科学研究費成果報告書「日本近代史料情報機関設立の具体化に関する研究」(基盤研究(B)(1)、平成1112年度、代表者伊藤隆、課題番号:11490010)より

 

14  伊藤 

  いとう  たかし  政策研究大学院大学・政策研究情報研究センター・教授

   時:2001年2月21日

出席者:季武嘉也 梶田明宏 伊藤光一 戸高一成 貝塚茂樹 服部龍二 中見立夫

      古川隆久 小宮一夫 矢野信幸 黒澤良  武田知己  土田宏成  鹿島晶子

高橋初恵

         

                                                                                                                                                                                                                      伊藤 私は、前回の科研費のいちばん最後、平成十一年二月二十六日に確か「二・二六だ」と言った記憶がありますが、その時に報告をさせていただきまして、それから二年間たちました。その二年間に史料関係で一体どういうことをやったかということを皆さんにお話しするというのが、きょうの課題であります。

 ただ、去年は最近刊行されました『日本の近代』16を、土曜と日曜日に書いておりましたし、昨年からオーラルヒストリーが本格的に始まって、私は平均して十人ぐらい受け持っているものですから動き回ることが甚だ困難になりまして、それほどいろいろなことが出来ず、課題として残ったものがたくさんあるという状態でありますが、一体どんなことをやったのかということを、簡単にご報告します。きょうは、ここを五時に終わらなくてはいけないものですから、この前は五年間の報告をしましたが、きょうは二年間の報告ですのでそれほどかからないと思いますので、ざっとお話をいたします。

 この前の時に予告しておりました『鳩山一郎・薫日記』の上巻の鳩山一郎篇がその年の四月に刊行されまして、引き続き下巻の鳩山薫篇を、全体の「解説」と索引を付けて出版をするつもりでおりましたが、『日本の近代』16を優先するというので延期をしておりました。じつは、「鳩山日記」の担当者と『日本の近代』の私の担当者は同じ人物でありまして、「やっと終わりましたね」と言った次の瞬間に、「鳩山日記をあと数ヵ月以内に出したい」という話でありまして、ちょっと待ってくれと。後でお話しします「石橋湛三日記」のほうを優先すると。これは、きょうも最後の人名索引のチェックをいろいろやっていたんですが、事は急を要しますので、それが終わったらすぐにまた「鳩山日記」にかかることにしております。多分、今年中には「鳩山日記」の下巻を出せると思っております。

 それから、同じ一昨年の平成十一年四月に、これはたくさんの方々にご協力いただいたわけですが、『佐藤栄作日記』も第六巻を刊行して、これで完結ということになりました。そこに短い解説を書いたわけです。

 じつは、それが終わったところでちょっと気が抜けてといいますか、ほっとして、たまたま朝日の山下靖典君と話をしておりました。「君は、新聞記者であちこちつきあいが多かろうから、俺に『佐藤栄作日記』でご苦労さんといってくれるかわりに、誰か史料を持ってそうな人を紹介しろ」と言いましたら、「誰がいいですか」と言うものですから、その時たまたま頭にありました「木内信胤と鈴木喜三郎」と申しましたら、「あ、よろしゅうございます。木内の長男の孝氏と鈴木喜三郎の孫の志田威氏と自分は親友である。だから、すぐ紹介しましょう」と。あの人はみんな親友なんですが(笑)、ある日、日と場所を指定してきまして会いました。そしたら、もうみんな集まっていまして、志田さんと木内孝氏は初対面でありまして、お互いに名刺交換などをしておりました。

 そこで、私が史料の問題についてお話をしました。僕、その時に少しオーバーに言いまして、「史料があると聞きつければ、どこへでも飛んでまいります」と言ったら、木内さんのほうは「さっきあなた、そう言いましたね。遠いところですけどいいですか」と。「結構でございます」と言ったら、千葉の佐倉……じゃないや、何ていう所か忘れましたが成田空港に近いところですね。「そこに置いてあるから、見に来るか」というので、一度行こうということになりまして、行ったんです。行ったといっても、その人が車を運転して、僕に「警視庁の前で、何時に待ってろ」と(笑)。そこでピックアップしてもらって成田近くまで行きまして、見せてもらったら、やはり大量の文書がございました。将来的に政策研究大学院大学にくださるということで、整理をしたいという申し出をいたしましたら「よかろう」ということになりまして、今度またもう一度行きまして、ダンボールに詰めまして受取人払いで大学院に送ってもらって、現在、黒澤君以下の若い諸君に目録をつくっていただいているわけであります。三十六、七箱あったと思いますが、あと四箱ぐらいで整理が完了するという話であります。

 皆さんご承知だと思いますが、木内信胤という方は戦後、外為がいちばん大きな仕事でありますけれども、その前に終戦連絡事務局の長をしていたと思います。それで、GHQとの関わりの文書、それから外為もGHQの指導の下にやっていたわけでありますからそれの関係の史料、それから彼が澤田節蔵から引き継いだ世界経済調査会の史料が主でありますが、その他に戦前期、彼は横浜正金銀行でありまして、正金銀行上海支店の日報とかもきちんと綴り込んでありますし、また日記なんかもその時期のものも少しあります。ですから、これは非常に使いでのある史料でありまして、いずれデータベースが出来て寄贈手続きが終わったら、データベースを大学のホームページのセンターのところにぶら下げて皆さんの利用に供しようと。その他に、ブックスタイルの目録もつくろうという計画で進んでおります。

 ところで、木内信胤という人を信奉する方が実にたくさんおりまして、その中のかなりの方が一万円ずつぐらい寄付をしてくださいまして、これで木内文書の研究会を四月から始めて、それぞれご自分の研究に役立つところを研究していただいて、最終的には伝記作成までいこうと思っております。人物的にも非常に面白い人物でありますので、それはぜひやりたいと思っています。

 志田さんのほうは、お母さんが鈴木喜三郎の末娘であります志田淳子さんという方でありまして、その人に逢ってくれということでありましたので、その方のお宅に伺いましてお母さんの話を伺いました。そしたら、とにかく史料は全部東京大空襲で焼けてしまって何も残ってないと。まったく何もないということでありました。それで、末娘のお母さんから鈴木喜三郎の晩年の様子とか伺いました。もう相当なお婆さんですから、満洲からの引揚げの話を延々されまして、これは非常に面白かったんですけれども直接史料とは関わりのないことでありました。

 ただ、兄弟の中のどなたかの家に、鈴木喜三郎宛の二通の書簡がありまして、それを見せてもらいました。一通は浜口(雄幸)からの手紙でありまして、これは第一次若槻内閣から田中内閣になる時に内務大臣として引き継ぎをしているわけでありまして、その引き継ぎの話をちょっと書いてあるんですが、これは打ち合せだけですから内容はほとんどありません。もう一つは、鈴木喜三郎宛の田中義一書簡であります。これはかなり長い手紙でありまして、治安維持法の改正問題と絡んでいるものでありました。それで、『日本歴史』の今年の新年号にその書簡を紹介しながら、ちょっと治安維持法の改正問題について、その推進力であった小川平吉と鈴木喜三郎と、どういう関係になるのか。それから、政友会の鈴木派と言われる中に前田米蔵とか鳩山一郎とかいるわけですけれども、彼らは治安維持法の改正に反対なんですね。そんなことで田中義一が鈴木喜三郎に宛てて、「あなたは、どうもこの問題について反対のようだけれども、これは自分がどうしてもやりたいので、ぜひ賛成して党員を押さえてくれ」という依頼の手紙でありましたので、私、前に『昭和初期政治史研究』の中で書いたのはちょっと具合が悪いなと思いまして、その旨を書いたわけであります。

