でございます。先生方がご存じなのは、何と言っても付属の研究所では、図書館以外では旧社会科学研究所。ここにはご存じのように、中村尚美先生、あるいは社会経済史の間宮国夫先生などがご在籍していらしたんですが、一昨年に機構が改革されまして、これがなくなってしまったんですね。日本近代史関係史料をまとめて所蔵していたのは、この旧社会科学研究所(旧社研)でありました。「大隈文書」を整理したり、あるいはイエール大学の朝河貫一の関係史料を収集・整理した実績をもって、例の「大隈文書」の全5冊の活字本などを刊行したのは、じつはこの社研でありました。

 ところが一昨年にアジア太平洋研究センター・・これは学部を持たない大学院なんですが・・へ衣替えして、性格を変更したために、旧来の資料を図書館に移管したり、別置の形で倉庫に保管されているようである。これは、なかなか実態はつかめていないんです。というのは、最後に整理した方がもう辞めてしまったり、途中でまさに定年を待たずしてお辞めになったりとか、エキスパートがいなくなっちゃったんです。じつはこれが大事でして、「大隈文書」が全5冊の活字本になったのは、ごくごく一部ですからね。

  じつは「大隈文書」で僕は非常に関心があるのは、自分が出来ないからでもあるんですが、英文の書簡とかの、書簡なんです。邦文書簡ならびに英文の書簡。じつは、日本語の書簡は解読されてそれが原稿になっているんです。これはもう大変なことなんですよ。なっているんだけれども、それは専門家から見ると誤りがあるわけで、そのまま活字には出来ない。しかし、第1次原稿というような形で書簡をみんな鉛筆で書いて、それがファイルされている。あるいは仮綴されていて、僕はこれを20年ぐらい前に見たことがあるんです。それがどこにいったのか。たぶん僕は、倉庫に入っていると思います。だけど、結局は早稲田というのは、「大隈文書」を持っていながら、大隈研究家が育っていない。それは先生方もご存じのことだと思いますね。

伊藤 『大隈研究』は、ずいぶん長い間出してましたけどね。

佐藤 出しましたけれども、大変失礼な言い方で生意気かもしれませんが、中村尚美先生が渡辺幾治郎先生の直系の弟子でいらっしゃって、渡辺先生はご存じのように大隈に関する著書を大変たくさん出されています。しかし中村先生は、結局は大隈学というか、そこまではおやりにならなかった。従って、中村先生のいわば門下生も、その先生の後を継ぐような形での大隈研究の専門家が育たなかった。これは早稲田としては大変残念なことですけどね。もう僕は、不可能な段階にきてると思います。それは、中村先生の現役の時に、何らかの形でおやりになればよかった。これは中村先生の責任では決してございませんで、システムの対応がうまくいかなかったんだろうと思います。

 その点、慶応の場合の富田正文先生のように、福沢学をあれだけ極めて、最後はきちんと書誌的なものを含めてという、それが早稲田ではないというのは非常に残念でございますね。結局「大隈文書」も、早稲田大学の現在、ならびに現存していらっしゃる諸先生方で、大隈の研究を集大成するという先生はいまだにいらっしゃらなくて、たとえば東大東洋文化研の福島正夫先生などは「大隈文書」を徹底的にご活用になって、研究を進められた方のひとりではなかろうかと思いますね。そういった意味では、それだけサービスに務めているといえばそれなんですが、内部で意外と使われていないというのが残念でございます。

伊藤 あとで中央図書館に移されて、「大隈文書」が文庫として第1に挙がってます。このなかで、最初に目録ができまして、目録の補遺が1975年に出ていますが。

佐藤 それについては、その時に詳しく申し上げます。

 いちおうそんなことで、旧社研がなくなったのは非常に残念なんです。

伊藤 噂として、いろんなものがじつはあそこにあるというふうに何となく聞いていたんですが、そのなかに石橋湛山の文書もあって、それは持ち出されていま国会図書館に入っていますが、他にもたくさんあると。各個人の先生が抱え込んでいて、その先生の許可を得ないと見られないとか。いろんなことがございまして、名前だけはずいぶん聞いていたんですが、いまここで拝見したところだと、中央図書館に全部入っているような感じではないですね。

佐藤 ええ。ですから、それは僕らも噂みたいに聞いているんですが、結局その先生方がお預かりになったり、責任をもってそれをやる体制になっていなくて、おそらく僕は段ボールに入って、段ボールのところに紙か何かで「○○文書のA−1」とかという、たぶんそういう形になってるかもしれません。たとえば社会党系の右派の人の資料とか、いろんなことを我々聞いておりますけれども。でも、そろそろ代が変わってくる時期になってくると、お弟子さんで、その先生の講座を受け持って後継者になった先生がご関心があればいいけれども、次の世代に関心がないと、その先生の顔で入ったものが宝の持ち腐れなんですね。それについて、資料センターというような形で一括して、つまりコントロールタワーがなかなかないんですね。そういう目配りのある先生が、本当は必要なんです。どうも、そういう先生がいらっしゃらない。

 それから、早稲田というのは特に戦後は、大隈とか早稲田そのものを研究するという風潮がなくなってきましてね。ですから、先生もご存じのように、早稲田では近代史の先生が何人かいらっしゃるけれども、大隈とか、小野とか高田……せいぜいされているのが小野梓。我々は全集を出しましたんで、多少それは微力を尽くしたんですけど。意外とやりたがらないということでございますね。そのことも含めて、後でご説明したいと思います。

伊藤 この別置というのは、どういう意味ですか。

佐藤 別置というのは、じつは本庄に図書館の倉庫があるんです。これは大学全体の倉庫です。たぶんそこに行ってると思います。もう本部の建物は手狭でございますからね。我々の部屋のものも、本庄に保管されているものがずいぶんあります。

伊藤 別置という場合に、その所管は図書館に?

佐藤 つまり、図書館の別置のコーナーがあるわけです。

伊藤 図書館に移管したりというふうになってますが、図書館に移管して公開されたり、あるいは図書館に移管されて別置されているという意味ですか。

佐藤 そうですね。だから別置というのは、我々とか担当者じゃないと出納できないんです。ですから別置といっても、整理されている別置のものと、整理されないままで段ボールで別置というのもあるわけです。いわゆる、お蔵入りに近いものではないか。大変に残念なんですけどね。

伊藤 そうですね。

佐藤 それから2番目が、現代政治経済研究所。これは政治経済学部に付属する形での研究所でございまして、専属の教員というものはいません。所長は政治経済学部の教授が兼務でございます。ここでの文書は、いわゆる文書類は大山郁夫関係資料です。ご存じのように、教授であり労農党の委員長であった大山さんの関係資料を、ご子息の大山聡さん・・都立大の教授で、ネールの『父が子に語る世界の歴史』を訳した先生ですけれども・・が寄贈してくださったんですね。これは整理されていまして、マイクロ化もいま実施中です。ですから、マイクロは今年度中には全部できあがるんじゃないでしょうか。もちろん、生の実物を持っておりまして、マイクロ化もされている。

 黒川みどり君がこの資料を整理してくれました。実際の推進役は、お亡くなりになった「政治思想」の藤原保信先生がおやりになったんですけれども、その助手のような形で黒川みどり君がやって、僕もこの大山郁夫研究会には属していました。ですから、大山郁夫の著作集が岩波で10年ほど前に、松本三之介さんとか三谷太一郎先生たちと我々やったんですが、その時の副産物がこの関係資料になっています。従って、大山郁夫の著作を出そうという熱意にほだされて、大山家が大学にくださった。そういう経緯でございます。

 これが、黒川みどり君の作成した大山郁夫関係資料の目録です。これは皆さん方の手に、たぶんないと思うんですけどね。コピー等はできますので、ご回覧いたしましょう。これは、僕も現政経に行って「あるのか」と言ったら、「いや、もうこれはないですよ」という、本当に部内用のもので、僕はこのメンバーだったために持ってるんですけどね。

  大山郁夫というのは、米国に亡命中、たとえばコールグローブに非常に資料提供をしましたね。コールグローブは、例の日本国憲法作成参与のメンバーの一人だったために、日本国憲法の参画を間接の間接ぐらいに大山がしてるというふうになるわけです。ということは、アメリカでは日本を占領したあかつきには、当然日本を何らかの形で民主化しなくてはならない。従って、もう戦争中に、日本の憲法というものをそうとう細かに分析していましたからね。

  ですから、美濃部達吉の『憲法撮要』とかいったものを大山さんが集めて翻訳したりしたということは、こういう資料のなかから断片的に出てくるんではないか。いまのところ大山郁夫について我々の研究部内のスタッフのなかでは、岩波の『大山郁夫著作集』の時に書いた各巻の巻末の解題。それから黒川みどり君の研究。それと藤原保信先生の『大山郁夫と大正デモクラシー』ぐらいで、じつはまだこれは十分に活用しきれていない。これは意外と穴場だと思います。ちょっとこの目録をご回覧ください。

それで、次が八田嘉明ですね。これはご存じのように満鉄の副総裁で、戦時下の各大臣を歴任した、戦時下の有名な人物でありますが、その八田の旧蔵資料1894点が、この文書でございます。これは、現代政治経済研究所所蔵の『八田嘉明文書目録』。これ、山田豪一さんが『八田嘉明の生涯と仕事』という論文をお書きになって、附載されてございます。これは、まだ残部があろうかと思います。でも、現政研は図書館と違ってそんなにたくさん出しません。じつはこれはマイクロもあるはずです。ですから、これは容易に使うことが出来るんじゃないんでしょうか。

伊藤 これは手に入れたような気がしますが……。

佐藤 これは1996年ですから、まだ3、4年前です。現代政治経済研究所が持っている大きな文書類は、じつはこの2つだけでございます。

 以下、文書といってもこれはマイクロ版ですので、例の国会図書館の憲政資料室にあるいろんな資料ですね。井上馨とか伊東巳代治、以下1〜16ぐらいまで、この大半は国会図書館が持っているものを雄松堂などがマイクロフィルムにしたものでございます。これは生のものを持っているわけではございません。

