科学研究費成果報告書「日本近代史料情報機関設立の総括的かつ細目に関する研究」(基盤研究(B)(1)、平成1314年度、代表者伊藤隆、課題番号:13490012

 

11.橘川 武郎氏

きっかわ・たけお 東京大学社会科学研究所教授

日時       2002年2月28日

出席者   伊藤隆 季武嘉也 小池聖一 伊藤光一 武田知己 清水唯一朗 奥健太郎

神崎勝一郎 矢野信幸 小宮一夫 駄場裕司 福地惇 大久保洋子

西藤要子 高橋初恵

 

 

伊藤 きょうは、橘川先生に、「電気事業再編成とそれに関する史料について」ということでお話しいただくということでございますが、橘川先生はいろいろ史料をご覧になっておられると思いますので、必ずしもこの電力事業再編成ばかりじゃなくて、ご覧なった史料について、いろいろ情報をお聞かせいただければ幸いでございます。

武田 昨年、私も電気事業の再編成について興味があるので、突然、橘川先生の研究室にお邪魔して、その時に一時間ぐらい大変楽しくお話を聞かせていただいたんですが、その話を僕だけのものにしておくのはもったいないというふうに思って、是非、きょうはお願いしたという次第です。

改めてご紹介するまでもないと思いますが、先生は本当に電力事業についてたくさんの研究を残されておりますので、大変楽しみにしております。よろしくお願いいたします。

伊藤 お願いいたします。

橘川 どうもお招きいただきまして、橘川と申します。きょうはどうもありがとうございます。

私は専門はもともとは経済史だったんですが、いまではどちらかというと、経営史の世界に入ってまして、4枚目にちょっときょうに関連する「参照文献2」というのが私の関わるものなんですけれども、そこの4番目に出てきます『日本電力業の発展と松永安左ヱ門』とというのがいままでやった仕事のなかではいちばんまとまったものです。その「参照文献1」のほうに書いてありますけれども、9電力のうち4つぐらいが地方電気事業史というまとまったものを近年出しているんですが、いずれもこういうものに関わったりしておりまして、主として、企業サイドから電力業の歴史を追っ掛けてくるということをやって来ました。

あとでもし時間があれば、だいぶ若い方もいらっしゃるので、幾つかこういうところにこういうおもしろい史料があるという情報はあるんですが、ちょっと私自身では多分もう手がつかないので、レジュメには書いてないんですけども、時間があったら、電力と石油関係の話でもさせていただきたいというふうに思います。それから、電力も、これよりちょっとあとぐらいの時期の史料も幾つか眠っているところがありますので、こういう機会ですから、そういうお話も可能な限りオープンに情報をお伝えしたいというふうに思ってます。したがって、再編成の中身自体の研究の話は可能な限り短くしまして、レジュメはそっちが長くなって、事実経過が幾つか入ってますが、「W」の史料のあたりを中心にこれからお話ししていきたいと思います。

では早速ですが、話を始めさせていただきます。再編成というのは1951年で、たまたま私が生まれた年なんですけど、日本の電力会社とともに同じ年を刻んで、それで飯を食っているという人間です(笑)。アップ・トゥ・デイトな話もありまして、現在、審議会が動いてまして、私は石油のほうの審議会にちょっと入っているんですけれども、電力のほうの審議会で、いま、場合によって、アンバンダリングですか、発送電と配電を分けるということも含めて自由化が、いよいよ9電力体制そのものの取り直しというものが行われているわけです。思い起こしますと、いまの規制緩和という流れが出始めたのは多分中曽根政権ぐらいのところだと思いますが、80年代半ばの、特に国鉄あるいは電信の民営化あるいは分割民営化の時は、まったく民営9電力体制というのはいまと逆のイメージで捉えていた。どちらかというと、規制緩和のモデルとして言われていたわけです。加藤寛さんとかみんながモデルとして、「電力をみろ。ああいうふうにしなくちゃいけない」という話を盛んにしていたわけです。だから、80年代半ばには、規制緩和のモデルだったものが、いまやどちらかというと、自由化に抵抗する勢力のなかではいちばん力がある勢力ということで、10数年の間に非常に様変わりしたという意味で、今日的視点からもう一度電気事業再編成を見直すというのは、非常に現在の政策にとっても極めて重要な意味があると思います。

そもそも事実経過にかなり謎が多くて、ある程度私が解明したとも思っているんですが、しかし、それでもたくさん謎が残ってます。象徴的な話を1つだけ申し上げますと、この再編成を語る時にハイライトとして出てくるのは、50年11月22日にマッカーサー書簡というものが吉田首相に送られて、これに基づいて、ポツダム政令で一気に再編成が行われるというわけです。一橋大学の室田さん──この方は割と反原発の立場から9電力体制をずっと問題にされていた、「電力自由化の経済学」なんていうのを書かれている人です。その人が非常におもしろい仮説を言われてまして、もともとマッカーサー書簡はなかったんじゃないか。吉田茂の一種の作戦であって、存在しないマッカーサー書簡を楯にして一気にポツダム政令でやったんじゃないかという話が、かなり信憑性があるような状況でした。これは10数年前のことでした。で、どこを探してもマッカーサー書簡が出てこないということがありました。最終的には、当時ワシントンDC郊外のスートランドにあったんですけども、占領期文書をいじっているうちに、50年11月22日付のものが出てきたわけです。ただ、そういうことが言われますように、いろんなポイントポイントの話が果たしてどれぐらい本当であるかということがわからない。最後に申し上げますが、まだ再編成を巡ってはやり残したことが山ほどあります。武田さんを始め、是非、やっていただきたいことがたくさんあるということです。

もう「U」にいきますけども、その前に国家管理というプロセスがあったから再編成があるわけですが、日本の電力業はいちばん最初にできたのが東京電燈といういまの東京電力の前の会社で、これは1883年創設です。明治16年。87年から発電を始めまして、これはいわゆる移植産業というか、近代産業のなかでは非常に早いキャッチアップで、イギリスとアメリカの間でどっちが世界最初の一般供給発電所かというので論争があるみたいなんですが、おもしろいことに、イギリスも非常にシティのすぐ近くホルボーンの陸橋のところに火力発電所ができて、一方、アメリカも、ウォールストリートのすぐそばのパール街というところにできて、日本でも、たまたまですけども、兜町のすぐ近くの南茅場町発電所というのが最初なんです。全部火力で、ビルのなかで石炭を焚いて、いまじゃ考えられないですけども、直流で周りに電気を送っていたわけです。そのロンドン、ニューヨークと比べても、茅場町が動き出すのは5年しか遅れてないので、非常に早くキャッチアップした産業なんです。注目すべきは、1883年から今年2002年まで約120年間動いているなかで、基本的に民営できたというのが日本の電力業の大きな特徴だと思います。この1939年4月から1951年5月1日までの電力国家管理というのが非常に特殊な期間であって、この期間も民有ではあったわけですけども、経営は国営だったわけで、この時に国営形式をとられたのを除いて、あとは公営電気というのは一部にいまでもありますけども、民有民営できたというのが世界的にみるとかなり大きな特徴です。

 以下そこを簡単にみていただくとわかりますが、「3つの点」は主要な法律の動きを示してまして、再編成、国家管理という時には、内容的からいくと2つの柱があって、1つは企業形態に関わることです。これが通常注目されます。それが「▽」で書いてあります。一方、「▼」があまり注目されてないんですけど、たぶん政治史等々から考えると非常に重要な論点になると思うんですけど、行政の変更なんです。細かいことは省きますけど、簡単に言っちゃいますと、要するに、電力業界というのは戦前は逓信省だったわけです。逓信省はどちらかというと、電信電話のほうが重要で直営でやってまして、それこそ田原坂の戦いの教訓だとか、そういう話があって、軍事的理由、もう1つは、電信電話に関しては、本格的な海外からの競争が仕掛けられたんですね。海底ラインを伝わって、イギリス系の会社に乗っ取られちゃうかもしれないという脅威があった。一方、電力はそれがなかったことと、たぶん明治政府は非常に軽視していたと思います。象徴的なのは電柱のことを長らく電信柱というふうに言っていたわけです。電信の方が重要だったわけです。

伊藤 そうか。電信柱と何も考えないで言っていたけど(笑)。

橘川 いまはだいたい電柱と言うと思います。ですから、電力は民間に任せちゃって、電気事業法が1911年にできますが、これは保安立法であって、公益事業立法の性格を持つのは、料金認可制とかが入ってきて、ずっとあとの1931年(昭和6年)の改正ぐらいからなんです。だから、それまでは、いまでは考えられないですけど、自由競争だったわけです。一部規制はありましたけども、基本的には自由競争だった。そういう状況で逓信省だったものが、ターニングポイントは、その「▼」43年11月のところで、逓信省と商工省が一緒になって軍事省が発足するわけです。そして、結果的にいうと、敗戦で軍事省が廃止されたあと、どさくさに紛れて、移管が商工省へ移るんです。移ったところで、再編成を迎える。で、再編成のなかで、のちに申しますように、GHQがいちばん強調したのは、企業形態ではなく行政面なんです。行政面をいわゆるアメリカの行政委員会方式、政府から独立した五人委員会でやっていくということを強く主張したわけで、商工省からとってみれば、非常に大きなおいしい新しい管轄があっと言う間に持っていかれちゃうという話だった。これが電気事業再編成を理解する時に、私自身もまだちゃんとやってないし、今後、かなり政治史から切り込む上で重要なポイントだと思います。だから、占領が終わりますと、この部分についての巻き返しが強くなります。それがだいたい電力国家管理の経緯です。企業形態に関して確認のために言いますと、39年4月に、発送電を1社でやります日本発送電、日発というものができ、やや遅れて、42年4月に第2次国家管理で全国を9つの地域に分けて、いまの9電力の供給地域で配電を含む9配電ができます。名前が唯一違うのがここの東京電力が関東配電だっただけで、あとはみんな同じ名前なんです。ここでもう民間電力会社及び地方自治体の電力会社はやっていけなくなって解散します。配電が9つ、発送電が1社という体制で国家管理を迎えたわけです。