 思いついた順序でともかく必死になって書いたものですから、話はあちこちに飛びますが、次は棚橋小虎の『小虎が駆ける』という自伝に「解説」を書いたんです。これは、じつは非常に古い由来がありまして、もう何年前になるんでしょう。三十年……三十年はちょっと……いや、そんなことないですな、僕が三十代の頃の話ですから。いま、千葉大教授の手塚カズアキ氏が、彼は松本の出身なものですから、彼に誘われて長野に行きまして、棚橋家を訪問して「史料を見せてください」とお願いしたんです。何で棚橋かといいますと、ちょうどその頃『大正期「革新」派の成立』という本になりました、あの研究をちょっとやっていたものですから、それで頼みに行ったんですが、若干の史料がありまして、それを見せてもらおうと思ったんですが、結局見せてもらえなかったんです。

 その後、日記があることが分かりまして、その兄弟が持っていたものですから、今度はその日記を見せてほしいということを兄弟の方にお願いをいたしましたところが、これが難関でありまして、「見せられない」ということでありました。それから数年間、いろいろお願いをしたんですが、結局だめでありました。そしたら去年、毎日新聞から電話がかかってきまして、「棚橋家が自伝をどうしても出したいということで、その解説を伊藤さんに頼みたいと言ってきた」と。僕は、あのとき断られて何でと思ったんですが、「いや、あのとき断って申しわけなかった」ということでありまして、「じゃ、解説を書きましょう。そのかわり日記を全部見せてください」ということを条件にいたしました。そしたら、「じゃ、日記は出た後で全部お見せします」という約束になりまして、それで「解説」を書きました。

 棚橋は、麻生(久)、山名義鶴、そしてキシジロウという三高のグループでありまして、これでだいたい社会主義、共産主義になっていくわけですが、皆さんご承知のようにこのグループは戦中期はだいたい全部革新派になっていくわけで、いちばん代表的なのは麻生でありますけれども、棚橋もその仲間に入っているわけです。戦後、社会党に復帰するんですが、盟友たちがみんなその前に死んじゃうんですね。棚橋は、あんまり志を得ないで亡くなる……一応参議院議員、あと衆議院議員になって、社会党から民社党へというコースを辿るわけです。社会主義を一応名乗っている人で、ずっと継続的な日記というのはありませんので、これは非常に貴重だと思いまして、もちろん主流ではありませんのでそれほど大きな期待は持てませんが、結局またそのあといろいろ紆余曲折がありまして、日記を全部借りました。明治から、途中少し抜けていますが、昭和四十八年に亡くなるまでずっとあるということでございます。

 これは、膨大な量ですから、とても活字にすることは困難でありますけれども、先ほど申しました『小虎が駆ける』という自伝も、戦前期でだいたい書き終わったところぐらいで亡くなっているんですね。遺族が、日記を見ながら同じようなペースで一応最後まで書いたのです。それも私、貰いました。だけど、それは遺族が後を続けて書いた自伝であります。実際に刊行された自伝は、自分が書いた自伝の中からも、また抜粋で出ました。これは、商業政策上しようがないんだろうと思いますが、それ自体はなかなか面白いものであります。ですから、民社党結成とか、社会党の大会とか、いろんな山になるようなところをピックアップして抄録したものを、なんとかして活字にでもするかなと考えております。棚橋の問題は、そんなところですね。

 それから、前回報告しました尚友倶楽部の援助による史料の刊行計画は着々進んでおりまして、『品川弥二郎関係文書』は平成十一年七月に第五巻が刊行され、第六巻もそう遠からぬうちに刊行される予定であろうと思います。それから、『有馬頼寧日記』も3(昭和十年〜十二年)が、ついこの間の十二月に刊行されました。来年度(つまり今年)、4(昭和十三年〜昭和十六年)が刊行される予定であります。

 さらに、「児玉秀雄関係文書」もだいたい整理が終わりまして、主要文書の書き起こし作業が進んでおります。これも、数年のうちには活字になって皆さんの前に出てくるだろうと思います。それから、「樺山資紀・愛輔関係文書」も整理が進んでおります。ほぼ目録ができあがりかかっているというところです。

 前回ご報告以後、まったく新しい史料の発掘としては、「上原勇作日記」がございます。これもまた因縁が甚だ古いわけでありまして、皆さんご承知の「上原勇作関係文書」を出したのがもう三十年ぐらい前ですかね。その時に、上原勇作の孫が──これは、都立大学の図書館に眠っていたのを活字にしたわけなんですが、僕が遺族と何の連絡もなしにやっちゃったものですから遺族が怒って怒鳴り込んできて、それが上原尚作という方なんですが、いろいろお話しあいをいたしました。結局「本当にご苦労さまでございました」ということで終わりになってうまくいったんですけれども、その時にチラリと彼が口をすべらせて、「日記があるんだ」という話をいたしました。それからもう三十年近くになると思いますが、毎年年賀状で「あれ、どうですか」ということを書き続けておりましたら、去年、突然上原さんから電話がありまして、「ちょっとお話ししたいことがございます」というので、「あ、話の内容は、日記を見せるという話でしょう。それだったら話しあいというよりも、日記を持って来てくださいよ」と言ったら、ここに持って来てくださいました。

 見ましたら、日露戦争のところとか幾つか欠けているところがあるんですが、例の二個師団問題も抜けているんですね。ちょうどその時期が抜けておりますけれども、たとえば田中義一との確執が起こった宇垣(一成)陸相問題なんかのところはあるんですね。これはなかなか面白いというので、「どうですか、これ、本にしますか」と言ったら、「本にしたい」と言うんですね。「じゃ、尚友倶楽部をご存じですか」と言ったら、「知っていますけれども、私はあそこに入っていません」というものですから、「とにかくあそこに行ってみましょう」というので、すぐ近くの尚友倶楽部に荷物ごと行きまして、理事長にまず逢わせて、「こういうものをお持ちで、これはぜひ尚友倶楽部で出したほうがいいんじゃないか」ということを申しましたら、理事長も「よかろう」という話でありましたので、置いて帰っていただきました。

 それで、「あなたも一緒にやったらどうですか」と言いましたら、「それは、ぜひやりたい」ということでありましたので、まずはコピーを作ってその方に書き起こしを始めてもらいました。私もちょっとやっていますけれども、非常に難しい字でありまして、言語に絶する文字であります。ところが、お孫さんになる尚作さんと、その人の妹さんとが作業に取り組みまして、やっているうちに面白くなってきて、いまやかなり読めるようになりまして熱中しているという状況であります。最後の穴埋めが大変なことなんですけれども、なんとか穴を埋めて出版までこぎつけたいなと思っているところであります。もっとも、日記がちゃんと文章になってなく、メモ風のところもあり、ちょっと残念な部分もあるんですが、これは、非常に面白いと思いました。