 それから3番目の新聞も、現物は現代政治経済研究所はほとんどと言っていいぐらいありませんで、マイクロフィルムの新聞が1の朝日から28The New York Timesというもので、比較的早稲田大学は、中央図書館のマイクロ資料室と現代政治経済研究所のマイクロフィルムを使うと、ほぼ明治、大正時代のマイクロでの新聞は見ることが出来る。かつて私が東大の明治新聞雑誌文庫に行って西田長寿先生の手ほどきを受けた時に比べれば、はるかにいまの院生などは楽なんじゃないんでしょうか。ずいぶんありがたいことだと思っております。以上が現代政治経済研究所でございまして、ここは夏休みでもだいたい開いております。研究者は、夏になるとぽつぽつと出てきているようですね。

  次に、坪内雄蔵先生の坪内博士記念演劇博物館。これは、実際には先生方が使うということはないだろうと思います。ご存じのように、世界の芸能関係の資料を所蔵する貴重な博物館でございまして、もちろん日本にはたったひとつでございます。近代日本の演劇関係の資料も多いんです。その一端は、『図録』第1集、『図録』第2集に、めぼしいものが写真版で載っています。これを見ると、おわかりではないでしょうか。先ほども申しましたように、演劇の大家の人達の身辺のものが、ほとんどここに。ですから、歌舞伎、それから新劇、軽演劇、落語の類に至るまで、芸能のものはほとんどここに残っております。

 そして、随時レクチャーがございまして、いろんな人達が来て講演などをしております。ここは知る人ぞ知るでございまして、大学が開いている間は演劇博物館も開館されておりますので、一度ご見学にいらっしゃると、2時間ぐらいたっぷりとかかって見ることが出来ると思いますね。この間、たまたま越路吹雪特別展がありまして、60代ぐらいの女の方がずいぶん見にいらっしゃいましたね。根強いファンだと思いました。歌舞伎俳優のものもずいぶんございます。ここは一度ご覧になれば、おわかりになるとてもいい施設だと思います。

 それから、4番目の会津八一記念博物館。会津八一はいわゆる文学者でございまして、書家でもあると。しかし、コレクターでもあって、会津八一先生がずっと長い間収集したものが会津記念室というような形で、実際には倉庫にずっと眠ったままでありました。これが一昨年、旧図書館を会津八一記念博物館と命名して、いままで会津八一の収集したものを出来るだけ皆さんに閲覧に供しようと。つまり、博物館として。そういうことで、旧図書館のあの大閲覧室がその博物館の展示になっておりまして、一度ご覧になっていただきたいと思います。

 ここには中国の関係者が、それこそ億のお金を出してでも買いたいという逸品があるそうでございます。我々が見ると大したことないと思っていても、見る人が見ると大変な逸品だそうですね。一度ご覧になると、びっくりするぐらいの値打ち物がございます。それは、会津八一コレクションという種類、それから会津八一の芸術・・書と、それから歌人でもございましたし、また絵もお描きになる。会津八一の作品。それから、日本近代全般に渡る美術品のコレクション。著名な画家の描いた美術品ですね。絵画、あるいは彫刻の類。それから、アイヌ民族のアイヌ考古、あるいはアイヌ民族の博物資料というものがずいぶんたくさんございます。そして、いわゆる考古の資料ですね。それから、会津八一記念博物館にいろんなところから寄贈された資料。この6つぐらいに大枠を分けて、随時展示して、また整理している。整理して展示されるというのは、ほんのごく一部です。膨大なものでございまして、これは博物館で随時、目録が出ております。これは先生方には直接は関係ないかもしれませんけれども、日本の広い意味での近代文化を見る時にも、一度は見ておくべきセクションではなかろうかと思います。

 それから、ちょっと面白いのが、早稲田大学総合研究機構というのが今年の4月1日に発足いたしました。これはどういうことかというと、まだ実際には機能しているようでしないようであるということにもなるんですけれども、いろんなプロジェクトのチームが出来まして、いま37の研究所が名乗りを挙げて、また実際に出ているんですが。それは、人文社会、あるいは自然科学とか、いろんなプロジェクトチームが小さな研究所という形になっております。それを統合する、総括するのが総合研究機構というものでございましてね。いずれ、この研究プロジェクトが具体的な研究成果を出し、そしてまたその研究の途上において集めたものを整理するならば、大変な文庫になるのではないか。だけど、それはあと10年ぐらい先になるんじゃないんでしょうか。そんな気がいたします。

 たとえばどんなものがあるかといいますと、こういうことがございますね。資本市場法制研究所、地域社会と危機管理研究所、奈良美術研究所、シルクロード調査研究所、中国古籍文化研究所、近世儒学研究所、朝鮮文化研究所、国際福祉研究所、現代中国総合研究所、資源循環技術研究所、食・農・環境問題研究所、先端バイオ研究所、等々、いま37出来ております。そして、これは単なる研究プロジェクトということよりも、プロジェクトの大枠を超えて、もうちょっと自然科学関係が増えて、最終的には60ぐらいになるのではないか。それを統括するのが早稲田大学総合研究機構である。まだまだ立ち上げたばかりで、研究成果はどのようになるか。でも、来る10年後ぐらいには、そのうちのいくつかが研究成果を発表するのではないか。そうすると当然、資料も収集しますので、その収集されたものがやがて共有財産として皆さん方に活用される。つまり、そこまでの見通しかなくては、僕はだめだと思いますけどね。非常に我々としては注目をしているところだということでございます。

伊藤 それは、予算は大学から直接、その研究所に配付されているわけですか。

佐藤 それと同時に、最近なかなかこれが冠講座的な、指定寄付というような形も・・特に自然科学系というのは、非常にそういうのが多うございましてね。おそらくそういうようなものも含めて、今後進まれていくのではないかと。ただ、これはどういうものになるか、いまバブルが弾けた後、なかなか大学経営が難しくなっておりましてね。もうちょっと前にでも、やっておけばよかったのになと思うんですが。しかし、停滞することは許されませんで、私どもの大学は出来るだけその手を、先手、先手と。そういうひとつの現れじゃないんでしょうか。まだ出来て2、3ヵ月でございますので、全貌が明らかになっておりません。目下、そういう段階でございます。

 次に、私のいる大学史資料センターになるわけでございます。ここは2年前に、大学史編集所という、早稲田大学の百年史を編纂する箇所が、百年史の編纂が終わりましたので、早稲田大学のアーカイブズというふうに衣替えをしまして、大学史資料センターと名称と機構を改めました。じゃあ、何をするところなのかと言いますと、ここは、創設者の大隈重信ならびに大学の功労者の、研究ならびに資料の収集と、それから、早稲田大学の大学史の研究と資料の収集と、それから、比較大学史の研究と資料の収集。早稲田だけの研究ではなくて、世界的に、あるいは国内的にも官立、公立、私立、各大学の比較研究。つまり、高等教育研究ということを銘打って、それぞれ研究部会がなされております。ようやく2年になってきたわけで、多少宣伝めいたことも含めて、この大学史の資料センターについてのお話を申し述べたいと思います。

 じつは、この大学史の資料センターというのは、大変小さな所帯でございますけれども、伝統は1950年代からございまして、図書館の一室に校史資料係というのが、いまから40年ぐらい前にございました。そこからずっと、今日に至っているというわけでございます。従ってここでは、いくつかに分けまして、ちょっと近現代史に関係のないものもご紹介したいと思います。というのは、「大隈信幸氏寄贈品」というのがございます。これは中西敬二郎によって。余談ですが、この人がカツ丼を考案した人なんですけどね。カツ丼はこの人が学生時代につくったと言われている、ちょっと面白い先生なんですが。この中西敬二郎編の『大隈信幸氏寄贈品ニ就イテ』。これが、私どもの機関誌である『早稲田大学史記要』の創刊号・・1965年6月の第1巻第1号に、この資料の整理が目録になっています。これは大隈家寄贈の、いわゆる「大隈文書」のひとつなんです。ここからが大事なんです。皆さん方は、早稲田の「大隈文書」というと、あの週刊誌大の大きさの『大隈文書目録』を言うんですが、じつは「大隈文書」と僕がいう場合の「大隈文書」は、目録が4種類あるんです。じつはこの4種類を見ないと、早稲田にある大隈家の資料をみんな見たことにならないんです。ところが外部の先生方はあの厚い目録のみで、「ここには載ってないから、早稲田にはないんだ」というふうになるわけです。じつはそうじゃないんです。

 それは、資料が分散されているための性格でもあるし、それから寄贈してくれた時の経緯にもよるんです。従って、この中西敬二郎編の『大隈信幸氏寄贈品ニ就イテ』という目録は、さっき伊藤先生がおっしゃった『大隈文書目録』と、それから補遺がございますね。つまり、本体の目録、補遺、3番目がこの中西先生の目録なんです。これは、どちらかというと大隈の身辺のものです。つまり勲章とか、位階勲等類のものとか、あるいは重要文書、つまり極秘文書の類もございます。それから、辞令類が非常に多いです。それから天皇の御召状ですね。これは、レセプションとかいろんなことがございますが。ですから、大隈の辞令は全部ここに入っているわけです。総理大臣とか大蔵、民部関係とか、あるいは外国官副知事とか。これ、大隈の辞令が全部ここにまとまって入っています。

 それから、調度類とか、あるいは有名な大隈のレコードとか、それから御下賜金の目録ですね。菓子折りをいくつもらったとか。金一封を陛下からいただいたとか。そういう目録類の類が、「大隈信幸氏寄贈品」なんですね。

 じつは、この「大隈信幸氏寄贈品」というものは、先般までは大学史資料センターに保管されていたんですが、この実物はいま総合図書館に移管されております。この目録が出来た段階は私どものほうに保管されていたんですが、この中西敬二郎編の実物のものは、図書館に移管されているものでございます。これ、ちょっとご回覧ください。ですから、これが「大隈文書」の補遺の次の目録ですね。これは大隈家が戦後にくださったんです。