次に再編成のプロセスに入りますが、まず、いちばん最初に関わる法令で言いますと、46年11月に9配電をつくっていた配電統制令が支持母体の法律が国家総動員法であるために失効になります。続いて、持株会社整理委員会が集排法を適用するということで、企業形態の改編が避けられないという話になります。そして、最終的には、50年12月に、国家管理の基礎法であった電力管理法と、それから、電気事業そのものの基礎法だった電気事業法が廃止されて、ポツダム政令として、電気事業再編成令と公益事業令が施行されて、電気事業再編成が始まる。まず、結論からいくと、50年5月1日に、さっき言った発送電、9配電が解散しまして、今日の民間9電力会社というものが出来上がる。これが世に言う普通の意味での電気事業再編成。企業形態面での再編成です。

そこに「◇」1から8つぐらい書いたんですが、これが私の研究の貢献と言いますか。それを主要な流れ別に、プレーヤーごとに追っ掛けていったわけです。意外なことに、最初に組合が出てくるわけですが、実は、組合がいちばん最初に再編成について語っているということで、ここに出てきます。45年12月に既に日発の関東従組というできたばかりの組合が全国一元化というものを言いまして、これがのちの電産協、そして、47年5月、あの有名な電産に引き継がれていく。で、乗っかるような形で、社会党、共産党が同じような法案を出した。それがいわゆる左からの再編成案という流れです。

それから、もう1つ、次に早いのがこれも意外なんですが、公営というのは地方自治体なんです。なぜかというと、これは戦前、東京市電気局だとか、まあ、京都市だとか、関西は多かったです。あるいは県で言いますと、富山県だとか、山口だとか、かなり大きい県営電気もありました。この連中がいわば財産を持っていかれたという印象がありますから、そういう意味で被害者意識が強いので非常に動きが速くて、皮切りになったのは42年2月に、都議会が配電公営化の意見書を採択したこと。それがスタートになりまして、同じ年の11月に元市営電気の連中が集まって委員会をつくる。で、48年4月には今度は元県営電気の連中が集まって同盟会をつくって、それが49年6月には合流していくという話になります。この復元運動というのはずっと長らくその後も続いていく。これは多分政治的な対立の非常に重要なバックボーン、その上の組合の動きと地方自治体の動きと、それがたぶん代議士の地元の利害という形になって、最終的には、自由党内の主導権争いになっていく、与野党の対立になると思うんですけれども、そこの部分は全く私はやっておりませんが、この2つが非常に重要な背景だと思います。

次に、今度は、会社サイドの動きですけども、ここがおもしろいところですけれども、日本発送電は組合案に乗る形で全国一元化というものを主張します。これはイデオロギーは全く違う、激しくほかの退職金問題だとか賃上げだとかで対峙しているわけですけれども、この再編成に関しては、答えが一緒なんです。全国一元化して、9配電の分を全部発送電に取り込んで全国1社にしちゃおうという。現に、当時だと、イギリス、フランスで行われたパターンですよね。これを主張していく。ところが、48年の2月にさっきの集排法を指定されたところで、集排法の理念からいくと、ちょっと1社化というのはまずいということで徐々に変わっていきます。直後の再編成計画書はまだ全国1社化案を出しているわけですが、たぶんいろんな史料をみますと、48年6月頃から日発の本音は1社化は無理である。しかし、なんとか占領終結まで時間を稼いで、現状維持、発送電1社プラス9配電の仕組みを維持しようとした節がある。だから、たぶん日発は現状維持方針に転換していったと思います。

 ちょうどそれを受けるような形で、商工省がやりました2つのオーソライズされた審議会があるわけですけれども、48年10月に電気協会の大山という会長が委員長になりました民主化委員会というのがまた出るんですが、これは出した当初は非常に現状維持色が強い。変わったのは北海道と四国についてだけ発送配電一貫の会社をつくるわけですけれども、九州と本州については現状のままというような答申を出すわけです。それから、有名な松永安左エ門を委員長に据えた電気事業再編成審議会というのが行われるわけです。これもいまとなってはあまり知られなくなった話なんですけども、既に松永を据えたという時点で、これは池田勇人が据えたというような話がありますけども、松永はもともと民営論者で、発送配電一貫経営で9分割でという今日の9電力体制を主張していたわけですから、落とし所はそのへんになるはずだったわけです。しかし、これが松永という人のキャラクターなんですけど、田中眞紀子に似ているのかもしれないんだけども、事務局の官僚は出て行けというようなことを再編成審議会でやったりなんかして、本来は松永親派4人、需要サイド1人、大島のもくせい号の航空事故で死にます日鉄の三鬼社長が需要サイドで入りまして、彼は反対するだろうというふうに言われていたわけですけども、ところが、開けてみますと引っ繰り返っちゃいまして、松永が1票で反対票が4票ということになる。その反対票4票がどういう案かというと、さすがに9分割はやらなきゃいけない。やらなきゃいけないんだけども、日本発送電の資産の42%を引き受けました融通会社というのをつくる。だから、事実上、日発を半分のサイズにするけども残して、あと9社を発送配電一貫でつくるという融通会社案というのが答申されるということになったわけです。政党で言いますと、これに近いのが当時の民主党でありまして、50年10月に出したのは、発送電と配電を分けるという案でしたから、これが一つ日発の動きをバックにしながら行われました現状維持的な方向の流れです。

その次に、だんだん後ろにいくほど実際の案になったのに近いんですが、今度は9配電会社の立場なんですが、結論から言いますと、非常に揺れます。最初は、組合攻勢が強くて、団交で吊るし上げをくったというせいもあるわけですが、団交で、日発の総裁と9配電社長が揃って、この電産協が言った全国一元案に支持するというサインをさせられるというところから出発しますが、集排法が48年2月に出た直後の再編成案では、今度は9ブロック化という、いまの現状に近い案を、松永案に近い案を言います。しかし、問題はそのあと、さきほど現状維持色が強い電気事業民主化委員会に配電代表が出るわけですけれど、この連中が現状維持色に強い案にまた賛成しちゃうわけです。ですから、再編成を実行していった9ブロック案を主張した一翼ではあるんですが、私の理解では、9配電はそれほど頼りになる勢力じゃなかったというような認定です。いちばん中心だったというのが、あとで細かく申しますが、私の考えでは、松永安左エ門自身で、現状の案はさきほど申した再編成審議会に少数意見として添付された、1人の意見として添付されたものが現状の意見として載ったと。

一方、GHQはどうしたか。これがいままであまり言われてなかったわけですが、いろいろ調べますと、おもしろいことがたくさん出てきました。どうも具体的な企業形態案で最初に出てくるのは、5ブロック案というのが出てきます。5ブロックというのは、北海道、四国、九州のあと、本州を2つに割るという案です。しかし、この5ブロックというのは割と安易につくったらしくて、その次に、ウォルシュという反トラスト・カルテル課長が、いや9配電はそのままでいくんだというようなことを言ったり、その直後に今度は7ブロック案というのが出てきまして、これは相当大きな影響を持ちました。7ブロックというのは、現在の関西電力、中部電力、北陸電力のエリアが1つになる。それで、9引く2で7ということなんです。ですから、北陸と中部は、地元のアイデンティティが消されるということで、猛烈に反対運動が起きたわけです。しかし、また、9ブロック案が出てきて、いちばん混迷したのは、再編成審議会が結論をまとめている最中に新たに10分割案というのを出してきます。これは9分割のなかの北アルプスのあたり、信越地区に1社つくると。それで、10分割でいくというような案を出しまして、いろんなことを言ったわけです。再編成審議会が答申した時には、多数意見の融通会社案も、少数意見の松永案も批判したんですが、最終的には、GHQは松永案に乗る形になるというような流れで、最後は、その松永案を通すために、見返り資金を打ち切り、さらにはマッカーサー書簡を出してという形で、強行に松永案を通すというふうに、相当揺れたというのが実感であります。それから、商工省、通産省について、これはあとで詳しく言いますが、ほとんどいままで知られてなかったんですが、史料をみていきますと、ここの本音は全国1社化ではないかと思います。それがいちばん初期の46年47年ぐらいの史料をみますと、かなり明確に読み取れます。しかし、48年2月に集排法指定があって、全国1社化という案が現実性がなくなると、今度は日発と非常に近いですが、現状維持に傾き、さらにGHQの意向が揺るぎないものであるということを確認したあとは、むしろ再編成をとにかくやらなきゃいけないということで松永案に乗ったということで、これも相当揺れたというイメージを持ってます。それがだいたい企業形態改編に関する流れであります。

  一方、行政面で言いますと、50年12月に、商工省外局ではなくて、総理府外局であるというところに注目していただきたいわけですが、非常に独立性の強い五人委員会というものができまして、公益事業委員会というものができ上がった。松本烝治が委員長で、松永は事実上ナンバーワンですけど、委員長代理としてこれに入るということです。