 それから、前回お話しいたしました「松本剛吉関係文書」は、結局見せていただけることになりまして、少しずつ拝借しては憲政記念館にお願いをいたしましてコピーをつくって、季武君などにもお願いをして少しずつ起こしております。いま巻物を三本借りておりまして、その巻物三本のコピーをつくってもらっているんですが、あと二本残っていて、その三本を返して、二本を借りてきてコピーをするとだいたい終わりになるという具合なわけです。やっぱり田健治郎の手紙その他が多いんですね。日記は、昭和四年の死ぬ寸前の日記が『大正デモクラシー期の政治』に入ってない。それとか、あの人の自伝は印刷物でありますけれども、ちょっとばかりつくって近親者に配ったというものらしく、私は他で見たことがありません。そういうものも活字にして、一冊にまとめたいものだと思っています。遺族の話では、もっともっとたくさんあったというんですが、ちょっと言いかねるようなご家庭のご事情で散逸したと言っておられます。ですから、私がはじめ期待しました『松本剛吉政治日誌』を見ていますと、「とくにこの点は別に記録する」と書いて、機密の部分を別記しているわけですけれども、それはいろいろ出してもらいましたが遂に見つからず、ですからそれは散逸したものだろうと思います。

 それから、話が本当に飛び飛びになって申しわけないんですが、ある骨董屋さんから「ちょっと見てほしい」という話がありまして、見せてもらいましたら伊藤博文関係文書だということが分かりました。これは、我々がかつて編纂した『伊藤博文関係文書』とどんな関係になるかなと思ってチェックしてみました。つまり、平塚氏が「伊藤家文書」というのをつくったのは、『伊藤博文伝』をつくるためにやった作業だと思いますが、それも我々の関係文書には含めたわけですね、原本がなくても。あるいは、その原本が出てきたのかなと思ったんです。ところが、ぜんぜん一点も合うものがないんですね。ということは、つまり『伊藤博文伝』をつくる前に散逸したものだということであります。

 見ましたら、著名な人々の書簡が大量にあり、かつ断片ですけれども伊藤の日記があるというものでありましたので、これは国会図書館としては買うべきではなかろうかと思いまして電話をしましたら、にべもなく「今年はもう予算がありませんので、買えません」ということだったので、私ちょっと怒りまして、少し──私自身は非常に穏やかな人物であると思っているのですが、その時はちょっと怒鳴りまして──「他に行ったらどうするんだ。すぐ官庁なり何なり上のほうに言え。買わなかったら、大変なことになるぞ」といって脅かしました。そしたら、早速上層部に言ったらしくて買うことになりました。ただ、買うのにタラタラと見に行ったりしているものですから、骨董屋は腹を立てまして、「買うのか、買わないのか、はっきりしろ」というようなことで怒っているうちに値段がつり上がりまして(笑)、最初に言ってた値段よりだいぶ高い値段で買いました。でも、後で憲政の人が私に、「いいものを紹介していただきまして、ありがとうございました」と言っていたので、まあよかったんだろうなと思いますけれども、非常に貴重なものが入りました。

 あとで、僕はその骨董屋に、「近代のものも、市に行ったときに出たら買ってちょうだいよ」と言ってたんですが、この間、「伊藤さん、ちょっとまた巻物一本なんですけど……」と言って、見に行きました。パッと開いたら、いちばん最初が伊藤博文で、次が山県、桂、品川、そして最後は杉という巻物でありまして、いちばん最初のものは鉱山を帝室財産にするという話なんです。その文脈の中で、「帝国議会が開かれたら、一銭たりともこういうことに使うことができない」ということが書いてありましたので、要するにこれは伊藤が、憲法あるいは議会というのはどういうものであるかということの認識を示すものであって、面白いと思いました。それで、尚友倶楽部に「買おうか」といったら、あんまりそういうお金はないというものですから、次にだんだん近いところから憲政記念館に行きました。憲政記念館に行ったら、「あッ、伊藤さん、これは買いますよ」というんですね。実は、そのちょっと前に今年の特別展が、「伊藤博文と大日本帝国憲法」という題に決まりまして、私ちょっとレクチャーをしておりましたので、ああ、ちょうどいいんだなと。新出史料がなかなか見つからないということで、「これはいいや」というので、すぐに話がまとまりました。

 またその骨董屋さんに、「もうちょっと勉強して、たとえばきょう出てきたのは伊藤博文があって、山県があって、桂があって、品川があって、杉があるんだ。これだけでもいい。日本の近代も絶対商売になるから、もうちょっと積極的に集めてくれ」と頼んでおきましたが、まだそういうものが市場に出てくるんだなあということが分かりました。だけど、これは分かっている人がいなければ出てこないということであります。勉強は、「安くしろ」という意味ではなくて、本当に勉強していただかないと拾えないということであります。

 次は、内政史研究会の話です。これはとっくに終わった話なんですが、オーラルヒストリーを校訂して、「解説」を付けて、人名索引を付けて復刻しようという事業を現代史出版と始めたわけです。その最初が荻田保さんのものでありまして、荻田保さんのものはもう出ました。次は、三好重夫さんのものを出す。だいたい我々がオーラルヒストリーをやっておりました後藤田(正晴)さん、鈴木俊一さん、奥野誠亮さんは、だいたい内務省のほとんど似たような時期でありました。その上が、いま言いました三好さんとか荻田さんの世代ですから、内務官僚の系譜としてはかなりここで、オーラルとしては揃ったということになるわけであります。

 その次に、桂皋という人物のものを出すことにいたしました。これは私が「解説」を書くことになっているんですが、桂皋という人は、元来は労務管理の専門家であります。戦後、中央労働委員会の末弘(厳太郎)さんが会長で、彼は中立の委員として、それからまた神奈川県の労働委員会の委員長として活躍した人物なんです。この人は、お父さんが桂センタロウといったかな、宮内省の役人であった人です。人物としては非常に変わった人で、それで非常に面白かったんですけれども、実はこの人の解説を書くので遺族と連絡をとりまして、いろいろ史料を見せてほしいと言いましたら、ダンボールで送ってくれました。それで書いたんですけれども、その他に桂さんと知り合いだった人に渡していたものがありまして、その人と交渉して、それも含めて全部、政策研究院に寄付してもらうことにいたしました。これは寄付手続きも完了いたしまして、いずれこれも目録をつくってということになっております。

 面白いのは、中に自叙伝の原稿などが含まれておりまして、戦後の労働運動の回想みたいな、文章もなかなか立つ人でありますので、内容も非常に面白い。電産争議とか、国鉄の争議等々の調停の話でありまして、佐藤栄作とどうしたとか等々という話がたくさん出てまいります。それ以外にも、彼は若い頃に協調会で活躍しておりまして、その関係で製糸女工の問題を主に扱っていたようなんですけれども、あとは日曹(日本曹達)の労務係をやって、そこの組合との交渉の問題とか、戦前期の労働問題についてのいろいろな思い出が書いてありますので、これは非常に面白い。それで、これもいずれ何とかしたいなと思っております。

 ちなみに、矢部(貞治)さんの関係文書も正式に寄贈の手続きをしていただきましたが、その手続きはまだ完了しておりません。というのは、評価を出さなければいけないものですから、その評価をどうするかなと思って、古本屋に頼んで、目録を送っていま意見を聞いているところであります。それをやると完了なんですね。今年度の予算で、目録の1「書簡の部」を出すことになっております。