 もう一回申し上げますと、いわゆる先生方が知っている「大隈文書」は、大隈が亡くなるとすぐに大隈公伝記編纂がなされます。その結果、伝記編纂・・つまり『大隈公八十五年史』の1、2、3巻が出ますね。その伝記が出た後に、大隈家がまとめてくれたんです。それを整理したのが『大隈文書目録』で、これを整理したのが渡辺幾治郎先生だったわけですね。それで、補遺などが出されて、それから今度は戦後の昭和39年に、お孫さんの大隈信幸さんが大学にくださった。これがこの「大隈信幸氏寄贈品」なんです。ですから、これは3番目の目録というふうになります。

 その次が、「大隈信幸氏寄贈文書」。これが私が整理したものなんです。これは、大隈家がまとまったもので持っていた最後のものだと言われています。そして、これは茶箱に2箱分で、昭和51年に大隈家からいただいたものなんです。じつはこの文書は、大隈家の内部的なものであると同時に、いままでの極秘中の極秘のものが含まれているんです。だから、大隈家が最後までくださらなかった。そして、この目録の文書を使った論文は、いまのところ1人もいません。なおかつ、この文書を保管しているのは私どもでございます。整理したのが私ですから、私がいちばん内情を知っているということですね。

これはどういうものであるかというと、授爵、勲記、記念賞関係ですね。ですから、勲一等旭日大授賞とか、そういうものがございます。それは大隈重信と、それから大隈家を継いだ大隈信常侯爵家のものですね。それから、いろんなレセプションとかの宮中関係の招待状。それから、大隈家の家系ですね。それから、書簡がございます。書簡がじつは、ザッと換算して 150通です。

伊藤 いつの時期ですか。

佐藤 これは明治、大正です。それから明治初年です。これは、まったく手つかずです。ですから、いまのところはいわゆる公開という形にはなっていないんですけれども、たとえば伊藤(光一) さんがずいぶんお使いになってくださった。というのは、憲政記念館で展示の時に、ここからけっこう出すものがあるわけです。ですから、伊藤さんはご存じなものがずいぶんあります。

 たとえばどういうものかといいますと、「他見無用」なんていうのが、ちゃんと紐で括られている。これは大隈のお嬢さんの熊子さんの字なんですね。これは、関係者がいる間はくれっこなかったですよ。そういうようなものがあります。つまり、小野梓の借用書とかね。結局、金を返さないまま亡くなったから、借用書が残っているのですね。それから、山田一郎・・大変早く政治学を提示した人・・の借用書とかですね。そういったようなものがあります。

 それから、これは大学の歴史にとって大変大事なものですが、「早稲田大学関係の御方々の御意見書」と。例の早稲田騒動という、大正6年の大変な大騒動がありましたが、その時の書類というか、書簡。これは当事者がお亡くなりになって、しかもお弟子さんもある程度融通が利くというような時期になったから、初めて大学にくれたんだろうと思います。なかなか活字に出来ないようなものが、ずいぶんございます。ですから、大隈家がなかなかくださらなかったということは、やはり大隈家は内容をちゃんとそれぞれ見ながらくださったというふうになるわけですね。これは大変、何回かに分けた見識のあるくだされ方ではないかと思います。ですから、資料をそのままそっくりあげる方と、あるいは分けてあげる方と。それはやっぱり、周りの関係者に類を及ぼさないというのも、社会的に活躍をなさった方々のご遺族の見識ではないかと思います。我々はどちらかというと、研究者であるということを金科玉条として何でも見たがるほうでありますけれども、しかしそれは研究者の驕りではないかなというようなことも、こういう資料の整理をしてずいぶん考えさせられたことがございました。なるほどなと思ったわけですね。

 それから、この大隈家の私の整理したものでは、内容はいちいち覚えていませんけれども、たとえばどんなものがあるか。大隈に宛てた時候の挨拶の類もありますけれども、松平日向守の書簡とか、あるいは岩崎弥太郎他書簡。岩崎弥太郎、佐野常民、町田久成、三条実美、加藤高明、玉乃世履、村田保、井上穀、榎本武揚、島田三郎、陸奥宗光、福地源一郎、土方久元、鳥尾小弥太、渋沢栄一、岩倉具定、後藤象二郎、松平春嶽、千家尊福、伊藤博文、岩倉具視、大木喬任……明治の政治家のものはほとんど網羅されているぐらいです。こういうものがございまして、河野広中とか、あるいは島義勇とか、海江田信義とか、板垣退助とか。あるいは外国人では、リゼンドルとか、そういう方々のものが。それから、康有為、孫文のものも1通ずつあります。大東義徹ぐらいが最後かな。

 それから、大隈重信が例のテロリストにあって右足を切断した時の、解熱剤とか丸薬まで全部あります。そして、面白いのは、大隈というのは書簡を自分が見た時に、封筒を縦に破く癖があるんです。ですから、大隈の解熱剤の時の袋が縦に破かれているんです。「ああ、これはやっぱりそうなのか」と。実物を見る楽しさというのは、そんなところがございましてね。資料の整理というのはそういうことで、「ああ、大隈は縦にするというのは、やっぱりそうなんだな」と。これはどうも渡辺幾治郎先生あたりから、僕の恩師の一人の深谷博治先生から、僕は聞いたんですけどね。「大隈さんというのは、書簡をこうやって縦にやる癖があったみたいだよ」と。確かそんなことを僕はもれ承っていたので、なるほどなと思いました。

それから、大隈の銅像が出来た時の関係の資料。それから大隈家の家系。土地家屋売買の不動産関係とか、それから『開国五十年史』という、歴史編纂の関係書類。これは大変貴重なものです。これだけを見て論文を1つ書いた者がいます。それほど、内容が豊かです。それとか、講演関係、それから雑書、それから政治政党関係でございまして、改進党の鴎渡会系の建議書というのもございます。これは例の、明治17年の改進党の解党の時に、早稲田派の鴎渡会の連中が反対した時の、大隈総理・・つまり党首に宛てた解党反対の決議書なんですね。これはなかなか貴重なものだと思います。

 それから、明治29年の自由党の内情の探聞書とか、あるいは明治31年6月27日、例の隈板内閣の、憲政党有志の建議書。それから、憲政本党経常費予算書、それから旧立憲改進党建築委員会決議録とか、政友会総裁通牒発送の件とか、選挙戦探査報告。これは大正4年の第12回総選挙の時ですね。そういったものがございます。で、大隈伯後援会の関係の資料がまとまってございます。これは季武先生がだいぶ前に、図書館のものをご活用とか。でも季武先生は、この「大隈文書」のいま言ってる大隈伯後援会は、ご覧になっていなかったと思いますね。たぶんこれは、整理の最中だか……。入ってはいたんだけれども、整理してなかったかもしれませんね。これは、憲政記念館に時々出品を依頼されます。

 それから、大隈重信の葬儀の関係、一件書類、全部あります。葬儀の規模が全部わかります。正式な記録書がまとめられております。こういうような形で、早稲田大学関係のものとか、この早稲田大学関係の書簡がなかなか外部には出しにくい、いまとしても非常に活字にはしにくいものがずいぶんございます。それから、南極探検その他。先ほどらいの図書館の『大隈文書』とその「補遺」、それから中西先生の目録、それと私の「大隈信幸氏寄贈文書」で、大隈家から大学にくれた資料が、全部この目録でわかります。つまり4種類が必要だということになりますね。

 それから3番目が、私どもの部屋の「小野梓文庫」というものでございます。これはどういうものであるかというと、いまから20年ほど前に、私どもが創立百周年を記念して、『小野梓全集』を出しました。この『小野梓』全集を出した時の一件書類を文庫としてまとめて、保存整理して、いま閲覧に供しています。この目録を、阿部恒久君と大日方純夫君が『小野梓全集』で育った研究者の2人が、「小野梓関係資料目録(文献編)ならびに小野梓研究文献目録」として出したものが、じつはこれでございます。ただし、今日お持ちしたのは、『早稲田大学史記要』の第16巻にこの目録が出されたんですけれども、この目録をそのまま補筆訂正したものを、私どものところで出した『小野梓の研究』という本がございますが、その『小野梓の研究』の巻末に入れたんです。ですから、今日はこの巻末の資料編のところだけを持ってきましたので、このいちばん最後の目録が、そのまま阿部君と大日方君の目録でございます。この目録を抜きにして、小野梓の研究は無理ではなかろうかと思います。

 いちばん大事なのは、生の資料はそんなにはございませんが、じつは小野梓を研究する論文がございますね。この論文を、ほとんど私どもの部屋は集めて整理しているということなんです。ですから、小野梓の研究をするために、どんな論文があるのか。その論文も我々は用意してある。先年、お元気な時に遠山茂樹先生がたまたまご講演なさった時にご覧になりまして、「こんなに完備しているのか。ここに来れば小野梓の研究は十分に出来るね」とおっしゃっておられたぐらいに、我々はこの「小野梓文庫」というのは、秘かに自慢にしているわけでございますが。

 ですから、じつはこういうことなんですね。先生方もいろいろと仕事をなさって、お気づきだと思うんですけれども、よく我々は著作集とか全集を出します。そうすると、著作集と全集を出した時の資料がどこへ行ったか。じつは僕は、集めた資料を学界の共有財産にすべきだということを考えているんです。ですから、我々は全集を見て、つまり『小野梓全集』の全5巻を出して、それから『小野梓の研究』という論文集を出したわけですけれども、じゃあその全集をつくる時に集めた底本は何なのか。その底本の予備本も含めて全部整理してとってあるんです。従って、「全集の小野梓の論文の、どうもここのところはおかしい。底本を見せてくれ」と言われた時に底本をパッと出せるようになっています。校訂の原稿まで全部とってあります。

 そして、我々が各関係者の遺族の調査をいたしました。遺族の調査というのは、往復の書簡まで全部。出した手紙を、手紙を出す前にコピーをして、そのコピーが綴じられているんです。ですから、遺族の調査も全部完璧にしたんですね。それを阿部君と大日方君が全部やってくれました。僕が初めこれを担当していたんですが、百年史のほうで時間が十分にとることが出来なくなったために、阿部君と大日方君が大学院にいるのを引き抜いちゃったんですね。お2人に手伝ってもらって、ここで彼らが研究した。ですから、阿部君、大日方君は、自由民権、改進党の研究ということでしていますけれども、本来は二人とも改進党の研究ではないんです。だけど、ここでの仕事が結局は、ミイラ捕りがミイラどころじゃなくて、二足の草鞋、三足の草鞋になって、研究家として大成していったんですね。これは大変ありがたいことだったと思います。ですから、小野梓の研究の資料は、全部ここに完備されているということでございます。この目録をちょっと、回覧いたしましょう。