 そして、その後の展開ですが、まず、52年4月に占領が終わりまして、半年の猶予期間たって、ポツダム政令ですから、電気事業再編成令と公益事業令が失効します。通常の行政手続きだと、失効したところでたちまち電気事業法ができて受けなきゃいけないんですが、本当にまったくの空白状態が2ヵ月も生じます。2ヵ月生じて、慌てて12月に臨時措置に関する法律というのが出たわけですが、これはあくまで臨時措置なんです。2つのポツダム政令で言われていたものを維持するというだけの内容。どうするかという話はまだ固まってません。なぜかと言いますと、その下のところを注目してもらいたいんですが、企業形態改編のところで一つ大きな動きがありまして、52年9月に電源開発という会社が電源開発促進法に基づいて出来ます。これが限りなく没になった融通会社に近いものでありまして、融通会社に比べますと、融通会社は42%の資産ですから、既設の発送電設備も運営することになっていたわけですが、電発は自分がつくったもののみを運営するということで、そこはかなり大きな違いはありますが、明らかに9電力体制に対する国家管理維持派の巻き返しだと思いますが、これが起きてきます。多分、自由党内の勢力から言っても、9分割に反対した人達が中心になってこれをつくってくるということになります。で、この会社は、ご存じかと思いますが、まず佐久間をやりまして、そのあとOTMと言われた奥只見、田子倉、御母衣という大規模ダムを次々建設して、50年代半ば以降、非常に華々しく打って出るわけです。

さらに遡ること1ヵ月前には、例の問題の公益事業委員会があっと言う間に占領終結から4ヵ月で廃止になります。これはさきほど言った商工省の側の巻き返しで、もう通産省になってますけども、通産省公益事業局という形で、所管がもう一度通産省に戻って、結局、今日まで、いま資源エネルギー庁の公益事業部になってますけれども、つながってくるわけです。

だから、正確に言いますと、再編成というのは2つの内容だったとして、企業形態改編と行政面でいいますと、企業形態改編は再編成によってできあがった民営9電力体制を基本的には今日まで維持していたわけです。だから、再編成は定着したと言えるわけです。ところが、行政面でいいますと、あっと言う間に、できて20カ月で公益事業委員会というのは廃止になるわけですから、たちまち元に戻った。2つの柱のなかが非常に対照的な結果になっているんです。

さらに事態は進んで、57年7月に9電力のなかの、特に料金が安かったところなんですが、東北電力と北陸電力が2社だけ値上げという事態になります。それまでの値上げは9社一斉だったわけで、9電力体制に対する問い直しはその時は起きなかったんですが、9社のうち2社値上げしたということによって、地域差が出るのではないかと。そもそも9電力体制が問題なんじゃないかということで、もう自民党になってますが、自民党内の再々編成問題というのは非常に大きな政治問題化します。これがたぶんかつての国家管理維持派の最後の揺さぶりで、かなり大きな影響力を持ちますが、最終的には、これに対して民間の9電力が巻き返して、相互に融通する広域運営というのを58年4月にスタートさせて、収まります。

そして、実態からいきますと、私がやや主張しすぎて批判もあるんですけども、この時代はかなり通産と電力業界は切れていたんじゃないかと。ポイントは2つありまして、1つは、電源構成で、電発自体が水力ばかり使ってますし、通産はかなり水主火従、水力中心の水主火従にこだわってきます。一方、9電力のほうは、大戦中に技術が進みました大容量火力、新鋭火力と言われた、これは最初は石炭なんですけど、これをいれることに熱心でありまして、火主水従ということを主張し出した。これも松永が電中研のレポートという形で言うわけですが、5年ぐらいずれがあります。通産の方針が火主水従に転換するまで5年かかりますので、そこのずれがあったというのが1つと、もっとクリアなのは火主水従になったあとの油主炭従なんです。火力発電所の燃料。通産のほうは石炭産業保護という立場から、重油ボイラー規制法等で、重油をボイラーとして炊くというのに対して規制をかけるわけですけれども、電力会社はどんどん突っ走りまして、油主炭従をやっていくということで、この時代はまだ原発問題もそんなに本格化してないこともあって、あるいは立地から来る電源三法というのも石油ショック後の話ですから、この電源三法と原子力行政で通産と電力業界の距離はあっと言う間に近づくと思いますけども,この時代は相当に対抗意識があった。というのは、電力会社としてはよいパフォーマンスを示して、民営体制を法的に確認させないと、電気事業法という形で法的に確認させないといけないというプレッシャーが非常に重要な経営合理化のインセンティブになったと思います。最終的にその火主水従、油主炭従が進むなかで、64年にようやく電気事業法ができます。つまり、臨時措置法で12年間やっていた。その間には、だいぶ揺り戻しの可能性があった。この電気事業法がずっと続いてきまして、いまから7年前の1995年に全面改正。これで自由化が始まってきました。それで、2001年3月にもう一度小売部分自由化の全面改正が始まっている。9電力体制は基本的に維持されていますが、細かく言うと、復帰後、当時の地場の電力会社を集めてできた沖縄電力が国営会社としてやっていたわけですが、それが88年に民営化されて、一応いま公式には10電力体制という言い方になってます。しかし、95年12月以降は競争原理が入ってきたと。これがだいたいその後の推移なんです。

簡単に歴史的なインプリケーションについて「V」のところで述べたいと思いますが、私の意見では、電気事業再編成というのは日本の電力業が本来の流れに戻ったものである。なぜそういうふうに言うかというと、松永安左エ門が主役だという認識が大きいわけですけれども、その松永自身がずっと以前に、まだ電力が戦前競争している頃、1928年(昭和3年)の5月に東邦電力の副社長として「電力統制私見」というのを発表しているわけですが、これがほとんど戦後の再編成──民営で発送配電一貫でいく、全国9ブロック化でいくと、そして料金認可制でチェック機能を持たせて、それを担うものとして公益事業委員会を設けるということで、100%に近いぐらい似たようなことを言ってまして、そういう構想がもともと日本の電力業界の内部にあった。ですから、国家管理が出てきた時に、事業者の団体であります電力連盟が反対するわけですが、反対として掲げた対案がこれに非常に近いんです。但し、これは8ブロック案で、北陸がないという意味ではちょっと違いますが、既に国家管理に対する対抗としてもそういうことが言われていたと。それから、じゃ、GHQはどうなんだと。GHQは確かに重要な役割を果たしたと思うんですが、さきほど申しましたように、5だとか、7だとか、9だとか、10だとか、いろんなことを言ってまして、最終的にGHQが一貫して変わらなかったのは独立性の強い行政委員会をつくれというところであって、企業形態については、あまりフィージビリティがある案をつくらなかったというのがポイントです。

それから、やや細かいようなんですが、政治的には多分非常に重要な問題なんですけども、実は、日本の9分割というのはちょっと変わったやり方をしてまして、松永が名付けた品のない名前ですが、「凧揚げ地帯」方式というのをやっているわけです。つまり、どういうのかというと、関西電力が木曽川の発電所を持っている。それから、黒部川の発電所を持っている。長野は中部電力の営業地域ですけれども、東京電力が高瀬川だとか、発電所を持っている。あたかも凧を揚げるように、大規模需要地を持っているところが大規模水力については、電源をよその地域に持っている。この発想が水力だけじゃなくて、たとえば東電の柏崎というのは東北電力の新潟にあるわけです。福島も同じ東北電力のど真ん中にある。いま、下北までという話になってます。そういうやり方を凧揚げ地帯方式というふうに言ったわけですが、こういう発想はアメリカにはなくて、アメリカは日本よりもはるかに細かい地域分割をやってるみたいなんですが、必ず営業地域と供給地域を一致させるという属地主義という発想です。この点はかなりGHQはこだわるわけですけれども、最終的にはそれも捨てて、松永案に乗っているというあたりで、私はその松永に体現される一応日本の電力事業の流れみたいなのがあって、それがちょっと国家管理で曲がったのが元に戻ったと理解したほうがいいんじゃないかというような理解を持ってます。

これはいまだとあまり違和感がないんですけど、私が研究を始めた頃は、非常にイデオロギッシュな歴史学が強くて、国家管理をものすごく高く評価する。要するに、国家管理に日本の電力が行き着いた最終地点というような発想がすごく強かったんです。そういう意味では、割とチャレンジャーだったんですが、いまだとごく当たり前のように聞こえちゃうかもしれません。そういう意味で、国家管理は逆に回り道だったと。簡単に言うと、経済合理性がなかったんじゃないかということを言いたいわけです。

1つは、これはよく言われますが、経営者の創意工夫や民間電力会社の活力を封殺した。端的に言いますと、45年までは政府の補助金が出てました。で、補助金が打ち切られたあとは、プール計算方式というのになりまして、9配電及び日発のいちばん優秀なやつがどこに人を張りつけたかというと、経理なんです。経理の何をやったかというと、うちの会社はいかに赤字であるかということを、プールの陰で証明するのがいちばん重要である。たくさんの赤字のところに、卸値の調整なんかで、事実上の補助金が回ってきますから、合理的な経営をやろうというインセンティブは全然生じない仕組みになっていたと。端的にいうと、そういう補助金プール計算方式の問題点が出ていたんです。

それから、2番目は、事実上戦前も地域ごとにかなりなっていたわけです。大消費地には大きな火力発電所なんかがあったわけですが、これは全国1社にしたのでどうなったかというと、中部山岳地帯の水力で大規模に電力を起こして、それを全国に回そうという割と単純な発想になったわけです。それはかなり致命的な問題点があって、発電コストがかかるという点もあるんですが、当時はまだダム式はほとんどないですね。いちばんダム式で大きかったのは猪苗代湖。これは天然の湖がダムになっていたというような時代だったもので、まず、天候次第でものすごく揺れてしまう。1939年(昭和14年)にものすごい電力不足が起きちゃったりするわけです。それから、もう1つ致命的なのは、いまと違って冷房なんかはないですから、夏ピークじゃありません。冬ピークです。冬は夜も長いし、熱源としても使っているから、当然冬がピークなんです。ところが、日本の降水量はどうなっているかというと、完全に夏がピークなわけです。梅雨も台風も夏で、冬は雨が少ない上に、白いダムなんて言ってましたけど、降ったものが雪として山に残っちゃうわけだから、冬はものすごい渇水期なんです。で、渇水期の冬に需要がピークを迎える。しかも、電力ですから、ストックがきかない。どうなるかというと、冬の最大需要に合わせて水力開発をやらなきゃいけない。そうすると、当然夏に膨大な余剰電力が発生してコストがかかるという問題があったわけです。それがもろに出てしまったんじゃないか。