 それから、懸案になっておりました『高木怱吉 日記と情報』は、やっと平成十一年七月にみすず書房から出版してもらえました。これは、わが国で活字で組んだ最後の本だということでございまして、本当かどうか分かりませんが、みすずさんはそうおっしゃっております。みすずさんは、「まだ十分な校訂が終わってない。まだチェックしなければならないところがある」とおっしゃっておりまして、ずるずると延びていたんですが、印刷所はもう活版印刷をやめると。だから、改版するか、それともこのまま動かさずに出すか。ちょっとぐらい動かしてもいいという話で、いくらなんでもここまで来てから改版するというのも、みすずとしても大損害だし、「伊藤さん、これなんとかして。二、三瑕瑾があるかもしれないけど、出しましょう」ということで、それは出ないより出たほうがいいなということで出してもらいましたが、べらぼうに高い本になりました(笑)。何故そう高くなるかといいますと、部数が少ないということの他に、長年組み置いたということで値段が高くなったということであります。でも、これぐらい売れれば大した損にはならない、というところまでは行ったようであります。

 そうしますと、これは不思議なことで、一つのことがありますと必ずいろんなことが付随して出てくる。私、高木怱吉のことでしばしばみすず書房に行っておりましたら、あるいはファックスでやりとりをしておりましたら、ある日ぜんぜん違うファックスが入ってまいりまして、「『畑俊六日記』のようなものを持っているという人が連絡をして来た。どうしましょうか」という連絡でありました。「とにかくその人と連絡をとって、実際ものを持って来てもらうなり、内容をどういうものであるかということを詳しく聞いてください」と言いましたら、そうしてくれました。それで、我々がかつて──我々というのは照沼君と二人だったと思いますが──続・現代史資料の一冊として出した『畑俊六日記』にナンバーがついていまして、2から7まであって1がなかったんですが、その1がその人の手元にあるということが分かりました。

 それからまた「解説」で、「獄中手記」が一部あったものを収録したんですが、その中に獄中でみずからの閲暦、つまり自伝を書いたというふうに書いているんです。ところが、遺族の手にはそれが残っていなかった。変だなと思って、「解説」にそのことを書いたんです。そしたら、その自伝を実はその人が持っていた。それで、僕もその人と会いました。こういうものは非常に厄介なことでありまして、もう戦後五十年ですから所有権の問題がどうなるのかなということもあり、相手方が一体何を要求しているのかということも気になりましたので、「これを売りたいということですか」と聞きましたら、「別に売りたいということではない。何らかの形で世の中に公にしたいという意味である」ということでありました。それで、「これは元来、防衛庁の戦史部に入るべきはずのものだったと私は思いますが、あなたはその辺どうご認識ですか」というふうなことを話しまして、最終的にはぜんぜん悪い人ではなくて、戦史部にそのまま引き渡してくれました。その自伝はなかなか面白いものでありまして、これは昭和の初期だと思いましたが、後でちょっとお話ししますが、軍事史学会が史料翻刻事業を始めることにいたしましたので、その自伝と日記の冒頭の部分はその中の一冊にしようというふうに考えております。

 その話がその次でありまして、実は私、軍事のことをそんなに詳しいわけではないし、三八式がどんなものやらよく分からずという人間でありますが、やむを得ず軍事史学会の会長というのをやっておりまして、オーラルヒストリーをやっている時に海原さん等に、「君は、軍事史学会の会長なんだな」なんて言われて、いろいろ皮肉を言われたりなんかしておりました。でも、とにかく会長をしておりまして、前から出版をしなきゃいかんということを強く言っておりまして、とくにこの『大本営陸軍部戦争指導班・機密戦争日誌』は出さなきゃいかんということを言っておりましたら、戦史部の人々がかなり努力をしてくれまして、平成十年に軍事史学会の編ということでこれを出版をいたしました。そしたら、これは売れたわけですね。それで、この機会と思いまして、私のほうから……一方で会長をやめたいと言いながら、他方で「こういう事業をやろうよ」という、甚だ矛盾したことなんですが、それを提案をいたしました。そしたら、「やろう」という機運になりまして、何から出すかというような話が早速出まして、いちばん最初に『大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将日記』というのを出そうということにいたしまして、これは多分今年中に出版できるのではないかなと思っております。

 その他、いろいろなものが候補に上っておりまして、作業も少しずつ進んでおります。それで、私自身は三つばかり担当といいますか提案をいたしました。一つは、前から懸案になったおりました「沢本頼雄日記」を刊行しようということで、また遺族とお話をいたしました。そしたら、その遺族の方は「是非お願いします」ということになりまして、作業をするのにものをどこかに置かなきゃいかん。それは、やっぱり防衛庁の戦史部がいいと。「この際だから、もう戦史部に寄贈なさったらどうですか」ということを言いましたら、「それもいいですね」ということで、寄贈してもらいました。それで、いま何人かの方に分担をお願いして、打ち込みの作業をしてもらっているところであります。昭和二十年まで──それ以後ももちろんあるんですが、海軍次官の時代を中心にといっても、相当分量があるんです。いま書き起こしを進めているところであります。

 それから、「阿南惟幾日記」なんですが、これは阿南さんの息子さんと話をいたしまして、基本的に同意を得たんです。ところが、阿南さんの弟さんがこの間まで内閣の外政審議室長をやっておられまして、最近大使か何かに出られたんですか。

鹿島 中国に。

伊藤 中国大使になったんですか。中国戦線の話なものですから、「ちょっと弟との関係でどうだろう、自分としては非常に気が進まない」という話なんですよ。僕は、「いいですよ。そんなもの、いつまでもやっているわけじゃないでしょう。出すまでに時間がかかりますから、とりあえずコピーを貸してください」ということで、コピーといっても文春が昔、出す気になってワープロに打ち込んだんですよ。その打ち出したやつを借りて来て、今このあたりのロッカーに入っているんですけれども、ぼつぼつと読んでおります。戦地の話もたくさんありますが、中央部にいる時期もありまして、その時期もかなり詳しい記述をしておりまして、いろんな局長会報とかのメモがかなり入っておりますので、これはいずれやろうと。しかし、甚だ都合の悪いことに外政審議室長から中国大使となると、ますますしばらくはだめだなと。じゃ、その前にとにかく沢本さんを出したり、畑さんを出したりしていれば、そのうち何とかなるだろうということであります。三つ目が、さっきお話ししました「畑日記・回想録」ということであります。

 また、先ほどのみすずの話になりますが、事柄が重なってくるわけでありまして、因みにこのいろいろなことの過程で、みすず書房に『近代日本研究通信』のスポンサーになってもらいまして、この間三十号を出しました。少し節約をいたしましたので、三十一号も今年は出せるということになっております。いろいろなことがあっても、副産物を必ず得るというのが私の主義でございます(笑)。

 その副産物はいいんですが、実はみすずから『石橋湛山日記』が出ることになっておりました。これは、私は直接には関わっておりませんでしたが、その話はずっと聞いておりまして、いま出るか、いま出るかと思って待っておりましたところが、その関係者の方から「遂にだめになりました」というご連絡がありまして、私はどういうことなんだろうと思って。これは、みすずから出ることになっておりましたので、みすずにしょっちゅう出入りしておりましたので、みすずの社長に一体どういうわけであるかと聞きましたら、いろいろな言うにいわれぬ事情がありましてと。私は一応聞いたんですが、私も言うにいわれぬ事情なんです。で、みすずから、「なんとか調停して、出版にこぎつけられるにようにしてもらいたい」と。九百ページを組んでだめになったということでありますので、そのまま終わりにするよりは、なんとか再建して本にしたほうが損が少なくて済むという話であります。文化的にも、文化事業としても役に立つ。