 それから次に、「高田早苗文庫」。これは目下、高田早苗研究部会が組織されて、そこで収集・整理されております。そして、じつはこの「高田文庫」は僕が言いだしっぺでございまして、いま内田満名誉教授とか、社会経済史の正田健一郎先生等をメンバーに、14名で研究プロジェクトをつくっております。それで2002年に、『高田早苗の総合的研究』という研究論文集、 600ページぐらいを出せればと思っています。そこには、高田早苗の著作目録、それから高田早苗研究文献目録、それから詳細な年譜を付ける予定でございまして、これが収集・整理されたならば、「小野梓文庫」と同じような形にして一般公開したい。そのために、いま大学院の博士課程のものを週3回、専属に雇って、手立てをしています。ですから、やがて彼も高田や大隈、早大の研究家にもたぶんなると思います。そういう後継者の養成ということも含めて、やっております。

 高田早苗は、ご存じのように早稲田大学の行政マンとして知られていますけれども、僕は高田は大変知られていないと思いますね。『読売新聞』を今日の『読売新聞』にした、基礎を築いたのは高田でございますしね。それから、日本における文芸批評、近代的な文芸批評というのは、高田早苗が第1号ですから。それから、いわゆる国劇向上会とか、そういった文学、評論、そして大学経営、それからジャーナリズムと、第一級の仕事を残しております。しかし、そのことが意外と知られていない。従って、小野梓が終わった時に、ぜひ僕はこの高田を。昔からやりたいと思っていましたので、おそらく高田の総合的研究という本が出れば、皆さん方の高田のイメージはずいぶん変わるんではないかと思います。また、変わらせる自信もございますんでね。多くの先生方にいま、研究に従事していただいているところでございます。

伊藤 高田家の文書は入っているんですか。

佐藤 高田の文書は、いわゆる支離滅裂です。ないです。それはもう、小野梓をやる時に我々は探したんですけどね。結局は、何十年に渡って大学と関係していましたから、随時自分の本なんていうのは大学に寄贈しちゃうわけです。だから、「高田文書」という形では図書館にはないんです。高田さんの政治学というと政治の棚にあったり、あるいは文学関係だったら文学のほう。まとまっていないんです。ですから、洋書とか何かを見ますと高田先生の署名が入っていて、「たかた」なんです。「たかだ」じゃないんですよ。「TA」なんです。それで、高田先生のは「だ」と濁ってはいけないんだと。そういったこともずいぶんわかっております。

 そして、生のものはスクラップブックとか何かが、ほんの10点あるかないかです。それは我々がもちろん押さえていて、やがてこの研究部会で活用するつもりでおります。ですから、高田先生の生のものがないというのは、非常に残念ですね。いま我々は、高田の議員時代・・彼は代議士でもあり勅選議員にもなるんですが、その時の議員あるいは委員会での議事録まで、全部いまコピーしております。やがてそれが文庫として活用されると思っております。

伊藤 確か、「高田早苗先生・生誕百年記念展」というのを、昔やりましたですね。

佐藤 あの時の、生誕記念の展示目録がございます。しかし、あの展示目録にあるのに、いまはなくなっているというものがどうもありますね。あれは35年から40年ぐらい前です。ですから、非常に残念なんですけどね。高田先生の自筆のものは、僕でさえも生のものというのは軸物ぐらいしか見ていないんです。ただ、高田先生は悪筆だと言われているんですね。非常に悪筆だと言われている。ですから『読売新聞』の社説、論説も、バーッと書いたのを父上が清書したとも伝わっております。すべてではないですが、そのようにして、なかなか解読困難であったと。軸物は非常に特徴があって、右下がりの特徴のある軸物なんですけどね。どうも悪筆の評判が高いと言われているようです。

 ですから、この際高田のものがどこまで出来るか。もうタイムリミットが迫っているので、生のものがどこまで集められるか。今年の後半は、高田の書簡を集めたいんですけどね。それから、彼は埼玉から代議士になっていますので、そちらのほうの物も調べてみたい。このあたりは、たぶん阿部恒久君あたりが担当して、論文を書くと思いますのでね。これは生の資料が多少あります。そういったものを使っていただくというふうになっております。以上が、大隈および大学功労者の資料ですから、これは日本の近代史に大いに関連がある。

 ・の大学公文書。これは直接、先生方にはご関係ないかもしれません。早稲田大学に関するものでございまして、「東京専門学校・早稲田大学教務関係書類」。これは教務課から移管された大学内部のものでございます。これはどういうものであるかというと、いわゆる大学の文書ですから、教務関係書類とか、そういうものがずいぶんあります。これは大学史にとって大変貴重なものでございます。

 それから2番目が、その補遺としての「続の2」ということですね。それから3番目の「3号館旧蔵資料」。こういうものは全部、部内用で、おそらくなかなか見ることが出来ないと思いますね。私が整理した「東京専門学校・早稲田大学本部書類」、じゃあ具体的にどういうものがあるかという目録は、その抜刷を今日は2冊しか持ってきませんでしたけれども、これがその中身なんです。何がここで大切かというと、大学の教壇に立った人の履歴書がわかるんです。これがじつは大事なんですね。

 たとえば久米邦武が東大を辞めて早稲田大学に来ました。それで、私は大久保利謙先生の下で、久米邦武の例の著作集をやりましてね。それで、久米邦武について論文をいくつか書いたんですが、久米の履歴はこの文書のなかで初めて全貌がわかったんです。ただ、この履歴書の閲覧すらも、いまプライバシーの問題でなかなか厄介なんですね。我々は見せてもいいんじゃないかと思うんですけれども、一律にはいかないと。全部、総花的な規定によって、なかなか見にくくなりつつあるというのが現状でございます。

 早稲田大学の教壇に立った方々の履歴はだいたいあります。膨大なものなんです。いろんな人名が出ております。非常勤も含めてですからね。というのは、文部大臣にいちおう報告しなければならないわけです。今年度、誰が授業を担当すると。認可を得なければならないんですね。これは、官立でも私立でもそうでございましたんでね。そういった書類がある。しかもそれが、ほとんど全部が自筆です。ですから、非常に信憑性の高いいい資料である。

 それから、3番目の「3号館旧蔵資料」というのは、いま申し上げたような形の、続きですね。あとは財務関係とか生産研究所等というのは、内部資料でございますけれども、いずれ大学そのものを学術的な研究にしたいという時には、こういった資料が大事になってくるんです。僕は、おそらくあと20年以内ぐらいには、完全に大学史研究ということがひとつの専攻になるということを確信しています。というのは、たとえば理工学部の学生が修士論文を書くために、私どもの部屋に来るんです。どういうことかというと、建築の観点から大学をとらえるというんですね。つまり、学ぶ、研究する、あるいは学習するエリアといった、大学の空間というものを美的に追求するという、それが修士論文になるんですよ。ですから、建築学の観点から大学を根掘り葉掘り研究する。理工学部の学生ですら、大学をターゲットにした研究に来つつある。ですから、何気ないこの人事関係とか、本部の財務とか生産研究所とか、こういう目録を意外と詳しく調査すると、ここまでいずれは研究の手が伸びてくるだろうと思います。研究の対象が大通りだけではなくて裏通りまで来るんではないかということを、僕なんかはひしひしと最近は感じております。

 それからBの「校友関係資料」。これはまだ、まとまったものとしてはないんですが、ひとつずつ卒業生、あるいは大学を卒業した人達の関係者から寄贈されつつあります。たとえば大浜信泉という、プロ野球のコミッショナーをやったり、沖縄の返還の時の座長になった、総長だった大浜さんの資料の一部が最近入ってきまして、まだ未整理でございます。校友関係の資料としてこのBは、今後、まとまった形になってくると思います。

 それからCの運動部の資料。これはラグビー部とか弓道部とか、各運動部の資料が最近、私どもの部屋に打診されてきて、今日も担当の者がサッカー部に行っております。これは一種のスポーツ文化、大学のスポーツを文化ととらえた時・・大学スポーツ文化史という観点から見ると、こういうことは今後の検討課題だと思って、僕は運動部の資料の収集にもかなり力を入れるべきだと思っております。

 Dの個人文庫というのが、じつは大事なんです。これはどういうことかといいますと、「浮田和民文庫」というのがございます。この浮田和民の文庫は、松田義男君が整理して、『浮田文庫仮目録』というをつくりました。今日はちょっと抜き刷りがないので持ってきませんでしたけれども、これは段ボールに約7箱ぐらいだと思います。ここには浮田和民の原稿類、それから講義ノート、蔵書の一部、それから浮田和民は雑誌『太陽』の主幹でありましたので、自分が書いたものを切って、切り抜きのような形で納めてございます。

 これは、松田君が全部まとめてくれました。じつは松田義男君は『浮田和民の政治思想』という本を出しました。菊版の本にして、普通の研究書にして 600ページぐらいになろうかと思います。しかし、彼はこれを7冊しか出しません。従って市販されておりません。僕は、この『浮田和民の政治思想』という松田君の本を乗り越える研究は、少なくとも10年〜20年内ぐらいは出ないんじゃないかと思います。それほど完璧に近い、いい論文集です。論文集といっても、私どもの記要に彼が発表したものを、換骨奪胎して整理した結果、単行本にしたんですが、私家版で出しているために市場には出回っておりません。この間は、掛川トミ子さんが来られましたね。それから飯田泰三さんもいらして、みんなコピーして行きました。浮田和民の研究は、私どもの部屋に来なくてはちょっと不可能だと僕は思います。

 その次の「安部磯雄文庫」。これは私が整理いたしました。この大半は、安部磯雄が創設した早稲田の野球部が持っていたものです。野球部の合宿所にあったもの。それから、あの有名な丸山ワクチンの丸山千里博士の奥さんが安部先生のお嬢さんで、丸山夏さんから頂戴したもの。それから大学に前からあったもの。それを全部、僕がまとめたんです。これは一部、まだ未公開のものもありますが、いずれ僕は2、3年の内に安部を書きたいので、その時にまた紹介できるかと思います。