それから、3番目に、発送電事業と配電事業。それまでは東京電燈でも発電を持ってて配電をやっていた。名古屋の東邦電力でもそういう形になっていた。分かれていた会社もありますけれども、つながっていた大きな会社もあったわけで、そこが切れることによって、いわゆる垂直統合の経済性みたいなものが働かなくなるというような問題もありました。もちろんまったく全部問題だったわけではなくて、一種の履歴効果みたいなのでいくと、えんやと9配電をつくったということがなければ、次の9電力は本当にあり得たか。これに対しては多少異論はあるんですけど、事実上、関東とか中部とかでは中心となった会社がもう配電統合をはじめてまして、逆に配電統合ができたのは、民間の統合があったからだという面もあるんですけども、但し、関西は非常に違っていて、関西は戦前群雄割拠していたわけです。ですから、多分関西に関していうと、関西配電がないと、戦後の関西電力はスムーズに立ち上がらなかったと思います。そういう点ですとか、あるいは戦前の時点では周波数がかなりまだばらけていたんですね。それを50と60という2つにですけれども、統一する面で合理性を持ったということは認めますが、かつての通説が言うように、非常に国家管理が整った合理的なものだというのは、到底考えられないというのが私の見解です。

あと、さらに国家管理・電気事業再編成というのはその事実として以上に経済史の世界で特別な意味付与がいろいろされてきたというので、それもちょっと余計な話かもしれませんが、簡単に申しますと、1つは最近あまり聞かれませんけど、国家独占資本主義論というのがあって、国家総動員法とともに、電力国管が国家独占資本主義成立の画期だという議論。これはかなり経済史で非常に強く言われていたことなんです。それに対しては、非常に単純な反論ですけれども、そしたら、再編成で国家独占資本主義は終わったのか。現状を解くために国家独占資本主義というふうにその人達は言っていたわけで、そういう問題もある。ただ、これは笑い事じゃなくて、ごく最近、また新たな形で、戦時期源流説というような「40年体制論」という形で言われているわけです。野口さんだとか、これは特に外国で人気があるんです。日本ではちょっとピークが過ぎたような気がするんだけど、非常にわかりやすい話で、一種の規制緩和を進めるためのイデオロギー的な装置だと思うんですけれども、日本の現在の仕組みは非常にアナクロであって、戦争の時にできたと。場合によって、ソ連を真似してできたというようなことを言って、だから、解体しなきゃいけないと単純にいくんですが、その人達がもう一度国家管理を非常に高く評価してます。40年にできあがった仕組みがという話です。ところが、この人達の特徴は、再編成についてはほとんどメンションしないというのが大きな特徴であります。だから、「1)」と「2」」は似たようなことが繰り返されている。

それから、3つ目は、河西さんという電産のことをずっと追っ掛けられている方なんかがやられているわけで、全くこれは間違いではないと思うんですけども、いまでも言われているかも知れませんが、日本的経営の特徴としてかつて三種の神器──終身雇用、年功制、特に企業別組合というのが言われたわけですが、その企業別組合がいつできたのかということを論じる時に、電産こそがポイントであると。電産の1952年の争議、これは産業別組合のいちばん強かったやつが52年の争議が破れ、企業別組合にその前あたりから変わっていく。これがその分水嶺だったと。それ自体はある意味では納得できなくもないんですけども、さらにもう一歩進んじゃって、そのために電気事業再編成をやったというのが彼らの議論です。これは僕は相当違うんじゃないかと思います。再編成の対立の構図というのは労使のところで引かれるんじゃなくて、むしろ企業の間に対立があって、組合労使はむしろ一体となって、全国一元化を目指したというような側面があるわけです。いろいろなことが言われているわけですけれども、史料に基づいて事実を考証していくと、こういう意味付与は、それぞれちょっと無理があるんじゃないかというのがここの余計な話であります。

ちょっと残された時間で、少し史料について申し上げたいと思います。再編成について大きく言うと、ジャンルは3つに分けられまして、一応発見して利用した史料。ただ、これはもっと利用できるかもしれません。それから、あることはあるんだけど、まだ利用してない史料というのがあって、それから、これはこんなことを言って、ないかもしれないけど、多分あるに違いない、私自身もまだ存在を確認してないというような史料があると思います。

1つ目は2番目のほうからいきますと、これがちょっと心配なんですが、次の業績目録のところで3番目のところにありますが、ここに来られたみたいですけれども、「通商産業政策史」というのを武田晴人さんなんかと一緒にやったことがあるんですけども、その時に発掘した史料でありまして、当時は、通商産業政策史研究所と言ってたわけですけれども、このすぐ近くのどこかのビル、焼肉屋さんの5階かなんかのところにあったと思うんですけれども、そこに史料が集めてありました。まとまった史料としては、45年10月から48年1月まで商工省の電力局長をやってました古池信三さんの古池信三文書というものがあります。

伊藤 これは「こいけ」と読むんですか。

橘川 だと思います。違うかな。こいけですよね。古池さんの文書がありまして、何せ80年代に書いたので、記憶が弱いのでちょっとみてきたんですが、特にそのなかで2つ重要そうなフォルダーがありまして、1つは「電力行政史料」47年と書いてあったと思います。それから、もう1つは「電力関係史料」48年というのに入っていたと思います。たぶんこれは古池さんが備忘録的に綴じられたものだと思いますわけですけども、従来、ほとんど明らかになっていなかった商工省の動きがかなり克明に追えます。ちょっとその史料の中身を紹介しながら申しますと、いちばん最初に古池文書で出てくる「電力行政史料」というファイルのなかに入っているデータで言いますと、46年12月ですから、かなり早い時点なんですけれども、昭和21年12月のところで、中央電気委員会令案というのをつくってます。3つぐらい案をつくりまして、中央電気委員会の構成メンバーは21人から25人ぐらいのメンバーで供給者、消費者、第三者──貴族院、衆議院議員、学識経験者と官吏。どういう構成で進めるかということで、商工省主導で電気事業の再編をやろうとしたというのがいちばん最初の着手です。ところが、これをGHQに何回も持っていくんですが、なんの返事もないわけです。GHQからそれに対して、いや、もう商工省主導ではやらせないと。再編成は独立性の強い五人委員会でいくんだというようなことを言いまして、細かい史料はいくつかあるんですが、47年7月の商工省のデータによると、五人委員会の設置について検討したメモランダムが残ってます。基本的に非常に批判的なトーンです。これは憲法違反であるというようなことも書いてあったり、あるいは商工大臣との権限が齟齬を来すというようなことです。これが多分本音だと思います。以後は、にも関わらず、GHQの意向が強いというので、徐々に修正していくわけです。47年7月あたりになりますと、五人委員会は認めましょうと。電力行政に関する権限はすべて本委員会に属するものとすると一応認めるわけですが、その後ろのほうに電力行政委員会に事務局を設け、現在の商工省、電力局を改組してこれにあてるとか、委員会はその権限の範囲において商工大臣に対し責を負うという形で、なんとか商工大臣の下にこの行政委員会を取り込もうというふうに動いているという流れが行政の面からはわかります。

一方、企業形態の再編のほうからいきますと、これについて商工省は、いまのところ史料上最初に確認ができるのは47年7月です。さきほど五人委員会でいかなきゃいけないとGHQから言われた時に、ついでに企業形態も変えなきゃいけないんだということを言われたわけで、この時は47年7月の改善案というのは5つぐらいの案を検討しています。5つというのは、電力国営案、それから、国営案なんですけども、公団による国営案、それから、民営による地域別独立会社案、これは原史料で、地域の域が城という字になってミスプリになっているみたいですけど、それから、現行機構骨子とする改善案、あるいは電力公営、地方自治体に任せる案と。これくらいの案を検討したというのが最初の史料として出てきまして、だんだん詰めていって、そのなかから、47年9月の時点で、国営案と発電事業の一部国営案、これは融通会社にかなり近いです。融通会社の部分を国営でやるということがちょっと違います。あと、地域別独立会社案という3案を立てて、どう読んでも国営案がいちばんいいというのがこの時点の結論です。ところが、それに対して、GHQのほうから、いや、民営にして地区別でブロック化するというのが来たのに対して、47年9月のところで商工省は「地区別民営会社案の長所と欠陥」という文書で検討していまして、長所はこれくらいで、欠陥はこんなにたくさん書いてありますから、本音はやはり私の理解だと国営案、1社化案というのが本当だったと思います。それが徐々にGHQの意向が強いということで変わっていくわけです。たとえばこれはあまり知られてなかったんですが、48年3月に、5回ほど商工省電力局、安本が集まって集中的に審議を行ったりしています。それで、各案を検討して、この時はさっき言った3つの案の重さをだいたい同じぐらいにする。つまり、国営案と融通会社案と、地域別民営案3つを同じぐらいにすると、だんだんGHQに擦り寄ってくるわけです。しかし、それを最後5月にまとめた時点では、もう1つ付け加えまして、融通会社案を変えちゃって、現行のまま案というのが入るんです。だから、商工省は多分最初国営案でいきたかった。ところが、GHQが集排法を適用させて、強い姿勢で出てきたところで現状維持案になって、このあと、最終局面では松永案に乗るというようなことがこういう史料から伺われます。この史料なんですが、ちょっと最近の史料のあり方を確認してないんです。当時は、たぶんこれくらいの棚で3つぐらいいろいろありました。そのなかの一部、渉外週報というやつは通産政策史研究所がのちに刊行しましたから、これは確実に残っていると思いますが、この備忘録的な史料があるかどうかというのはちょっと確認できてないんです。これは再編成を理解する上ではとても貴重な史料なんじゃないかというふうに思います。