 私は、じゃ、しようがないというので引き受けました。だいたい斡旋業といいますか、そんな得意なほうではありませんが、まあ下手なほうでもない(笑)。早速駆けずり回りまして解決をいたしまして、円満に本が出ることになりましたら手を引こうと思いましたら、「ちょっと待て」ということでありまして、結局巻き込まれて。巻き込まれた以上はちゃんとやらなきゃならないということで、それまで人名索引を付けるという予定はなかったんですが、人名索引をちゃんと付けなきゃ日記は役に立たないというので、人名索引を付けることになりました。人名索引を付けることになりますと、これは大変な作業でありまして、いま私は自分で言ったことを後悔しておりまして、その人名索引で泣いているという状況であります。でも、とにかく増田弘氏に「解説」を書いてもらって、近く下版ということになりまして、あと一週間ぐらいでとにかく何とかしなきゃならないというので、人名索引のフルネームにならないやつを、なんとかフルネームにしようというので必死になっているところであります。多分、三月に刊行できるであろうと言っておりますので、そうなるんだろうと思います。

 先ほどもちょっと触れましたが、オーラルヒストリーが御厨氏を指導者にして、五年間の大型の研究費用を貰いました。これに大変な精力を取られて、一次史料のほうは手が回らなくなった。だけれども、逆にこのオーラルヒストリーをやっていると、そこから史料が出てくるということもあります。つい最近のことでありますが、七回ばかり元民社党の代議士の竹本孫一氏のオーラルヒストリーを行いました。私、竹本氏は十年前、二十年前にも自分の研究のためにインタビューをやったことがありまして、そのテープが残っております。今回やってみて、いまはもう九十七歳といったかな、もうちょっと若いのかな。とにかく記憶が非常に薄れているということが分かりました。しかし、その時々のことは私、聞いたんですが、全体、要するに彼の生涯を聞いたことがありませんでしたので、これはまあ役に立ったんです。それはいまのところ、あんまり関係ないです。

 竹本さんのオーラルをやろうということになったきっかけは、やはり民社の代議士でありました和田耕作という方がいらっしゃいますが、この方の出版記念会で、富士社会教育センターという民社系の教育機関の理事をやっておりました黒沢博道さんという方に紹介されまして、彼と話しあって民社系の代議士や組合運動家のオーラルヒストリーを始めるということにして、いちばん最初に竹本さんをやろうということにしたわけです。二番目は、天池さんをやることになっておりまして、三月からは天池さんをやることにしております。

 それで、黒沢さんといろいろ話をして、実は黒沢さんも竹本さんのオーラルに介添え役で出てもらっていたわけです。それで、接点がたくさんありまして、やはり史料のことをいろいろ話しまして、民社の史料はどうなったのか、それから民社研も同じ運命ですからどうなったかというふうなことを話しておりまして、それを欲しいということで話をしましたら、「協力しましょう」ということになりまして、まず亡くなられた滝田(実)さんの史料を何とかしようということが、いま第一の課題になっているわけですけれども、黒沢氏が、「まず隗より始めよで、自分の持っている本と史料と、とにかくありとあらゆるものを全部あなたのところにあげます。大学として必要のないものは捨ててもよろしい」ということで、この間までにダンボールで五十箱ばかり政策研究院に送ってもらいました。

 あと、まだ何十箱かあるという話でありまして、昨日私ちょっと若い人の手伝いをしてもらって、全部開けました。本と、民社党のいろいろな書類がたくさんありました。大会の書類もありましたし、パンフレット、機関紙、かなりありました。本もなかなかいい本がたくさんありまして、升味準之輔『日本政党史論』とか、『昭和史の天皇』とか、そういうのがダーッと揃っているとか、いい本をたくさん持っている方であります。その史料を、これからまたこちらの黒澤君、矢野君を中心としたグループに整理をしていただくということになります。これも、きっとなかなか面白い史料がたくさん含まれているはずなので、ここから始めて旧民社系の他の人々の史料も集めるということにいま話を進めておりまして、黒沢氏もかなり熱意をもって協力してくれるということであります。

 オーラルヒストリーからの副産物と言えるものに、もう一つ「田川誠一自治大臣日記」があります。田川氏は、大量の史料を持っておられる。これは田川さんの祖父さんの時からずっとあると。祖父さんは、県会議員か何かでしょう。山ほどあって家中あるんだという話でありまして人を驚かせているんですが、そのうち訪問することになっています。ただ、その中で伊藤光一さんのご助力で、田川誠一さんの自治大臣時代の日記を出版してよろしいというご許可をいただきまして、伊藤さんがコピーをつくってくれて、なかなか込み入っているんですが、要するに田川さんという人は、人に分かってもらおうと思って、元の日記にいろいろ付け加えて説明をして後で作ったんです。元の日記の形じゃないわけです。そのフロッピーを貰いまして、元に戻すという作業をいまやっております。よく読んでみると、元の日記のほうが迫力があって面白いんです。それは、一般向けには彼がいろいろ注釈を付けたほうが分かりやすいかもしれませんけれども、付けたって所詮、分からない人は分からない。ですから元へ戻そうということで、いまやっております。これは何かの形で元へ戻す作業を、斎藤さんにもちょっと手伝ってもらっているんですけれども、いずれブックスタイルでものにしたいと考えております。

 これが終わったら、田川さんの関係文書にとりつこうと。横須賀まで行って、天井裏から何から山ほどあるという彼の史料を、本当にこれは貰ったらどうするかなというようなものかもしれませんけれども、何でも取ってある人ですから。新聞の切り抜きから、日記も非常に詳細なものを持っていまして、オーラルの時も日記をしばしば読み上げておりました。新聞記者にしてはめずらしい方でありまして、新聞記者というのはだいたい日記を書いている人はいないんですよ。その新聞記者時代の日記もあり、政治家時代の日記もあるというんですから、これはほんと驚いた人物であります。これは、将来のものですね。

あと少しになりましたが、西川誠さん、堀口修さんが幹事になってスタートいたしました『木戸孝允関係文書』の編纂刊行の仕事というのがありまして、これは僕が担がれて責任者になっております。まあ相応の貢献はしているつもりでありますが、少し足を引っ張っているところがありまして、これをいろいろ助力してくれておりました木戸孝彦氏が昨年亡くなりまして慙愧に耐えないわけでありますけれども、多分、今年、第一巻が出せるんじゃないかなという感じでおります。

  しかし、全体はかなり膨大ですので、完結するまでにはかなり時間が必要だと思いますね。私が生きている間に、なんとか完結するまでに持っていきたいという希望であります。

 あと、岐阜県史とか、秋田市史という地方市史に関係して、これも大変苦労をしております。どちらかといえば、岐阜県史のほうが人材があり、いいんですけれども、秋田市史のほうはちょっと、どうしようもない状態であります。ただ、この仕事をやっていて、地方の県庁とか市役所にどんなふうに史料が残っているのかということが、ある程度見当がつくようになりました。これは、大変勉強になりました。たとえば僕らが「こういう史料、こういう史料が必要だ」と言いますと、岐阜県史の人たちが東京にやって来てインターネットでいろいろ検索して史料集めをしている。たとえば農業総研とか、協同組合学園とか、いろいろなところにめずらしい史料があったりすることが分かりまして、そういうインフォメーションにとっても大変有効で、無駄骨だけではないなと思っておりますが、なにせ時間が取られるということでつらいですが、つらいのはつらいなりに得るところもあるということであります。