 とにかくこれは、無産運動を研究する場合にはなくてはならない資料です。来年が社会民主党結成 100年でございますので、何らかの形でこれを出したいと思ってるんですけれども、たとえばこういうことがございます。例の社会民主党が結成されて、『労働世界』に片山潜が宣言書を出したわけですが、結局あれは『労働世界』の発売禁止というか、発禁処分を受けます。ところが大河内一男先生が、戦後、法政の大原社研や何かの資料を中心にして、『労働世界』を復刻いたしました。しかし、この社会民主党の宣言書だけが抜けているんです。戦後になってもないんですね。

 ところがこの『労働世界』の発禁が、野球部の合宿所の屋根裏から見つかったんです。安部磯雄は、野球のところまでは官憲も踏み込まないだろうという形で、密かに野球部のところに持って、それが転々として野球の合宿所に。それが、安部磯雄生誕百年の時に洗いざらい調べた結果、なんと2部出てきたんです。あれはタブロイド版の4ページ立てですからね。2つ折りですから、1面、2面、3面、4面と。それが2部だから、こっちのものを見せて、こっちの裏も見せる、展示に使ったんですね。ですから、あの社会民主党の宣言を見る時に何を見るかといったら、吉野作造たち、つまり木村毅さんたちがやった『明治文化全集』ですよ。『明治文化全集』に、あれは入っていますんでね。人々はあれを見るしかない。だけど、実物を見た人はほとんどいないんじゃないんでしょうか。大河内先生たちが復刻の時にすら、それは見つからなかったんですから。ですから、私共はそれをちゃんと額縁に入れて、保管しています。僕は授業の時に持って行くんですけど、みんなびっくりしますよ。

 あとは安部の日記がございます。これは同志社時代の日記で、まったく活字になっていません。これはいろいろとご遺族との関係もあって、いずれ僕が復刻したいと思います。それから、無産運動の時の安部の日記があります。僕はこれを使って、まだ一般公開まではしていないので、「君、僕が材料を提供するから、論文を書いたらどうか」といって書いたのが、大日方純夫君の「社会民主党首安部磯雄の活動」の論文なんです。ですから、ここは安部を中心とした日本の無産運動、といっても右派ですよね、社会主義の右派の、フェビアン協会系のほうの関係のものとしては、ここは宝庫じゃないかと思いますね。

伊藤 それは何年頃のものですか。

佐藤 もうこれは、ほとんどありますね。ということは、日記は同志社時代・・1881年。それから、安部が留学した時の1891年〜95年までの手帳、それから安部磯雄日記・・1925年と、昭和9年の手帳。ですから、詳しいいわゆる日記というよりも、誰にいつ会ったかと。これを調べて、断片的なメモがじつはものすごく大きな意味を持つ。僕は、戦時下における総長であった田中穂積の日記を読みました。たった1行か2行ですけれども、裏を調べていたために、津田左右吉先生の学内の津田事件のほぼ全貌がわかりました、断片的な日記でも。ですから、津田先生の辞任をどういうスケジュールで、どういう手順でやるか。そんなことは何ひとつわかってなかったのが、田中穂積の日記でわかったんです。だから、最終的には日記が決め手になりますね。ただ、それをいかに解読するかという、その10倍ぐらいの作業をしなければ、日記というのはわからない。

 そういうことで、ちょっとこのへんのことは、安部のことを近々ある出版社が資料集を出したいということなので。その結果、この『安部磯雄の研究』というものを私たちは出しました。『安部磯雄の研究』というのは、なくなった社会科学研究所の研究部会で、これは研究所で出したために市販されていないんです。しかしこの『安部磯雄の研究』という、僕がプロジェクトを発案して、そのチーフを中村尚美先生にしていただいたんですけれども、近々、来年ぐらいにそのまま復刻したいと思います。ある書店が、ぜひそのまま復刻したいと。ここには、安部磯雄の著作目録、年譜等も入れたいと思っております。これが、安部の目録でございます。

 次に、山本忠興。この人は理工科の先生ですけれども、山本忠興先生のご遺族が資料をくださいまして、目下整理中でございます。

 それから、この4番の「堤康次郎資料」。目下、整理中。これは、堤清二さんが昨年くださいまして、私もくださった時に立会いに行きました。段ボールに約80箱です。これ、ほとんど全部です。従って、吉田茂の時とか、あるいは衆議院の議長とか、それから書簡はほとんど頂戴しています。じつは、この資料のごく一部を使って堤康次郎の伝記を出されたのが、明治大学のもうお辞めになりましたが、由井常彦先生。セゾングループの社史とともに、堤康次郎の伝記をお書きになったんですね。その結果、堤康次郎さんのものを全部くださるというので、これは無償で頂戴いたしました。そのために、堤康次郎の資料の一部を出して、この9月から10月にかけて3週間ぐらい、特別展示いたします。資料の中間報告の展示だという形で、ごく簡単なパンフレットで行くか行かないかですが、あるいは1枚刷りかもしれませんけれども、堤康次郎の特別展を、この9月から10月に開く予定でございます。いずれこの堤の資料を整理することによって、若手の者が3人ぐらい育てばなと思って、現在、由井正臣先生、安在邦夫先生のゼミの大学院の院生などが整理していると。これはけっこういいものになろうかと思います。

 これが私どものセンター個人の資料という形で、あと・は、いわゆる高等教育関係の資料。各大学の歴史の百年史とかというものは、本館の図書館よりも私どもの部屋のほうが揃っております。それから、喜多村和之客員教授。喜多村先生は、国立教育研究所の政策部長だった人です。この70年代、80年代の高等教育のプランナーでいらっしゃった人ですから、この3月に国立教育研究所をお辞めになって、いま客員の教授として文学部の大学院においでになっています。この先生の資料を、そっくりそのまま大学にくださって、これが高等教育行政関係資料として、喜多村先生自らがお弟子さんなどを使って整理される。整理にはどうみても2、3年かかるんじゃないでしょうか。その後には、戦後の高等教育の政策・立案過程が、この資料でずいぶん解明されると思います。個人の資料であると同時に、半ば公的なものの資料も入っていますのでね。これは、教育学のなかで大学史研究、高等教育史の研究をなさる方は、今後は活用できるんじゃないでしょうか。早稲田には何人かの大学史の研究の先生がいらっしゃるので、お弟子さんがずいぶん育つことが期待されているといっていいと思います。

 それから、Fは写真なんですが、これは一見なんでもないようだけれども、僕はじつは大事だと思っております。早稲田の百年史をつくるにあたって、百年史に掲載した写真が全部そのまま保存・整理されております。と同時に、『建学百年 都の西北』という写真のアルバムを出しました。そのアルバムに掲載した写真もそのまま全部、整理・保存されております。それから、「東京専門学校・早稲田大学アルバム」。大学関係のアルバムが数百ありますが、その数百のアルバムの目録が整理されて、閲覧に供されています。その目録も、私どもの大学史の記要の第27巻に活字化されております。

 この4番目が、私が現在整理を進めている、『早稲田大学大学史資料センター所蔵「原版写真」目録』(1)〜(3)。じつはこの(3)は、来年の記要に発表する予定で、もう書いておきました。来年の予定で終わると思いましたので。これが(1)と(2)の目録でございます。これは、原版の写真、オリジナルな写真。じつは、田中正造の写真といったら、パッと出てくる。これ、(1)はインターネットに入れてあります。ですから、ご自宅から早稲田大学にアクセスなされば、すぐ出来ます。いずれこれを、たぶん大学では有料にすると思いますね。いま『朝日』とか『毎日』とかみんな有料になっていますので、そういったことになるんではないかと思います。

 僕はこれを整理するのに、片手間では出来なくて、かなり専念してやりました。僕はいろんな文書の整理をして何が難しいかというと、写真ほど難しさを痛感したことはありませんね。たった1枚の写真を、どう整理するか。何かメモがあればいいんですが、この大半は卒業記念でありまするけれども、大隈家がくれたものであるために、じつは進歩党の解散記念の写真とか、けっこう面白いのがあるんです。そして、これは(1)の部分だけがインターネットに入って、(2)の部分がいま入力中でございます。これが出たならば、原版写真(約3500枚)としては最もまとまったものになるんじゃないんでしょうか。早稲田大学中心ですけれども、大隈のものが多いがために、部分的には政治のものも非常に多い。

 ですから僕は、いずれこの写真の整理が終わったならば、「資料としての近代の写真」という論文を書こうと思います。それほど資料としての写真というのは、ちょっと忽せにできない大事なものだと思いますね。資料学としての写真というのは、一度論文を書いてみたいなと思っております。目録のページ数を大変とったために、字が小さくて、8ポ組ぐらいでやっているためにちょっと見にくいんですが。以上が、大学の私どもの大学史資料センターのものでございます。

 次に出てくるのが、いよいよ図書館ということになって、ここが先生方が非常に関心のあるところだろうと思います。早稲田大学の中央図書館には、いわゆる文庫とかコレクションというものがございます。それには、それこそ何十もの文庫があります。早稲田大学で揃ってるといったら、僕はやっぱり近世だと思いますね。近世の資料が早稲田にはいちばん揃ってるような気がいたします。それは何かと言ったら、江戸文学の大家がたくさん揃っていたということなんですね。だから、当然それはそうなんで、それから後は洋学系統の文庫ですね。幕末の蘭学系統のものがずいぶんございます。でも、今日のここにはもっぱら近代に限って、10数点あげてみたいわけです。

 これがいよいよ「大隈文書」というわけで、大隈の寄贈した文書。これがさっき伊藤先生がおっしゃった、あの厚い目録です。これが 12179点、うち欧文が1066点。これが早稲田大学大隈研究室編『大隈文書目録』。1950年・・昭和27年ですね。この主任が渡辺幾治郎先生だったということなんです。これの補遺が、図書館の柴辻俊六さんと柴田光彦さんがお出しになった、『大隈文書目録補遺』でございます。ですから、『大隈文書目録』、『補遺』、それから中西さんの目録、そして私の「大隈信幸氏寄贈文書目録」。これで大隈家が下さった寄贈の文書が全部揃うということなんです。以上でございます。