伊藤 この研究所はいまどうなっているんですか。

橘川 たぶん、いまも名前を変えてあると思います。経産省のなかの経産研究所でしたっけ。あのなかの部門として、省の政策史をつくっている部門があって、そこが持っているはずです。なくなっているということはないと思います。但し、これは書き終わったあと回収されましたから、非常にアクセスが多分悪くなると思ったので、インチキなんですが、私は当時青学だったので、そのポイントとなるやつを全部写して出しました。これは持ってきましたから、ワンセット寄付していきます。ただ、これはあくまで原史料じゃないので、原史料の膨大なところから……。いま言ったような史料の名前とかは全部これをみればわかるようになってます。

伊藤 ありがとうございます。産業政策史研究所では、産業政策史をつくるためのいろんな史料を集めて持っている。

橘川 ええ、そういうことだと思います。多分、その前に商工政策史がありました。それで、これが通産政策史ですよね。第1シリーズが終わって第2シリーズまでの間に、まだ存命中の政策担当者にずっとヒアリングをかけたわけです。本として30冊近く残ってます。古池信三さんもそのなかにいらっしゃった。多くの方がヒアリングで呼ばれた時に自分の持っている史料を持ってきているんだと思います。あるいは家にある史料を紹介して、だいたいみんな寄贈されるような形で残っている。残さない人もいるんだけども、このケースはかなりよく残っていたケースだと思います。

小池 これは目録がありますね。

橘川 はい。ただ、ちょっと引きにくいんじゃないかと思います。

小池 大変、引きにくいですよね。

橘川 ストーリーをつかまえるのがやっぱりなかなか大変なんですよね。同じ古池文書を使っても、たとえば全然違う角度から、電力の需給調整とか、料金はどうかとかと読むとまったく、私は再編成の角度から切ってますので、新しいストーリーが出てくる可能性もあるというので、これはなんらかの形でパブリックで使える形になると非常にいいのではないかと思います。古池文書だけじゃなくて、いくつかあると思います。そんなに期待はできないんですけれども、ぼつぼつと商工政策、通産政策に携わった人のものがある。しかも、今後もどんどん出てくる可能性がある。

伊藤 オーラルの記録もあるわけですね。

橘川 オーラルの記録はあります。

武田 それは利用できないんですか。

橘川 それは利用できるんですけど、多分流通している部数が少ないんじゃないかなという気がします。

武田 ある程度流通はしているんですか。

橘川 それを見せないということはないと思います。当時、史料はかなり敷居が高くて、書く人間しか見せなくて、コピーも取ってはいけなくてという話だったんです。ぎりぎり考えて、私はこういう史料紹介という形ならいいのかなというので、必ずあとで問題が起きそうだと思ったので、そういう形でちょっと間をおいて発表したということなんです。正確には言ってませんので、見つかると怒られるのかもしれない。もう10何年たったから、いいかなと思います。

伊藤 今度の情報公開で、一体これを研究所はどういうふうな立場をとるかということでアクセスしてみる必要はありますね。

橘川 そうですね。それから、それだけではなくて、いろんな審議会に出る添付資料なんかが多分重要だと思います。そういうものがどういうルールでオープンになってくるのかという問題はあると思います。

伊藤 政策史研究所が持っていたものというのは、そういう個人の持っていたものだけではなくて、旧商工省以来の公文書もあるわけですか。

橘川 私の理解だと、それは本体が持ってまして、これは政策史をつくるためにあくまで取材したものとして付随的に入手できたものというような棲み分けだったような気がします。その後、ちょっと最近はどうなっているのかはわからないです。

伊藤 旧商工省以来のアーカイブスというわけではない。

橘川 そういうわけではないです。問題は本体のほうなんですけども、これがものすごく残りが悪い。これは余計なオフレコかもしれませんが、たとえば私のところの院生でつい最近の80年代の産構法なんかを研究している人間がいまして、現局がこの間の省庁再編になるまではある種全部見せてくれていたんです。それで、論文を書いたんですけども、書き終わって、次のを書こうとしたら、省庁再編が間に入ったら、その間に全部シュレッダーにかかっちゃったというようなこともあったみたいです。

伊藤 あったんですね。あちこちで聞きます。

橘川 確かにあの引っ越しの状態をみていると、しようがないのかなとも思います。省庁再編ならまだいいのかな。情報公開法でやったんなら、また問題があると思います。そこはわかりませんけども、最近でもそういう話があります。これは難しいのは、次のGHQ文書も同じなんですけど、ちゃんとしたインデックスがなくて、それぞれがストーリーがないとなかなか読み込めないというような問題が大きいです。そこをなんとか変えていかないといけない。

次がGHQ/SCAP文書で、これはもうすでにほとんどの方がいろいろ使われているものなので新しいものではないんですが、非常に大変なんです。私が調査したのは80年代で、当時は、まず、ワシントンのナショナル・アーカイブズに行って登録して、1日何便か出るシャトルバスで郊外のスートランドに行って、勘でいろいろ箱を出してきてみるというやり方だったわけですが、最近はそれがメリーランド大学に移ったということなんですけども、たぶん基本的にインデックスがないという状態は変わってなくて、頑張ってやっとシッピングリスト(船積資料)がある程度なんです。ちょっとさっき武田さんとも言っていたんですが、私も2度ほど行って、最初は政策史のお金をもらって行ったにも関わらず、事実上空振りみたいなことになって、それで、しようがないんで、次は自費で行って、だんだん慣れてくると、少しずつわかってくるわけです。いちばん最終的に有効な方法だったのは、当時、行っている最中ずっと向こうでつくられていたわけですけど、国会図書館の憲政資料室の方がコピーをとられていたんですよね。あそこでつくったインデックスがいちばんいいんです。但し、憲政資料室であれをみようとすると、目がおかしくなっちゃうわけです。とてもじゃないけどおかしくなっちゃうので、いちばんいいのは、多少お金がかかるけど、憲政資料室のインデックスを使い、現地に行って現物をみるというのがたぶんいちばん効率的である(笑)。いちばん効率的というけど、私の経験からすると、フィージビリティがあるのは実はそれぐらいしかないんじゃないかというような気がします。

もちろん扱う分量が多くなければいいのかもしれませんけども、たぶん再編成だけでも、僕が発見したボックスだけで30箱ぐらいのところに散らばってましたから、もっとあるのかもしれないし、さきほど言ったこれもワンセットつくったのがありますから置いていきますけども、いままで再編成だと、参考文献のいちばん最初に書いてあります「再編成史」というのがこんなタイプのやつでこれしかなかったんですけども、これは7ブロック案以降しかGHQは出てこないんです。それともう1つ有名なのは、ノンミリタリー・アクティビティという一連のシリーズがありまして、当時はまだ翻訳されてなかったんですが、そのあと自分で翻訳する羽目になっちゃって、それで、こういうやつになっちゃったわけですけども、これも非常に概観で、行政のほうはかなり書いてあるんですけれども、企業形態のほうがあまり書いてないんです。レコードグループ331全部が日本ですから、これはあまり意味がないんですけども、ボックス69、79、フォルダー6というあたりで見ます、47年4月ぐらいから再編成に関してメンションがあります。日発をもう分割しなきゃいけないというところから始まって、さっき言った5ブロック案ですとか、それから、7ブロック案は前から紹介されてますけど、7ブロック案からなぜ揺れ戻したのかとか、あるいは7ブロック案がなぜ一時実行寸前までいったのにだめになるのは、日本国内が反対というよりはGHQ内部の価格を担当している部局が反対するんです。電力価格について、7ブロック案を五人委員会でつくられちゃうと自分達の権限を侵す。その反対のお陰で7ブロック案が流産しただとか、それに対して、9ブロック案に戻るんだけども、その9ブロック案というのは決して現在の9とは違って、関西を2つに分ける。関西、中部、北陸を合わせたものを2つに分け、いまの東京電力を2つに分けるというまったく違う9ブロックを考えていただとか、細かいことは申しませんけども、いろいろわかるんですね。だから、これははっきり言って自信がありません。私もそのあとボストンに1年いたことがありまして、その時に4、5回ワシントンに行って、たぶん通算で2カ月ぐらいいて、やっといろいろピックアップしたわけですけれども、まだまだ出てくる可能性は十分あります。だから、もし行かれる人がいたら、最近だいぶ航空運賃は安くなりましたから、さっきの日本のインデックスと現地の向こうのものという組み合わせがいちばんフィージビリティが高いというふうに思います。

たとえばマッカーサー書簡もこのなかにあったわけです。いきなりすごい重要なものがぺろっと出てきて見落としちゃう危険性がある。余計な話かもしれないけど、ノウハウがいろいろあって、コピーをとりたいわけですけれども、なかなかコピーマシンが空いてないんです。オーダーしちゃうとあてにならないという面がある。特に和紙のやつなんかだと、表裏どっちかわからないところ、間に紙を入れないと読めないとか、いろいろありまして、なるだけ自分で、手持ちでコピーしたいと考えて、最初の機械はダイム(10セント)しか受け付けなかったんです。それで、いかにDCのなかでダイムをたくさんつくるかというのが効率をあげるポイントだったりしたこともあります(笑)。そのあと、だいぶ改善されたりして。