 あと、石井光次郎日記の戦前の部分というのは、朝日新聞の経営関係でありますが、一部コピーを取らせてもらってワープロ化を進めたんですけれども、その石井さんから寄付金を貰いましたので、これも進めなければならないんですが、他の仕事に追われて手をつけることができないでおります。これは、今年もうこれからすぐにかからなければならないことでありまして、前回報告したもので、山本勝市日記──これはとうとう現物は国会図書館の憲政資料室に寄贈するということになりました。それから、山県有朋談話録の問題、それから酒井三郎日記の問題、これは全部なかば出来ていて、最後の詰めをやってないという仕事でありまして、是非今年実現しようと思っております。

 それから、昨年オーラルヒストリーで研究集会を行った時に、私が、「政治家のオーラルの場合には、政治資金の問題がいちばん聞きにくい問題である」という話をいたしましたら、平和研の相川さんという方からその後、共同調査会という櫻田武さんらを中心とした財界の裏組織で、共産主義運動に対抗する組織を支援する活動を行っていたという記録を、コピーではありますけれども提供してくださいました。相川さんというのは産経新聞の政治部長であったらしいんですが、今年、彼のオーラルヒストリーをやりながら、この史料の性格というものを明らかにして、紹介していきたいと思っております。先ほど申しました民社党の初期の活動には、この金がかなり大量に流れているということが分かりました。

 その他、まだ考えなければならない話は、徳富蘇峰書簡集のこととか、郷古潔さんの日記・関係文書の問題、それから金子堅太郎の関係文書のことと、南次郎の関係文書、これはなんとか表に出したいと。まだ毎年、毎年年賀状で、「いったい将来、どうするつもりですか」ということを書いているんですが、南重義さんはいっこうに応答しないで、しかし年賀状は必ずくださるという(笑)、そういう不思議な関係が続いております。金子のことも日大が持っていることは確かでありますけれども、大事なところを僕が行った日大のある図書館なんですが、図書館で持っているわけではなくて、どうも他の法学部が持っているのか、まだこれちょっと調べなくちゃいけないんです。

 そういうふうな、やらねばならないことが山積しておりまして、これを書いた後で夕べ家に帰りましたら、前に憲政記念館におりました渡辺行男さんから手紙が来ておりまして、重光の関係文書を追加で憲政記念館に入れたと。その中にはいろいろ結構なものがありまして、改進党関係のものもずいぶんありましたし、最高戦争指導会議の議事録などがあるという話でありましたので、それはどういうものじゃろうかと。おそらく正式な議事録じゃないんだろうと思うんですが、そういういろいろな情報がありまして、渡辺さんとは明日会うことにしました。重光記念館を湯河原につくって、渡辺さんはその面倒をみているらしいんですけれども、まだ重光家にそんなにあったのかなと思ったんですが……。

伊藤(光) 二十点ぐらいだと言っていました。

伊藤 他にもあるんじゃないかということを言っておりましたので、だんだんにと思います。

伊藤(光) まだあるようです。

伊藤 僕は、必ずフォローしなければいけないということを自分にも言い、他人にも言っているんですが、たとえば松本剛吉氏なんかの場合、もう「政治日誌」が出ちゃった。もうないと、誰も後を追わない。行ってみると残りがある。残りのほうが大事だったりすることがある。樺山資紀もそうですね。確かにある程度、大事なものが憲政史料室に入っていますが、残っていたものの中にもかなり大事なものがたくさん入っています。ですから、後のフォローをちゃんとやらないと、大事なものを取り残しちゃうんじゃないかなという感じはいたします。

 実は、最初にも申し上げましたように、今年はとにかくオーラルヒストリーで私、へとへとになりまして、まだあと四年間続いて、本当に持つのかなと。七十の大台になりましてどうなることやらと思いますが、この研究会は去年は二月で終わりにしましたが、今年は三月以降も何らかの形でやろうということです。来年度からまた二年間、科学研究費の申請をいま出しております。うまくいくかどうかは分かりませんが、きょうの報告はそんな中途半端なことでご勘弁をいただきます。なにかご質問がございましたら、どうぞ。

季武 幾つか耳の痛い話もありましたが、上原勇作の関係文書のほうですけれども、あれで全部なんですか。たとえば宮崎県の関係のものが落とされているということがあるんですか。

伊藤 何かあるということは言っておりませんでした。日記だけを和紙で綺麗に包んで、息子のお嫁さんですか、「私の生きている限りは、これを表に出さない」と言って頑張っていた方が亡くなられたので、お孫さんが出すことになったと。

季武 都立大のほうにもないんですか。

伊藤 いや、都立大は関係文書を全部出したわけではありませんから。あれはピックアップしたものですから、おそらく宮崎県関係のものなんかはあったかもしれませんが、まったく無視したと思います。だから、都立大に行ってご覧になる以外にだめです。

季武 あと、人から聞かれたんですけど、石井光次郎日記というのは、戦後の部分は『THIS IS 読売』にちょっと書いていますね。

伊藤 あれは、抜粋です。

季武 ずっとあるんですか。

伊藤 いや、元の日記自体が抜粋みたいなものなんですよ。時々書いているという。その時々書いているやつの中から、また抜粋したんですから。これは、石井さんといずれ話しあいをしようと思っていますが、将来的にどうするつもりか。朝日の時代もかなり面白いんですよ。ただ、石井光次郎の字が難しくて大変なんですけれども、尚友倶楽部の関係の女性で一人、読める人がおりまして、その人にお願いしてこれからまた読んでもらうつもりです。謝金がありますので、今度は堂々と頼めます。この前は、ボランティアでお願いしたので。

季武 あと、山県有朋談話録とあるのは、談話筆記の補遺の部分ですね。

伊藤 そうです。一応全部コンピューターに入っていますけれども、前書きなり後書きなり付けて出さないと格好悪いから、どういう形で出すか、それもちょっと考えているものですから。

季武 あれだけでは、量はあんまりないですよね。

伊藤 ないです。だから、小冊子をつくろうかなと思っているんです。通信ででも、もしご必要な方は郵送料だけ送ってくれれば。

戸高 軍史学会でいわゆる日記等を報告しようというのは、ある程度目処というか、どういうのをやるという見込みは先までかなり決まっているんですか。

伊藤 はい、ある程度決まっています。二番目は多分、金原さんのものを出そうと言っておったと思います。その次ぐらいに、なんとか沢本さんのを出したいなと思っているんですけれども、まだ分担者が全部決まってないもので。いずれの仕事もマンパワーが必要でありまして、皆さん、もしご協力いただけるものがありましたら、なんとかお声をかけていただけるとありがたい。

梶田 前、『昭和史の天皇』でしたっけ、テープを。あれは、どうなっているんですか。

伊藤 武田君に聞いてください(笑)。

武田 すいません。まだやっておりません。

梶田 あれを、たとえば将来的に研究者が利用できるような形にはなるんですか。

伊藤 したいと思っているんですけど、テープの問題というのは非常に厄介でありまして、僕は一応読売から貰ったんですけれども、貰ったという正式の書類はないわけですよね。それから今度、談話した人、聞いた人に権利があるでしょう。聞いた人のほうは特定できないわけですよね。だから、これは本当に使えるようにするためには大変な努力が必要だと。

戸高 特定できない場合には、やむを得ないということになるでしょうけどね。

伊藤 それは、ありますよ。

戸高 他にもいろいろ、テープのままで埋もれてしまいそうなものが大分あると思いますね、いまの状況だと。

伊藤 そうです。私もたくさんあるんです(笑)。

戸高 どうしたらいいか分からないのがありますね。

伊藤 御厨氏を中心にやっているCOEの仕事には、それを、これから武田君を中心に集積をしていこうというプロジェクトがありますので。

武田 すみません、遅れておりまして。

伊藤 因みに、彼はさぼっていたわけではなくて、博士論文を書きまして、博士論文が見事パスをいたしまして、最終的な決定は?