 それから、「花房文庫」。この「花房文庫」というのは、初代の内閣の統計局の局長だった、花房直三郎の旧蔵書なんですね。1399部、4248冊ということで、統計関係のものを調べるには、大変便利なものだろうと思います。これは分類目録のなかで、部内用のもので、この詳細なものは大学のなかにすでにございます。「花房文庫」は、日本だけのものではなくて内外の統計関係書類と、各地の関係官庁の書類等、ずいぶん細かく分かれて、閲覧に供されております。

 それから、「津田文庫」ですね。「津田文庫」はご存じのように、歴史学者の津田左右吉先生の旧蔵書、2457部、 10375冊。うち欧文が 748冊で、欧文のものはいま私どものセンターで保管して、津田左右吉博士記念室で展覧されております。津田先生は大変な学者で、欧文のものをずいぶんお読みになってますね。線を引いたり、単なるツンドクではなくて、お読みになったというのが実物を見るとよくわかりますね。この間も、中国の北京大学の留学生が来て詳細に調べていきましたけれども、津田先生の生のものは全部ここに揃っているということでございます。

 それから、「原田繊維文庫」。大日本紡績会社の元監査役だった原田忠雄さんの収集・整理した、紡績繊維関係図書、1596部、2259冊。欧文が 507冊という形で、これは社会経済史ならびに繊維関係の人達にとっては、大変な特殊文庫のひとつだろうと思います。

 それから、「逍遙文庫」はご存じのように、坪内逍遙先生の旧蔵書でありまするけれども、坪内先生の旧蔵書の演劇関係のものは、演劇博物館に収蔵されているんですけれども、他の旧蔵書5082冊が図書館に「逍遙文庫」としてあるわけです。他のものは、地誌関係のものはご自宅のあった熱海市の図書館に寄贈されてある。これは文学関係でございますけれども、坪内先生は大変に幅広かったために、いろんな活用があるんではないか。

  そして6番目が、比較的ご関心があるものじゃないんでしょうか。「西垣文庫」なんですね。元日本新聞協会の会長で広告会社の社長の、西垣武一さんの収集資料で、新聞・ジャーナリズム関係の図書、広告、看板、そういった風俗資料、 12069点。うち、洋書が 119冊。これは無類に面白いです。もう、看板の類からいろんなものがあるんですからね。ですから、広告出版文化史にはまたとない資料で、これは目録もございます。時々展示会なんかもやりますので、これは大変面白い社会史の資料ではないかと思います。

 その次が、柳田泉先生の「柳田泉文庫」。これは、国文学者、英文学者の柳田泉先生の旧蔵書9582冊。洋書、 830冊。しかし、柳田先生は空襲で本を焼いてしまったんですね。だけど戦後にまたお集めになったいい資料です。ご存じのように柳田先生は、政治小説の研究とかいろんなことをなさっていますので、決して狭い意味での文学ではないんですね。筑摩書房の『明治文学全集』というのは、柳田泉先生のいう文学概念で出したものですからね。ですから、哲学とか普通の狭い意味での文学とか、あるいは教育とか政治思想、それが全部明治の文学の概念ですから、そういう広い意味での文学者であるがために、柳田先生のものというのは大変貴重なものがあります。これは目録が出来ています。ずいぶん分厚い目録がありますので、これを見ると大変楽しい思いをなさると思います。

 それから同じ文学者である、本間久雄先生の文庫。本間先生の収集 454点、図書が1514冊ですけれども、ご存じのように本間先生は、エレン・ケイを初めとして、女性史研究でも大変先駆的なお仕事をなさった先生ですので、決して狭い意味での文学者ではないんですね。思想史においても、「本間久雄文庫」というものは大変役立つものがありますので、明治・大正の文学資料を中心としたもので、おそらくコレクションとしては他の追従を許さないぐらいにいいものが揃っていると、専門家は言っています。これも、一度は覗いてもいいんじゃないでしょうか。

 それから9の「入江文庫」は、ご存じのように国際法学者の入江啓四郎先生の旧蔵書を、例の入江昭さんがくださったもので、これは7915点。これはもう、日本だけのものではなくて、国際的な洋書などがずいぶん揃っているということですので、まだまだ使いこなすまでに至らないような気がいたします。これは昭和53年にくださったものですから、まだまだこれを本格的に使った論文というのは、ちょっと僕は知りません。これは、宝物のような気がいたします。

 それから「福島文庫」。これは福島正夫先生の奥様がくださったものですけれども、僕も福島先生と一緒に仕事を8年間ぐらいやって、ずいぶん福島先生に可愛がっていただいたんですけれども、東大のほうに入らなくてこちらにいただいたということでございますね。地租改正、中国・ロシア等の社会主義関係の法令といった、中国語の図書が約1500冊。これ、大変貴重なものだと思いますね。福島先生は、いわゆる家族制度の法と地租改正、社会主義法という、大変多彩な、幅広い学者でいらしたんでね。そういった意味では、大変なお宝を頂戴したなと思います。

 次が、大変関心のあるものではないんでしょうか。というのは、「渡辺幾治郎収集謄写明治史資料」というものがございまして、これはじつは目録がありません。渡辺幾治郎文書・深谷文書研究会という会を安在邦夫さんがなさっていて、僕はその時のメンバーであったんです。これは当時、文学部が一部持っていたのかな。だけど、深谷研究室の印があるから、カードをコピーしたんです。だから、目録はないんですよ。つまり、「渡辺幾治郎収集謄写明治史資料」というものが、やがてこの図書館に入ったんです。さっきの、先生の生のものが図書館に入ってる。これ、すべてが写本と言っていいくらいなんですけれども、これが図書館に入りました。

  そのなかに、徳大寺実則の日記などの貴重な写本があるんですね。 123冊。そして、じつはこの徳大寺実則の日記を我々は3年間ぐらい読みました。これ、大変なものです。でも、これは宮内庁に原本があるということです。初めは宮内庁は「ない」と言っていたようでした。そのうちに、「いや、見せられない」というふうになったようでした。それはやっぱり、宮中のことですからね。つまり、少なくとも明治の後半期の侍従長だった徳大寺のものですから、一級中の一級の資料で、宮中にまつわること、それから大正天皇のご幼少のご体質のことなどがかなり書かれております。従って、やっぱりこれは、ある意味においては一般の目に触れるべきではないというようなものと、僕なんかは個人的には思うところもございます。だから、宮内庁は大変慎重な姿勢を示しておられると思いますね。

  こういう、徳大寺の日記を初めとする明治史の史料の写本というものは、おそらく渡辺幾治郎先生が明治天皇の伝記の編纂官でいらした。それから、その編纂官補というお役目であったのが僕の恩師の深谷博治先生であり、後の東大の林茂先生であったわけですね。ですから、誰の写本なのかというのは、僕は深谷先生の筆はわかるんですけど、ちょっと渡辺先生のものは断言できないんです。それは、異質のものがずいぶんございます。ちゃんと製本されたものが多いです。

 じつは、この渡辺幾治郎先生の写本のそっくりすべてが、一時朝日新聞社に行っていました。それはなぜかというと、大仏次郎さんの『天皇の世紀』の時に、これが参考として使われたんです。大仏先生があの『天皇の世紀』で日本の近代史をお書きになろうとして、これは終生の仕事になりましたね。結局、未完に終わった。晩年は、あの築地の聖路加病院で原稿をお書きになって、そのままお亡くなりになったわけです。そして、これは裏話でございますが、じつは大仏先生の『天皇の世紀』のスタッフというか、いわばブレーンは、大久保利謙先生、そして深谷博治先生、洞富雄先生の3人で、お書きになった原稿にすべて目を通したんです。

 そして、大仏次郎先生が「今度は長州に行って調べたい」「今度は土佐に行って調べたい」とおっしゃると、朝日の学芸部の主任であった人が全部、手配するわけです。それが有名な、櫛田民蔵さんの息子さんの櫛田克己さんで、学芸部の主任でした。大仏さんを『朝日』が全部丸抱えで、晩年はお世話をされた。大仏先生が「長州に行きたい」というとすぐ手配して、それについていくスタッフが、私どもの大学院の深谷ゼミのドクター課程を出た2人だったんです。手塚甫さんと 暉峻康人さん。それからもう一人は、他の大学院の院生でした。つまり、バリバリの大学院の博士課程を出た3人と、それから大久保利謙先生、深谷博治先生、それから洞富雄先生が全部チェックしたんです。そして、新聞に載ったんですね。これが裏話です。

 従って、大仏先生が亡くなったために、『朝日』から返却されてきました。それじゃあ、提供したのは誰かというと、深谷先生が提供したわけです。深谷先生は、一種の渡辺先生の門下生ですからね。ですから、渡辺先生の資料を深谷先生がお預かりしていたという形になるわけです。そして、朝日新聞社から戻された時に、もう深谷先生はお亡くなりになったので、洞富雄先生が、「佐藤君、君ら若手に見せるから、また段ボールに入れる前にみんな見に来い」とおっしゃって、このぐらいの部屋に全部並べたんです。みんな、2、3時間手にとって。写本ですけどね。だけど、和綴じになっていたものとかで、みんな「これがそうか」というような形で見たものです。

 そして僕は、深谷先生がその前にご定年で辞めた時に、確かそれを運んだ……。僕は自分でトラックを運転してやりましたのでね。リヤカーの時もあったな。2回ぐらいそれを見たことがあるんです。それがいま、図書館に写本として入っている。これらはいま活字にはなっておりません。これを使って、安在さんを中心にして研究論文集を出そうじゃないかと。4、5人ぐらい一部原稿を書いたのかな。まだ、出版社の事情から刊本にはなっていませんけれども。

伊藤 渡辺さんの収集したものと、深谷さんのものとがあるわけですか。

佐藤 そうですね。だけれども、深谷先生の独自のものというのは、いま安在先生がたぶん段ボールか何かで持っておられるんじゃないかと思います。でも、どうも渡辺幾治郎収集というのは、深谷先生のものとまざっているんじゃないかなと思いますね。ちょっとそのへんのことは、目録が出ていないので。ただ、いま安在さんは学部長をおやりになったり教務関係をなさったりして、大変ご多忙であるために、いずれお若い研究者たちとともに整理なさるんじゃないかと思いますね。図書館のものは、いずれ整理してもらいたいなとは思っています。目録化してもらいたいなと。