武田 いまはカードになってますね。

橘川 いまはカードになっている。あとのやつに教えて、ダイムをこんなに持っていってやった後輩がいるんですけれども(笑)。あのバスがすぐ4時頃終わっちゃうんですよね。ほとんど実働時間が少なくて、私より前に行った人間がいた頃は、一応あそこの昼飯を食うところが稼働していたんだけど、そのあとまったく稼働しなくなって、だから、昼御飯を仕込んで行かなきゃいけないとか、いろいろノウハウがたくさんありました。このあと、石油でも行ったんですが、やはり石油でも膨大にいろいろ史料がありまして、石油の話はまたやり出すと1回分ぐらいかかっちゃうんですけども、アメリカの石油会社の利害とGHQの利害が必ずしも一体化してないんですよね。割とGHQの本体というのは本国と同じ発想で、石油というのは上流から下流までつながってなきゃいけないと思っているので、消費地精製主義じゃなくて、なんとか日本国内で原油を見つけようと必死なんです。秋田の八橋なんていうのは、彼らのお陰で一旦掘り終わったところの下に水を入れることによってまたものすごく掘れるようにした。それで、そのために帝国石油(帝石)の技術者が重要で、インドネシアでたくさん抑留されているので、それを米軍が手を回して、帝石の上流の技術者を早く釈放して日本側に投入したかったという、おもしろいことがいろいろわかるんです。ところが、いまのはG4のほうなんですけど、メジャーのほうは経済科学局とつながっていて、こちらは中東で原油が大量に見つかったので、なんとか使いたいと。消費地精製主義というのを思いついて、それと国内のドルを節約するという話とをくっつけて、消費地精製主義で原油を日本に売りたいということで、当時のスタンダード・バキュームは、東燃が子会社でできるわけですけど、東燃の製油所が稼働しただけで、11%販路が確保できたそうですから、かなり大きかったんですね。そちら側のプレッシャーがあって、消費地精製主義でいくのか、垂直統合方式でいくのかでだいぶGHQの内部で対抗があっただとか、いくつかおもしろい話がたくさんあります。

これは余計なことかもしれませんけど、私は憲政資料室がコピーをとってきて、却ってGHQ文書の研究は後退したんじゃないかと思っています。というのは、昔はスートランドに行くというのが格好いいというか、日本国内で手に入らなかったので、行くことによって差別化ができたわけです。いまだと、誰でも国会図書館に行けば見られるという状況になっちゃったがために、却って使われなくなっているんじゃないかというような印象を持ってます。だから、まだまだ特に若い人達がやれば、発掘できる事実はたくさんあるような印象がしています。いまのは余計な話ですけども。

伊藤 いや、別に余計じゃないです。

橘川 そういう意見をよく教室とかで言っているんです。それが利用した史料ですが、何か質問がありましたら、あとで出していただくことにいたしまして、存在しているが利用していない史料というのは、大きいのは安左エ門の日記なんです。これは安左エ門の伝記が出ていて、そこでもメンションされていて存在することは確実なんですが、いろいろバリアがありまして、その後、松永安左エ門の甥にあたる中部電力の社長、会長を務められた松永亀三郎という方がいらっしゃって、もう亡くなられたんですけども、中部地方の電気事業史をやった時に、その仕事が終わったあとなんですけども、「いや、実はこういうのが小田原に残ってて、見たいか」と言う(笑)。当然見たいと答える。「見るのはいいけども、使ってもらっちゃ困る」というわけです(笑)。「叔父貴はああいう性格だから、人の悪口ばかり書いてあって、関わる人がたくさんいる」と。いろいろ条件を出しまして、たとえば昭和20年代に限ったらどうかとかと言ったんですが、それでもなかなか「ちょっと交渉してみる」と言って、本家の人達がみんな「ノー」と言ってたんです。途中を飛ばして最終的に言いますと、まず、字がすごく読みにくい。名前をちょっと忘れちゃったんですが、その字を読める人はこの人しかいないという人がいて、最終的にその人が松永の日記のなかから抜書きした。だから、フルじゃないんです。差し障りのないところを抜いたような形のものを昭和20年代について見せてくれたというのがありまして、見せたという意味では一旦預けたわけだから、「コピーしていい」とは彼は言わなかったんですけども、それは明らかにそういう意味だったので、それを一応コピーしたところまではあるんです。ただ、抄本であるということもありまして、いまのところ使っていいというオーケーは出てないというので、一応こういうのがありますと。だから、そういう情報はみんな研究者の間ではオープンにしておいて、何かの時があれば使う。但し、だいぶ前のものなんですが、少なくとも何日に誰に会ったかはわかるんです。特に、たぶん政治史のやり方だと非常に意味があるんじゃないかと思います。回数を数えたりなんかするようなやり方では。

伊藤 佐藤栄作日記のなかでも出てきますからね。

橘川 そういうのがあるということなんです。

伊藤 これは日記だけじゃなくて、文書も含めて、松永家にあるという感じですか。

橘川 文書があるという話は全然ありません。茶器はたくさんあるようなことは言ってたんだけど(笑)。文書自体は聞いたことはないですね。

伊藤 電力中央研究所やなんかは。

橘川 それはまた別途の話ですけれども、電中研は日本発送電関係の史料はたくさんありまして、これも整理が非常に悪かったんです。昔はそういうことが研究者になる上の参入障壁だったんですけど、小田急の喜多見のところのすごい汚い小屋みたいなところにその文書が入ってまして、夏になると40度ぐらいなんです。そこで半分裸になって史料を見るというのが仕事だったんです。そのあと、一応ダンボールごとに外に出して、そのあとどうしたんだっけかな。あそこは名前が変わったのかな。幾徳工業大学でしたっけ。どこかにあの分は寄贈したんです。理科系の雑誌とかが大量にあったんです。経営史料はまだ喜多見にあるんだと思います。但し、これは日発が集めた史料なので、日発サイドの情報です。で、完全ではありません。ただ、リストはある程度揃ってます。

伊藤 それはそこに行けばあるということですか。

橘川 行けばあります。これは見せてくれると思います。ごく最近の状況はよくわかりませんけども、5年ぐらい前まではそうでした。

伊藤 電力中研はそういう自分達の史料しか持ってないみたいですか。

橘川 日発は電力中研の前にあったから、そういう意味では前の組織の史料なんですけど。

伊藤 そういう組織の史料しか持ってない。

橘川 持ってないと思います。それ以上は持ってないと思います。

伊藤 関係者の史料なんていうのは持ってない。

橘川 基本的に理科系の研究所ですので、持ってないと思います。これはもう10数年前のことですが、一部経営にかかわる史料が意外なことに電中研大手町ビルにもあるんです。それもすごいところにあったな。お掃除をするおばさんなんかの控室かなんかに(笑)、そういうところに全部ありました。

伊藤 よくあることですよ(笑)。

橘川 当時、電気事業要覧が第一巻から全部揃うのはそこだけだったんですよね。

伊藤 電中研はみる必要がありますね。

橘川 そういう意味では、でも、期待したほどはないんですけども。だから、さっきのは日発文庫という名前がついてたんで、再編成に対してはどっちかというとアゲインストなんで、あまりないんです。だから、本当はいろいろ謎があるんです。10分割案を言ったエアースという人間がいるんですけど、これが何者だか全然わからなくて、アメリカへ行って一所懸命追っ掛けようとしたりした時期もあったんですけど、やっぱりちょっと手立てがないんじゃないかとか、NHKで番組をつくった時、NHKの人に頼んだりしたこともあるんです。

武田 松永の日記は松永家本家でお持ちですか。

橘川 本家が持っているんだと思います。これは有名な話ですけど、松永も長生きしたんですけど、奥さんも長生きしまして、この奥さんが非常に強い奥さんだったという話があったんで。

伊藤 これは松永家にぶつかる以外にないですね。松永さんだって、いろいろシンクタンクをやったり、政治家との関わりも非常に強かったわけですから。

橘川 このへんになるともうお任せしたほうがいいのかもしれませんが、たとえば慶応の志木高校へ行きますと、私が知っている限りいちばんでかい松永の銅像があるわけです。彼があそこの土地を寄付したわけです。だから、たとえば慶応の関係者の人が行くと、だいぶ違うんじゃないかなぁなんて、それは非常にあり得る線だと思います。

清水 これは言って大丈夫な話だと思うんですけど、松永さんの蔵書は若干ありました。

伊藤 それは慶応にあるわけ?