武田 明日です。

伊藤 明日、正式な決定になって、それに先立って、いま出版の交渉まで始めているというところでありますので、お許しいただきたいと思います。

武田 上原勇作の文書のことですけど、私、都立で別の文書の整理をしていたら、史料の担当者から、「手帳のようなものがあるんだけど、これは多分、日露戦争頃のものだろうと言われたことがありまして、一応そういうメモか日記みたいなものもあるそうです。

伊藤 あの時は、多分完全な目録はつくらなかったような気がするんですよね。

武田 都立の図書館のほうは、あまり交通の便もよくないのですが、来てもらえれば、よろこんで対応して下さると思います。

伊藤 目録をつくることが先決ですよね。

武田 そうですね。ただ、目録はあるそうですので、今度みせてもらってきます。

伊藤 ついでに申しますと、私と季武君の名前で皆さんにお手紙を出しまして、多分数日中に着くと思いますが……。

季武 きょう、配るかもしれません。

伊藤 いま配ってくださったほうがいいんだけどな。『日本の近代』の主要な人物の関係史料をまとめたものというか、要するに解説したものをブックスタイルで出すべきか、そうではないかということをちょっと私、提案をいたしまして、皆さんにご賛同が得られれば、どこかの本屋さんと交渉して出してみたいと。サンプルを私と季武君でそれぞれ書きました。私が伊藤博文について書いて、季武君が後藤新平について書きました。その人物に関する史料がどういう状態で存在するかということを……。

高橋 昨日、全員に発送いたしましたので、今日か遅くても明日には皆さまのところに着くと思います。でも、こちらにありますので、いまコピーして……。

伊藤 いやいや、二重になったら勿体ないじゃないですか。回してください。

戸高 これは、日本人物文献目録の史料版みたいな感じですか。

伊藤 そうです、そうです。ですから、人の説明はぜんぜんなしで、「伊藤博文についてはこういう史料、文献がありますよ」ということを解説したものですね。

 

                (手紙を回す)

 

 まだ時間があるようですから、矢野君、少し木内さんの文書の話をしてください。

矢野 急なことで何の準備もしていませんので、記憶のままにお話することにします。ご容赦下さい。伊藤先生から整理を頼まれて、延べ人数四人でやっています。受け入れた文書の箱数が三十七です。ミカン箱サイズより小さな箱なんですけれども、先生が大学に持って来られた時に、既に箱ごとにどんなものが入っているかということをメモしていただいていましたので、箱ごとにコンピューターに入力するという形で整理を進めています。最初の十数箱が、いってみれば第一次史料なんですね。木内さんが終戦直後、大蔵省の終戦連絡部長をしていた時の史料、それから外国為替管理委員会の委員長をされていた頃のものなどです。木内さんが外為の委員長になってから、昭和二十七年に外為が廃止される時までの史料が残っています。

 内容としては、タイプで打たれたもの、謄写版のもの、とにかく書類が主です。それはGHQですか、占領軍との間で文書のやりとりをしているものです。自分のほうからGHQに出したものの控えもある。あと、逆に向こうのほうからこっちへ来たものをファイリングしているものもあります。

 どんなふうに保存しているかといいますと、だいたい自分で整理をされたのか、周りの人に整理をさせたのか分かりませんが、ファイルごとにチョロチョロと自分で表題を付けていまして、ファイルごとになっているんですね。木内さんのもとに、自分の職務に応じて集まった史料なので、その関係の史料を他から探す手間が省けるといいますか、まずそれを見ていただければ、あの時期の通商問題、通貨問題の政策過程の流れがかなりよく分かる史料ではないかと思います。

 あと、時々自分でメモみたいなものも挟み込んでいまして、大蔵省あたりとの交渉内容を記したものも入っています。書類の大半は英文史料ですね。それが十数箱。あと、外務省のほうから送られて来た、いわゆる内部資料というんですか、「ご参考になさってください」というようなものの中に、なかなか外では見られないようなものがかなり見受けられるんじゃないかと思います。その他にもブラジル関係とか南米関係の史料もあり、かなり豊富なものだと思います。

伊藤 あと、賠償問題もあるんじゃないですか。

矢野 賠償問題ですか……と思います(笑)。それから、戦前のものに関してなんですけれども、箱を分担してやっていまして、まだ僕も史料の全部に目を通してないので、伊藤先生も先ほどおっしゃっていましたけれども、他の方が整理されたものの中に戦前のものが見受けられるということはあるようです。

 ですが、大陸での通貨工作を陸軍に頼まれて、実は木内さん大陸で活動していましたが、その時の史料があるのかなと思ったんですが、意外と残っていないんです。他の方が整理したものも見たんですけれども、ちょっとないのはどうしてかなと感じています。だから、意外と戦前のものは量的には少ない感じがします。やはり戦後のものが主ですね。

 それから、憲政記念館で一度、終戦直後の昭和二十年の九月か十月の時の木内さんが戦後構想を書いたものが展示されまして、おそらくそれの原本にあたるものだと思うんですけれども、かなり汚くなっているものですが、それはありました。その他には、昭和二十年代後半から亡くなるまで、いわゆる世界経済調査会とか幾つか発表する場を自分でつくったりして、その関係の史料もたくさんあります。

伊藤 日本経済復興協会というのも、確か入っていますね。

矢野 入っています。日本経済復興協会、世界経済調査会、それからあと少し遅くなりますが、カレント社というのをつくりまして、『カレント』という小冊子を出しています。木内さんは、四つか五つぐらい自分の発表の場を設けまして、エコノミストとして、経済評論を行っています。同じ時期に出しているものは、内容的に重複するものですが、そういったものをずっと出されています。

伊藤 『カレント』という雑誌は、今でも出ているんですよ。

矢野 あと、木内さん晩年は、自民党の三役をはじめ有力な政治家にかなり献策をしています。木内さんはかなりまめな方で、その控えを全部取ってあります。しかも、相手から返事が来たものも取ってある。人によっては、送ったんだけれども「ありがとうございました」ということで、何故か物が返ってきている(笑)。「読ませていただいて、ありがとうございました」と、物を返されているんですね。そういう方もいらっしゃって、ちょっと楽しみながら見ていたんですけれども(笑)。