 ただ、ちょっと余談になりますが、「徳大寺実則日記」を見て、僕は明治天皇が亡くなった日が、異説が2つあるというのを初めて知りました。明治天皇が亡くなったのは7月30日の午前0時43分ですが、じつは前の日の29日の午後10時40分に亡くなっていると。これは何で知ったかというと、原敬の日記に書かれていますからね。「原敬日記」で、僕は知っていたんですけれども。徳大寺のは、また違うんですね。29日午後11時30分と書かれている。だから、明治天皇の死亡の時刻というのが、じつは3つあるということを初めて知りましてね。看過できない史実なんですけどね。

 だって、明治天皇の死去というのは、『官報』に登載された7月30日しか、どんな近代史の年表を見ても、全部7月30日ですからね。これは公式発表なので。ところが原敬の日記だと、29日の午後1040分ですよね。ところが徳大寺の日記を見ますと、午後1130分なんです。いずれにしたって、前の日に亡くなってるわけですからね。これは、宮中に伝わる践祚の儀式に間に合わなかったということなんですね。践祚の儀式の準備のために、まだ生きておられるという形にしないとまずいという、宮内庁の配慮でしょうね。つまり、万世一系の皇統が、たとえ1分たりとも空位であってはならないという、これ以外に僕は解釈できないと思うんですね。ですから、践祚の儀式の準備のために、時間をつくるために30日の午前0時43分にしたのではないかと。「原敬日記」にちょっと書かれていますけれども、「原敬日記」以外の、なんと侍従長の徳大寺の日記で・・これ写本なんですけどね。写本ですから、書き間違いがない限り、午後1130分ということを、初めてじつは知ったわけなんですね。ですから、些細なことといっても、これは大変由々しきことですから、そんなこともこの貴重な写本でわかったという、そういうお土産までつきました。

伊藤 この渡辺さんの文書は、公開されてるわけですね。

佐藤 公開されています。もう図書館に入りましたんでね。

伊藤 何があるかということは、図書館に行けばわかるということですね。

佐藤 わかります。ですから、これはちょっとその前のことなんですね。これはコピーは控えていただきたいんですが、部内の、我々の研究会のものなので。これが研究会のコピーですね。88年の時ですから、ずいぶん前なので。ただ、残念ながら機微に渡るものというのは、原本と写本の違いというのはなかなか難しくて、我々はどうしても原本を見ないと。ですから、写本というのは所詮写本だという、なかなか決定打がないといえばそうなんですね。

 ただ、文学の人達の、たとえば『源氏物語』とか『平家物語』の写本の場合に、何々系の写本という形で学術的なものは書けますけれども、近代の場合の機微に渡るものが、果して写本で出来るのかと。そういうことが問題になってくると思いますね。しかし、単なる研究者の写本ではなくて、公的な立場にあった人が公的な仕事の最中に写本として残したということにおいては、渡辺文庫と深谷先生の文書は、極めて信憑性がある。そのことをちゃんと明記した上で、僕は学術的な論文を書くことは可能だと思います。しかし、出来たならば宮内庁とか、あるいは憲政史の編纂会とか、そういったところと突き合わせて慎重に研究論文を書くべきだと思いますけれども、そういう制約があっても、僕は十分に学術的に耐えるものではないかと思います。

伊藤 資料部が「明治天皇記」を編纂した時に使った資料は全部写本ですが、それを公開すれば、だいたい重複するということになりますね。

佐藤 そういうことです。ですから、結局そこで公開するようになったならば、この渡辺先生の写本なんていうのは別にどうということはないんです。ですから、いまは非常に貴重でも、将来はそうじゃなくなる可能性もあるということですね。そういうことでございます。

 それから、「市島謙吉自伝資料」でございます。これは「いちじま」と濁らないんだそうです。ちょっとその前に申し上げますが、渡辺幾治郎先生の明治史の資料は、例の佐佐木高行の日記の写本があると。これが大変大事、東大の史料とこれを突き合わせることによって、だいぶ揃ってくるということでございます。これが、その目録のホンの一部です。僕は自分の論文を書こうと思って、一部をコピーしたのかな。これが図書館の、渡辺幾治郎の明治史資料のカードの一部です。

伊藤 保古飛呂比も……

佐藤 「渡辺文庫」のなかに入っているんです。佐々木の日記ですね。

伊藤 これも、資料部が出せば、ということですね。

佐藤 そうです、そういうことになります。ですから、そういう写本の類であって、一次資料の生ではないということですけれども、なかなか面白い。

伊藤 資料部が持っているのも、写本だと思いますけど。

佐藤 だから、重複するということになろうかと思いますね。

 次が、いま申し上げようとした、市島謙吉の自伝資料。市島謙吉は、早稲田大学の理事をした人でございますが、若い頃は新潟県選出の代議士であって、それから高田早苗が読売新聞の社説の主任であった前後に、市島もジャーナリストとして活躍しています。その市島の自伝関係の資料が18冊と、3巻立ての巻物がございます。これが市島の伝記資料で、どういうものがあるかというと、これは本当に自伝関係でございますが、たとえば立憲改進党の結成当初の鴎渡会グループの機関紙が、『内外政党事情』という新聞でございました。この『内外政党事情』廃刊の経緯を記した直筆のものとか、こういったものがございます。

 でも、この市島の自伝資料よりももっと資料価値があるのが、次の13の「市島春城資料」。この「市島春城資料」というのは、生涯に渡る日記など 814冊ですが、その他軸物とか何かをひっくるめて43点ございます。じつはこの市島の日記が大変貴重でして、季武先生がこれを使って論文を書いておられた。特別資料室に来られて、ずいぶん精力的になさって、僕も相前後してちょうどやっていたんですね。それで、この日記の1年分か2年分で、論文がひとつ書けます。それほど宝庫でございまして、季武先生がお書きになったり、あるいは勝田政治君が、民政党になる前の憲政会ができた時の論文を書きました。

  じつはこれ裏話なんですが、僕が大隈伯後援会の論文を書いて、その時に読んでいて、この憲政会が出来るというのは、つくる大本になったのは高田早苗だったんですね。高田早苗が参謀役を務めていて、全部資料を読んで印をしておいたんです。しかし、僕も忙しくなっちゃって、「勝田君、材料をやるから論文を書かないか」といって、書いてもらったのが「第二次大隈内閣と憲政会の成立」なんです。つまり、市島の日記というのは、2年分ぐらいで論文が十分書けるんです。僕はわずか数カ月の分を読んだだけで、ひとつ論文を書いちゃったんですからね。それほどこれは宝庫でして、いま市島春城の研究会というのがございまして、いままでも10年分というか、10回ぐらいこの日記の解読が活字化されております。だけど、まだ大正まで行っておりません。でも、市島の日記というのは、甚だ私ども大学としては不都合なことがずいぶん書かれているんですね。本当に困ることを、ずいぶん書かれています。まあ、これはオフレコにしていただきたいんですけどね。

伊藤 でも、市島の日記は見せてるでしょ。

佐藤 見せてくれますけどね。

伊藤 あれは、もともと私が見た時は、新潟の図書館にあったと思いますが。

佐藤 そうです。それがマイクロになったりして、いろいろな経緯があるんです。早稲田では一部、マイクロ化にもなっておりましてね。ですからいま市島の日記は、十分大学で見られるようになっております。

伊藤 実物をお持ちなわけですね。

佐藤 ですから、実物が全部ではないんですよね。どうも、全部ではないらしい。でも、日記の類は全部来たということを僕は聞いてはいるんですけどね。

伊藤 新潟にあったというのは、どんな意味があったんですか。僕はちょっと……

佐藤 どうも、僕の先生筋の方々が詳しいことを知ってるんですよ。あまり僕には語ってくださらないんで。やっぱり複雑な事情があったようです。

伊藤 そうですね。

佐藤 僕とか季武先生は、来たものを利用させていただいたという世代ですのでね。だから、深谷博治先生とか、あるいは洞富雄先生のあの時代でしょうね。洞富雄先生が副館長ぐらいの前後かもしれません。ちょっとわからないんです。

伊藤 僕も使った記憶があるものですから。

佐藤 これは大変貴重です、日記の中身は。たとえば、例の陸奥宗光の息子が婿に入った古河鉱業ですね。あれの大番頭が昆田文次郎という人です。大変な古河の大番頭ですよね。昆田が大学に呼びつけられて、「けしからんではないか。古河では慶応に何万だか寄付したのに、早稲田にはこれだけしかくれないのか。今回、古河の当主が授爵に預かったのは誰のおかげなんだ」と(笑)。第2次大隈内閣の時に、男爵かなんかになったんでしょ。市島さんが詰問してるんですよ。そういったら古河が、さっそく慶応と同額にして、後日持って来てるんですよね。そんなようなことは、もちろん時効といえば時効だけれども。あるいは大隈家の内情のこととか、やっぱりいろいろと書かれてありますよ。

季武 これは、出版する計画はないんですか。

佐藤 いま活字化されていますから、日記を読む会の人達が図書館の紀要に。だから、いずれやるという形でしょうね。ですから、あれをやってる方がまだ50代の方だから、まだ10年は十分続きますんでね。いいものになるんじゃないんでしょうか。読んでいて面白いですよ。非常に面白いです。

季武 僕なんかも、大正時代の分しか読んでませんけれども、ずいぶん明治の初期の書簡を集めてたりするんですね。それを日記に写してるんですね。西郷隆盛宛大久保利通書簡とか。ああいうのって面白いなと思いますね。

小宮 僕が見た時はやっぱり、矢野文雄からの書簡とか、中央からの情勢を日記に写してるんですよね。

佐藤 とにかく、市島先生というのは無類のメモ魔で、たぶん原敬の日記の裏事情を見ると面白いと思うんですけれども、それと同じようにおそらくメモか何かをお持ちになって、それを3段階ぐらいか何かして、箱根の塔之沢の環翠楼に行って、月末とかまとまった時にそこで全部書くのが楽しみなんですよ。そして何日間分を、カッコして「何日何々記す」と。そういう書き方でしてるから、毎日毎日書いているものとは違って、ひとつのドラマ性もあるんですよ。そのドラマ性をある程度慎重に検討しなきゃならないという、新たな課題もあるんです。非常に資料価値があります。