清水 はい。文庫として整理はされてないんですが、本を開くと、松永安左エ門文庫という紙が貼ってあるのがありますので。

橘川 壱岐の島の博物館も一所懸命集めたりなんかしているんですけど、文書はあまりないですね。壱岐の島はホームページをつくってますから、ホームページで読めます。だから、そのへんから攻めるのがいちばん可能性がある筋かなと思います。

武田 松永の日記をみたのは小島直記さんです。

橘川 小島さんがごく部分的には見ているんです。

伊藤 ごく部分的なんですか。

武田 小島さんと橘川先生だけじゃないですか。

橘川 いや、私は本体を見てないから。

伊藤 小島さんは本体を見たわけですか。

橘川 本体の一部だと思います。小島さんの書いた松永の伝記は、いろいろ出ているなかではいちばん信憑性が高いと思います。あそこに出てくる話であとがとれる話はたくさんあります。もちろんちょっと大袈裟なところもいろいろあります。そのあと、再編成の三羽がらすというふうに言われたのが、木川田一隆と横山通夫と芦原義重。これは中央3社の社長に全部なって、いま、芦原さんだけがまだ存命なので、関西の仕事もやったこともあるので、いろいろアクセスしたんですけど、ちょっともうだめなんですね。最近、松永がやったことまで全部自分がやったというような感じなので、ちょっとこれは困ったなという感じで、いちばん最近ヒアリングした時はそうだったですね。

季武 この日記というのはいつぐらいからあるんですかね。

橘川 多分戦前からあるんだと思います。

伊藤 もし日記も文書もあれば、これは相当大きなものだと思います。

武田 石橋湛山もだいぶ出てきて、電源開発会社の総裁小坂が替わる時も松永は絡んでますよね。

橘川 おもしろいんです。GHQ文書に、1ヵ所だけGHQが変な指令を出すんです。いまの外務省の話にすごく似ているんですけど、商工省電力局の役人を替えろというような指令を出すんです。それは明らかに松永の意向が入っているんです。そこまで松永とツーカーだったのに、その直後にいきなり10分割案という全く違う案を出してきて、一旦は松永案でもだめだというふうに振れるんです。だから、事実としては、一応見つけた点の史料をつないで話をしましたけども、そのプロセスがどうなったのかというのは、まだまだ謎がたくさんあります。

伊藤 松永とGHQの役人との関係というのはあまりよくわからないわけですね。

橘川 それはことあるごとにつながってますから、非常に頻繁なんですけど、ケネディという向こうの受け側の人間が突然態度を変えるんです。たぶんGHQ内部で何かあったんだと思います。

伊藤 そういうのは日記を見ると。

橘川 見ると、埋まる可能性は十分あります。あとは、松永日記ほどの価値があるかどうかはわからないですけど、ともかく政治関係だと重要だと思うのは、公営電気事業なんですけれども、これはすごい立派な復元運動史というのが出ているんです。こんな本が出ているんです。

伊藤 非売品ですか。

橘川 いや、これはかなり出回っていると思います。もうだいぶ前の本ですから、売っているかどうかはわかりません。史料集としても非常に役に立つので、あれが出るということは、必ずバックデータがあるはずなんですね。それで、去年かな、富山県営電気が80年というのでちょっと呼ばれたんですけども、それは行って講演しただけだったんで調べなかったけども、そういう主要な公営電気があったところを追っ掛けると、自治体レベルに相当残っている可能性があります。しかも、この復元運動がさっきの国家管理継続派なんかの中心人物が国会で質問したりする時に関係するケースがものすごく多いわけなんで、政治史をやる上では、実はここから攻めていくのが1つのおもしろいポイントかなと思うんです。

季武 これは宮崎にあるんですね。宮崎が戦前県営電気をやってて、電力国管の恨みがあって、戦後復元運動して、最後は宮崎が県でお金を出して運動を維持してやっている感じで、裁判もやってますよね。ずいぶん史料がありましたね。

橘川 だから、これは割とほぼ確実にものになる研究テーマだと思います。経済史と政治史の関わりをやると。宮崎がいちばん大きいぐらいですね。

季武 富山と一緒に最後までやっているんですね。佐藤栄作日記じゃないですけど、最後、佐藤に「もういい加減にしろ」と言われてやめていく感じなんですけども。

橘川 北陸あたりは非常に微妙で、再編成の過程でも、国家管理の時にも、何度も関西に呑み込まれるという話があって、民間の電力会社と公営の電力会社が共闘するんですね。共闘するんだけども、この復元問題では利害が対立するという、組むところと闘うところが微妙に絡まりあってね。

伊藤 電力問題というのは、戦前からずっと政治の問題と密着して絡んで、いっぱい問題が起こってますよね。そういう意味でいうと、松永さんというのは1つのキーパーソンだから。電力問題だけじゃもちろんないですけどね。

橘川 公営電気は非常に儲かっていたんですね。財源として重要だったんです。富山県庁は公営電気のお金で建ったと言われてます。

伊藤 だいたい電気局というのがやってますよね。それはまた知り合いとか、そういうものと。

橘川 やっているケースが多いです。特に電力は儲かってたみたいですね。

伊藤 秋田なんかの場合だと、電力会社はよその県の電力会社で、ほかの県に比べると電気料金がちょっと高いんです。それで、企業誘致ができないというので、かなり大騒ぎになって、いろいろやってますけどね。

橘川 あとは知っている限りの情報を言いますと、電産は私の社研のところにもだいぶ調査があるんですが、それはアクセスは割と簡単です。これは行ったことはないんですが、電産というのは実はなくなったわけではなくて、もしかすると現在もあるのかな。ずっと生き残ったんですね。どこで生き残ったかというと、広島で生き残ったんですよ。中国地方で。

伊藤 電産はあるんですか。

橘川 ええ、中国電力のなかに全国の電産みたいなものが残って、非常に少人数でずっと残り続けていた。それで、ここに史料がある可能性があると。

伊藤 しかし、電産の史料は電力中央研究所に行ったんじゃないかな。

橘川 メインはそうなんです。東京にあるんですけど、そこをまだみてないもので、それが気になっているところなんです。電産は賃金体系の話とか、退職金の話はかなりやられているんですけども、再編成絡みでは実はほとんどやられてません。あとで最後に言おうと思っていたんですけど、日本でも一応社会党政権とか、社会党・民主党連立政権とかができたわけで、石炭は国営化、国家管理になるわけです。電力はなぜそうならないのかなとか、あるいはすでに国家管理だったわけだから、それを維持するというほうにならないのかなというあたりが、真面目に考えてみるとおもしろいテーマですね。国際比較すると、主としてヨーロッパでまったくこれと逆なんですね。この時期に国営化するわけです。イギリス、フランス、それから、イタリアも国営化を強化します。ドイツは公営ですけども。アメリカだけは違うわけですけれども、アメリカのTVAをちょっと日本の電力国管もなぞったところもあるみたいだけど、アメリカはちょっと違いますが、ヨーロッパとの関係でいくと、日本だけが非常に逆の道を行ったと思うんです。ということをヨーロッパで言ったら、「いや、ベルギーもそうだ」とベルギーの人に言われたことがあるんですけれども、幾つか違う国があるのかもしれないですけれども、それは今日の自由化にもすごく関わっていて、ヨーロッパでよくエネルギー産業の自由化という時に多くの場合は民営化なんです。プリバタイゼーションの話とリベライゼーションの話が混ざっちゃってまして、それは一緒に行われるケースと行われないケースでだいぶ違うんです。というのは、いちばん大きな違いは、民営の事業体になってますと、リベライゼーションの補償の問題があるわけです。たとえば発送配電とか、分割とか、あるいは一部財産を召し上げちゃうとか、これが非常にコストがかかるんです。カリフォルニアでもそれが実は1つの大きなポイントになった。それに対して、プリバタイゼーションだとそれが一挙にできちゃうというようなところがあって、リベライゼーションとプリバタイゼーションというのは重なって行われるか行われないかで、実はリベライゼーションの効果も違うような話にもつながりそうな話なんです。電力はなぜここで国家管理が継続しなかったのか。電力産業史としても、あるいはエネルギー産業史としても、いま言ったような問題が残ってますし、事実上言っちゃいましたけど、完全にやってないのが政治史、特に自由党が松永も担ぎ出すわけだし、吉田もあるところからは非常に政治生命を賭けてこれをやろうとする。だけど、非常に強い抵抗にあう。それがやがてたぶん保守合同なんかにもつながるような話があるのかもしれないし、まったくそこのところは私は解明してない。これは最終的には電気事業再編成の政治史をやるということで、公営の話や組合の話を取り込んだもう1つの大きな絵が描けるんじゃないかなというふうに、とても私にはできないことですが、思うんです。

伊藤 さっきちらっと安本の話が出ましたけども、やはり占領下で経済政策の場合、安本のウエイトというのはあったんじゃないか。つまり、安本はGHQの出先みたいな感じですから、その安本と通産の関係と言いますか。

橘川 ちょろっと出てくる史料だと、通産が本格的に1947年の後半に検討した時に、スタッフからいくと、商工省と安本から半々ぐらい6、7人ずつぐらい来ているんです。で、すりあわせをしてますから、十分連携していた可能性は考えられます。もう1つ、やっぱり決定的に大きいのはこれが実行される上で、いくらやっても再編成案が国会でまとまらない時に、2段階でGHQは考えるんです。第一段階は見返り資金を止める。これが安本なんかと非常につながっていたわけです。見返り資金を止めておいて、締め上げておいて、それで、さらにだめだったのでポツダム政令というストーリーになってますから、安本の史料は企画庁に行って、一応それも見たんですが、私が見た限りだとあんまり再編成プロパーでは見つけられなかった。但し、いま言った電力にお金を供給するほうのデータはべらぼうにありますから、それとのすりあわせということの可能性はまだまだあるんじゃないか。

伊藤 安本の史料はいまでも見られますか。

橘川 あれはどうなっているんですか。

武田 経済学部にある。

橘川 東大の経済学部にあるんじゃないですか。だいたいああいうところに入っちゃうと、かえってみんなが安心しちゃって見なくなっちゃう。

伊藤 漁師が獲物を狙っていく、そのスリルがないですからね(笑)。あとは仕事になっちゃうから。

武田 経済学部にある安本の史料は、日本経済評論社から出たのよりもさらに大きい。

橘川 と思います。

伊藤 全部出すということはないでしょう。相当な分量だと中村先生は言ってたから。あれも、紙が劣化して危ない状態のままであったというようなことを中村先生は言っておられました。