 あともう一つ、これはおそらく木内信胤論をやっていく中で大きな問題になってくると思うんですが、木内さんは反共主義者ですから勝共運動に実はかなり力を入れてやった時期がありました。ところが支持者の間から、「自分は保守支持だけれども、あれはちょっとどうか。先生、やめてください」ということが出まして、そういう関係で木内さんが勝共運動から去っていく時の経緯に関する史料もちょっと残っています。

伊藤 あと、晩年は哲学とか宗教、とくに仏教で仏教徒連盟ですか、そういう組織をつくって活躍したり、やはり産業の元は農であると。農業問題について、かなり書いたり、やったりしています。実は、成田空港の近くにあったと言いましたが、そこに研修所みたいなものをつくりまして、まったくの農業地帯です。多分、おそらくそこで農業者を養成するということだったと思いますが、そういう路上にものが置いてあったわけです。

 東南アジアとか、ブラジルもそうですけれども、やはり農業関係です。そういう意味では、あの人の生涯というのは非常に面白い。つまり、金融家として始まって、最後は仏教とか農業とか、そういうところに帰っていくといいますか、その辺がある時代の日本人の一つの生きかたとして、非常に面白いんじゃないかなと私は思っております。

矢野 先生が今おっしゃられた農業関係なんですが、それは戦前のものでは確認できないんですが、終戦直後ぐらいからかなり関心を示されている様子は史料から窺えますので、戦前からもうそういう関心があったのかなと思います。

伊藤 それは、あるかもしれませんね。

中見 木内信胤さんは、僕は会ったことがあるんですが、韓国研究院という団体があって、そこに彼は生前に本や史料を寄付したんと聞きました。それは、ご存じですか。ところが、それは解散したようです。

伊藤 いや、あるんですよ。崔書勉という韓国の、一応学者の方が今でもやっておられます。

中見 今でもあるんですか。

伊藤 ええ。私、その方とちょっとおつきあいがあるものですから。

中見 解散して、本が売りに出されたとか。

伊藤 それはないと思いますね。彼は、今でも木内さんの会に出てきていますから。

戸高 あそこは、莫大な蔵書を持っていたでしょう。

中見 ええ。一時、神田の古本屋にずいぶん関係した本がダーッと出て。

伊藤 じゃ、今度その人に聞いてみましょう。

中見 その方は、いま日本にいるんですか。

伊藤 います。日本にいたり、韓国に行ったり。

中見 非常に変わった方らしくて、一時は派手に本などを出していたのが、解散してどうのこうのということを聞きましてね。木内さんがそこの理事長か何か知りませんが、木内文庫というのがあって、そこにある程度のものを入れたということは聞いているもので。それから、木内重四郎というお父さんのは、ぜんぜん入っていませんか。

伊藤 それは入っていません。これはまた別の話なんですが、これもやらなきゃならないことの一つなんです。木内重四郎の長男のほうの系統に、木内重四郎の関係文書があるらしいんです。それへのアプローチをいま試みようということを……。

中見 フランス大使か何かされていた方が直系だと。

伊藤 そうです、そうです。あっちのほうが本家なんです。

中見 木内さんというのは、先に死なれたようですけど秘書みたいな女性の方がいて、横浜正金銀行時代からの信者みたいな人で、その方が常に横についていて整理されていたんだと思いますよ。太平洋問題調査会なんかのは、おそらくその韓国研究所に行ったと聞いていました。

伊藤 それは、ちょっと追いかけてみましょう。

中見 世界経済調査会というのは、もう完全になくなったんですか。

伊藤 これは、いま服部セイコーの方が引き継いで、僕、そこを訪ねたんですけど、とにかく木内さんの悪口だけ聞いて(笑)。「残っていたものは何もありません。借金だけです」という話。だから、本当は世界経済調査会は沢田さんのほうからアプローチしなきゃならないんですけれども、沢田さんの問題というのは実は非常に面白い問題でして、要するに戦後のアメリカと日本との接点になるような形で世界経済調査会は多分つくられたんだと思います。ですから、そういう意味で沢田さんをちゃんと追わなくちゃいけないんですけど、沢田さんの息子と接触しているんですけど難しい人で……。

中見 沢田昭夫さん?

伊藤 ええ。

中見 世界経済調査会というのは、戦前からあったんじゃないですか。

伊藤 戦前からあります。

中見 世界経済調査会が太平洋問題調査会の関係があって、戦後京都で会議をやった時は世界経済調査会が事務局を担当したということで、その時の木内さんの秘書が、いまシティバンクの八城(政基)さんという方で、その方あたりが本来なら継がれたのでしょうが。

伊藤 八城さんにも連絡をとってみたんですよ。八城さんは、今はぜんぜん関心がないみたいですから。

矢野 もう一つ木内さんについて忘れていけないのは、これはかなり重要な問題になってくると思うんですが、ハイエクのモンペルラン・ソサイエティーにかなり入れ揚げていまして、その関連史料が散見できます。

伊藤 えらいハイエクと共鳴したところがあるようですね。

黒澤君も、あれにタッチしたんでしょう?

黒澤 いや、私は横にいただけです。

伊藤 あなたは、矢部のほうですか。

黒澤 ずっと矢部の文書で。

伊藤 じゃ、矢部の話でもしましょうよ。

黒澤 ちょっと時間が……。

伊藤 じゃ、五分でやりなさいよ。

黒澤 矢部の文書は一昨日整理が終わりまして、もともと六十箱足らずのものが運び込まれて、だいたい分類し終わった件数は一万二千件を超えるぐらいの件数があります。今回いま目録の刊行を進めているところが「書簡の部」なんですが、やはり二千三百通余りあります。いろいろな方からのお手紙がありまして、例の戦争が始まる前ぐらいの小田村さんから来ている手紙とか、あるいは憲法調査会の時に神川彦松委員が、政治家に関して愚痴を言っているものとか、細かく見ているといろいろと面白いものがあるんですが、比較的まとまったものではなくて、多方面の方から来ているということです。

 全体的な特徴としては、時期的に見ても若干抜けているものがありまして、昭和の戦前期と、戦後のものと、大正期が一部というように、時期的には資料がばらけています。特に、彼が関係した審議会関係の史料がかなり膨大にありまして、いちばん多いのが憲法調査会関連の議事録関係と、書類ですね。また、行政審議会と選挙制度審議会関係のものがあります。その他、民主社会主義連盟を発足させている段階のものから、その内部の議事録みたいなものが含まれています。

 書簡以外では、公刊とか販売されてないものを冊子と分類したんですが、その中には世界民主研究所とか、同盟通信関係の、戦時中に彼らが内部情報をまとめて関係者に配付したようなものとか、あるいは内外調査会の刊行物があります。書籍関係は矢部自身の書いた著作が中心で、これが幾つかあります。あと、雑誌もかなり広範なものがありまして、比較的入手しにくいものとしては、池田の宏池会が出している『進路』とか、そういう政治家関係の内部誌みたいなものが幾つか含まれていて、他では見られないものなので、重要なのではないかと思います。

 新聞にも、政党関連の機関紙が含まれていますので、全体として多彩な資料が含まれていると思います。

伊藤 結構です。ちょうど五分たちましたので。五時半からここで次の会議をやるそうですので、食事は隣の部屋にお移りください。とにかく、この2年間、いろいろとお世話様でした。まだ、これからも続く研究会ですので、どうぞよろしくお願い申します。

                                   (終わり)