 ですから、第2次大隈内閣の瓦解の時の、大隈がいかに動いていないかとか、そういったことは手に取るようにわかりますね。大変な語り部でもあったということで、市島の日記というのは。市島は江戸期以来の最後の文人ですよ。そういう非常な多趣味な人だから、市島の日記というのはそれだけ面白いと同時に、早稲田大学の図書館が今日あるのは、市島先生の遺産に負うところ極めて大なんですね。収集家なんですよ。ですから、世間話を99%して、最後に「ところで」という、そこがうまいんですよね。そうしていい資料をどんどん集めた。だから、市島さんが早稲田の図書館をこれだけのものにしたということを知った上で市島さんの日記を見ると、政治とかそういう狭い分野じゃなくて、近代の明治の文明といいますか、そういうことを垣間見ることが出来ると思いますね。堅い話から柔らかい話まで硬軟混ぜて、非常に人間味の溢れる人物だと思います。そんなことが感じられます。

 それから、御厨先生たちが先年なさっていた、宮島誠一郎の文書を早稲田大学が譲っていただいた。これ、有償でございますが、宮島さんからいただいた。これが幕末明治の日記、その他、2330点と。じつは、これを早稲田大学の図書館が引き受ける時に、普通の図書館の予算では買えませんで、大学の本部に上申書を出さなくてはなりません。その上申書を書いたのは僕なんです。ですから、これを入れた経緯はよく知っていて、現在、由井正臣先生を中心として、宮島誠一郎研究会という指定課題研究の部会が、現在もう3年目ぐらいに入っていますか。たぶん来年あたりには、研究成果が出るんじゃないんでしょうか。その目録を今日お持ちしたのが、これでございます。

 ひとつは、御厨さんたちが憲政資料室にあった時にお書きになった目録。それが今度、大学の図書館にも入った時に、仮目録をつくりました。その仮目録を、いわば公に出したものがこれでございまして、これが宮島誠一郎のいちばん新しい文書目録です。

伊藤 それは、いつ出したやつですか。

佐藤 まだ、出て間もないですね。97年ですね。3年前です。

伊藤 69年に何か、図書館から文書目録が出ていますが。

佐藤 それは早稲田の図書館ではないでしょう。

伊藤 いや、早稲田の図書館です。

佐藤 図書館になってますか。何という書名ですか。69年に宮島のものが揃ってますか。

伊藤 『宮島誠一郎文書目録』早稲田大学図書館文書目録第5集……あ、これだ。じゃあ、これは年度が間違ってるのか。

佐藤 そうでしょう。だから、1997年です。奥付をご覧になってください。

伊藤 平成9年になってますね。同じものだと思うんだけどな。

佐藤 その前に宮島のまとまったものというのはございませんから。ですからこれは、ご存じのように大変貴重なものですので。この宮島の論文をいま書いてる院生が何人かいますので、いずれこの文書を使って研究者が数人育つんじゃないんでしょうか。そんな気がいたします。

あとは、学部の図書室にどういう宝物があるのか。これはまったく、先ほども申しましたように未調査でございまして、おそらく僕は、人文系とか社会科学系よりも、理工系のほうに貴重なものがあるような気がしますね。僕はそっちのほうはわかりませんので、土木関係とか電気とか建築関係で、非常にいいものがあるんではないかなと思っております。

 大変雑駁なものでございますけれども、以上のようなものでございます。ただ、慶応系では福沢の研究というものが富田正文先生を初めとして、また福沢諭吉協会が膨大な研究文献目録というものを出しております。しかし、大隈の研究文献というのはあるのかというと、何もないんです。ということは、大隈学を大成する人がいなくて、僕がまとめたものでも 367点。これ、数え方によりますが、 500にも満たないというものでございます。これは誰でも手に入るようなものをやったんですけれども、以上のことぐらいで。従って、いままで伊藤先生のお声掛かりで、ここで何人かお話してくださった方々に比べれば、早稲田大学という狭い場所での、ごくごく微細な研究の目録をちょっと紹介したに過ぎません。その程度でございます。以上でございます。

伊藤 どうもありがとうございました。いろいろ新しい知見がたくさんありまして、非常に面白かったんですが。1つだけちょっと、田口卯吉の文書が、確か早稲田にあるという……。

佐藤 田口のもの、まとまってですか?

梶田 私、柴辻さんにお願いして見せていただいたんですけど、まだ未整理なので、一般にはまだ閲覧できないという。

佐藤 従って、目録みたいな形では出てないです。

伊藤 それはどこですか。図書館でした?

梶田 図書館の……

佐藤 特別資料室。だから、柴辻さんももうそんなに長く図書館にいないと思いますので、専門職の方がいなくなりますね。いま田口鼎軒が出てきたために申し上げますが、田口鼎軒のお孫さんが長い間、図書館の館員で、田口親さん。東大に近い、西片町にお住まいで、大変飄々とした方で、鼎軒の伝記を吉川弘文館の人物叢書で。

伊藤 近々、出ますから。

佐藤 ということで、お若い時にそういったことをなさっていたんですけど、僕はよく存じ上げております。そういった経緯で入ってきたんだろうと思いますね。でも、田口のものが入っても、研究家がいるかなあ。田口のどこをやるかですよね。経済史関係か、史論関係か、何をやるかによっていろいろありますからね。だから、田口さんのものが入ると、いろんな食指が動くんじゃないんでしょうか。面白いと思いますね。鼎軒全集以来の形で、田口研究のひとつの機運が出てくればいいと思うんです。

 僕はあまり政治史そのものをやってきた人間ではないので、もうちょっと政治史とかに関心があれば、そのへんの匂いを嗅ぎつけたとたぶん思うんですけれども、なかなかそっちのほうの感じが薄かったために。

伊藤 喜多村和之という方は、国立教育研究所の……

佐藤 政策部長だったんです。ですから、いろんな研究プランの立案に関わった人ですね。高等教育行政のプランナーというような形でもいらした。広島大学時代以来、70年代、80年代の、いわば国立の研究や何かにずいぶんですから。教育百年史の膨大なものが出ましたね。あれなんかは国立教育研究所で出したものですから。先生は、もともとヨーロッパの大学史がご専門なんですよ。でも、いろんな百科事典とか歴史辞典の各大学の歴史というと、だいたい喜多村先生が執筆なさってますよね。大変な大家の先生でいらっしゃいます。

伊藤 文部省の行政に直接関わった方なんですか。

佐藤 文部省の、いわば行政マンではないですから。研究のほうですからね。ですから、歴史的なものとか……。このまとめ的なものを、どこまでなのか僕もまだ全貌はわからないんですよ。最近お付き合いが始まったばかりなので。資料を生のものを見たりしてると、「ああ、こういうものか」ということですけれども、まだ段ボールに入っているような状態で、いずれ開いたらちょっと見させていただきたいと思います。堤の時には、段ボールに入れたりするのを僕は見てましたんでね。多少、そのイメージはあるんですけれども。堤のものは、宝物でしょうね。

伊藤 まあ、そうでしょうね。

季武 僕も佐藤先生の後にくっついてずいぶん資料の所在が分かったりして、ありがとうございました。さっきの「大隈文書」の中で、いちばん最後の目録・・佐藤先生がつくられたわけですけれども。これが、いま大学史資料センターにあるわけですか。

佐藤 はい、そうです。

季武 これは、いま閲覧は?

佐藤 適宜、決裁というか。それで、許可するものとしないものとがあると言っていいと思いますね。いずれ、いまの仕事が一段落したら、出来るだけ活字化したいんですよ。院生か何かの勉強にもなって。貴重なものがあると思いますね。

季武 さっきチラチラと見させていただきましたけれども、すぐ見たいなという資料もありますね。

佐藤 そうでしょ。何のことはない時候の挨拶とか、お礼とか、そういったものがずいぶんあるんですけどね。僕は、自分でメモしたのがあるんですよ。整理した時に、ちょっと面白そうだから、何かとかね。そういうものがありましたね。だけど、どちらかというと大学関係のものがものすごく貴重なものでした。という印象を受けましたね。でも書簡ですから、その書簡の背景を知っていたならば、先生なんかが見たら「これはすごい」というのが出てくるんじゃないんでしょうか。

西川 関連してお伺いしたいんですが、もし閲覧をしたいということですと、大学史のほうに申し込めば、閲覧目的を。

佐藤 そうですね。ですからその時には、それが記要に、僕の名前で目録が発表されていますから、記要を見てきたので「この資料が見たいんだ」と、事務サイドでやってください。そのほうが逆にいいんです。いわゆる規則に則る形で。

西川 「大隈文書」全体でお伺いしたいんですが、佐賀のほうに大隈記念館がございますけれども、あそこの展示で早稲田のほうからお貸しになったというのもあったと思うんですが、あそこはまだ特別に持っているものはあるんでしょうか。

佐藤 去年ですか、私どもの事務長が下調査に行きました。そうしたら、大学から貸してるというのはいまはないと思います。特別の展示の時には貸すんですけれども。あそこはじつは、大隈記念館といっても教育委員会の管轄ではないんですよ。産業観光課の管轄ですから、専門家が育っていないんです。従って僕も前から、「どうか教育委員会の方とかが一回調査して、目録をつくってください」と。あるいは「私どものセンターの者が行って調査さえさせていただいたら、目録をつくるぐらいの覚悟はありますよ」と言うんですけど、なかなかそこまで行かないんです。あの記念館の裏に収蔵庫があるんですよ。どうも書簡とかがあるようです。だけど、先生方が見つけ出すような書簡があるようには思いません。郷里の挨拶程度の類じゃないかなという感じは受けています。僕は入ったことはあるんですけどね。そんなに学術的なものは、僕はないと思います。展示するために面白いものはあっても。という印象を受けています。

伊藤 それでは、どうも今日はありがとうございました。        (終わり)