橘川 折角の機会ですから、ちょっと関係ないんですけど、石油について言いますと、誰かに続きをやっていただきたいんですが、こういうデータがあるんです。戦前の1934年に石油業法ができまして、その石油業法というのがおもしろくて、外油を締め上げるためにやったということになっているわけですが、実際は、日本政府は非常に難しい問題に立ち入りまして、34年の時点で外油に出ていかれちゃうとまったく石油の確保が成り立たないわけです。戦略物資だから、石油を輸入はしたい。外油を怒らせてはいけない。だけれども、なるべく国内のシェアを高めたいというような難しい舵とりをずっとやっていて、それに対して、外国の石油会社が本国にいろいろ文書を送りまして、どういう交渉をしたかという記録がアメリカに関しては国務省文書という形で残っているんです。国務省文書は通例のナショナル・アーカイブズにアクセスするやり方で、これは大変ですけど、まあ、見られないことはないと。ちょっと私も使ったんですが、少なくとも満州についてはたくさんあるんですけども、まったく使っていません。国務省文書で1930年代半ばの満州と引きますと、ほとんど石油関係の話が出てきますので、これなんかは本当にパブリックにオープンされているにも関わらず、研究領域として完全に抜けているところだと思います。それがアメリカで、一方、シェルなんですけども、ロイヤルダッチシェルは完全にオープンではないんですが、ロンドンのほうの本社のアーカイブズのところで、最後に行ったのも7、8年前なんですが、それまでは手紙を丁寧に書くと見せてくれました。それで、1930年代のライジングサン(ロイヤル・ダッチ・シェル・グループに所属する日本法人の石油会社)ですけど、日本との交換電報、交換の書類、あらゆる文書が全部残ってます。たぶんフォルダーで50フォルダーぐらいです。中国との比較とかをやってて、なかなかおもしろいんですけども、私は部分的に使ったんですけども、あることはわかってて、結局使い切れてない。ただ、1つ難点があって、いまは変わったかもしれないけど、当時は、コピーしちゃいけないというわけです。筆写はオーケーだけど、コピーしちゃいけない。働く部屋はこういう図書室みたいな所で、ここにコピーマシンが置いてあるんですけども、それを使っちゃうと立入り禁止になるんじゃないかと思って、でも、若かったせいもありますけれども、筆写するとだいたいその限りで論文が書けるんです。コピーをとっちゃうとたぶんだめだったと思います。それはまだ半分ぐらいしか使ってない史料でして、そういうものもあります。

あと、もう1つは取り掛かっていて部分的に使っているんですけど、これもたぶん確実に出てくるのが世銀なんですけども、世銀借款の研究者で、日高千景という人がいるんです。この人は鉄鋼借款のことをやってまして、この人が紀要とかに一部書いてます。その人の紹介で世銀に行ったんですが、これも手紙を書くと、個人ベースだと一応世銀借款の経緯の書類を見せてくれます。全世界のがありますから膨大で、日本の電力と鉄鋼がウエイトが大きいので、電力の部分だけをコピーしてきたりしました。これはコピーはしてくれたりしますので、世銀借款も追っ掛ければものになるし、ほとんどまだ使われてない。ワシントン輸出入銀行のほうはまだいまのところ発掘してないです。それから、電力会社サイドからいくと、世銀借款に対して、必ず年次報告を出しているのを取ってあるんですね。これはなかなか見せてくれないんですけども、あることは間違いない。だから、それをすりあわせますと、世銀借款がどういうメカニズムで動いていて、たぶんいまの金融機関によるモニタリングとか、世界的な金融機関によるモニタリングなんていう問題が高度成長期の日本で同じように起きていたという話がわかるんじゃないか。ざっと関わった大きめな史料で、まだまだ掘れそうなところはそんなところなんですけど、せっかくなので。

伊藤 何か質問はありますか。橘川先生の研究では、松永さんが登場人物で出てくるんですが、その周辺の人物はどうなんですか。

橘川 私はやっぱり経営史なので、政治家とかはそれほど出てきません。ただ、さっきちょっと言いましたけど、池田勇人あたりがかなりこれに関わっていると思いますし、それから、松永をやっている立場からしていちばん不思議なのは、なぜ一旦電力国家管理で破れて、埼玉、小田原と隠遁していた74歳の人間を引っ張って来ていきなり会長に据えたのか。その据えるまでに既に政治的な意思決定が行われていたはずなので、その過程を解明して欲しいと思います。で、引っ張って来たにも関わらず、そのあとなんであんなに段取りが悪いのかというのも(笑)、それと関わると思います。すごい不思議です。

伊藤 それはやっぱり非常にアクターが多いんですね。

橘川 松永はあといろいろ出てくるんですよね。三菱とシェルの間に入って四日市の払い下げの話とか、エネルギー産業でいうと、戦後の7不思議って、ほかの不思議はなんだかよくわからないですけど、非常に大きな不思議は、出光という戦前は日石の特約店に過ぎなかった会社がなんで徳山の海軍燃料廠の払い下げを受けられたのかというのは、たぶん政治が間に入らないと解けない謎だと思うんですけども、まだその謎の解を聞いてないんですよね。その出光が徳山を持っちゃったために、べらぼうな勢いでシェアを伸ばしたので、戦後の石油業法ができるんです。戦後の石油業法は脇村さんなんかの証言だと、完全に出光対策として出てきた。外資系が事実上賛成しているわけです。松永だけじゃないんですけども、やっぱりエネルギーだと、どこか政治の話を入れないと埋まらない穴がたくさん空いているという印象があります。

武田 私は全然わからないですけど、やっぱり土建屋さんというか、そういうのも引っ掛かって来るわけですよね。それなんかの動きというのはわかるものなんでしょうか。

橘川 それは工事契約書はほとんど残ってますから、やり方によって全部わかるんじゃないかと思います。水力の工事契約書は、少なくともいまでも古い発電所に行くと明治のものが残っていたりするケースさえあります。

伊藤 それは個々の会社ですか。

橘川 発電所が持っているケースが多いです。つまり、補修とかのために、土木はちょっとわからないんですけど、機械に関しては発電所が持っているケースがすごくあります。

伊藤 9電力になった時に、それまでの東邦電力とか、そういうところの会社の史料はどこへ行ったんですか。

橘川 これは基本的には残ってないんですよね。戦争でやられたという話もあるんですけど、再編成がもっと大きかったと思います。それこそ、それは本業なので必死に探して、地方事業史をやる時には、掻き集めたものは集めたんですけども、基本的には残ってないんです。

伊藤 そういうものは継承した会社に残らないものなんですかね。

橘川 まったく法人としては別法人になっていうのもあるんですけども。青焼きのものとか、最低限必要な施設の関係の書類は残るんですけども。

伊藤 電力国管をやった時に、これは統制会社ではないんですか。

橘川 これは基本的には民間会社の装いを凝らしているんです。だから、株主は全部民間なんです。だから、民有なんです。設備出資なんで、東京電燈なら東京電燈が発電所を出資して株券をもらうというような仕組みになっている。それが成功した最大のポイントだったんです。明治から何度も国営論は出ている。野田逓信大臣なんかの頃、特に大正あたりに出るんですけれども、それは全部国費を使うやり方だったんで、国費を使わず民有国営でいくというところに奥村喜和男さんの新機軸があったと。

伊藤 国有化するという場合には、鉄道の国有化なんかがモデルとしてある。

橘川 そうです。鉄道は国有化したわけです。電信はもともと国が持っていたわけです。鉄道国有化は実は重要で、鉄道国有化によって、民間の株主に対してお金が支払われる。そのちょうどタイミングが水力発電部分と重なって、水力発電に投資されるんです。そういうお金の流れからいくと、明治末あたり、日露戦後のところの株式市場にかなり重要なインパクトを与えている。鉄道の株主だった人間にとって、電力は割とカウンターパートとしてはちょうどいい感じだったわけです。長期の指向性を持った投資材料としては。

伊藤 よく話に出る電燈会社が個々の家の契約を競争してとったという話がありますね。あれはやっぱり誇大に言われているわけではなくて、現実にそうなんですか。

橘川 正確にいうと、大口電力なんです。個々の家は、電燈については戦前も割と重複供給に対して厳しくて、電力がメインです。もちろん電燈がなかったわけじゃないんですけども、大口電力については、ある時期は非常にシビアになります。冗談でいうんだけど、どっちが先だっけ。代ゼミが河合塾(名古屋)を攻めて、それで、河合塾が東京に来たというのと、ちょうど同じような感じです(笑)。松永、東邦電力が東京に攻めてきて、本当に1つの工場に2本電柱が並ぶなんていう状況になった時に、今度は東京電力が名古屋に攻めていったりなんかすることが行われてます(笑)。

伊藤 電力戦国史みたいな。

橘川 電力戦というふうに言われて、そういう本も出ているんです。

伊藤 出てますですよね。白柳秀湖とかああいうのが書いている。嘘か本当かわからないようなことがいっぱい書いてありますよね。

橘川 いまはよくわからないんですけど、僕もこのあたりでいろいろ電力会社とエネ庁を回ってると、石油会社の人達の官僚に対する見方と電力会社の官僚に対する見方が全然違うんですよね。やっぱり電力のほうがいまでも相当官僚に対してばかにしている面が強いような気がします。側からみると両方同じようにみえるんだけど、そうじゃない。石油会社はやっぱり根強い官依存がある感じがします。

伊藤 このへんに石油公団がある(笑)。

橘川 石油公団は新生銀行の手前のビルです。富国生命ビルか。

伊藤 ほかにご質問がなければ。

橘川 いろいろ勝手なことを申しまして、できれば、調査の具体的な質問があると。

伊藤 僕はちょっと松永さんの個人文書とか、周辺の松永さんを支えている人達の個人文書というようなものをどのぐらいまで追っ掛けられているのかなと思ったんですが。だって、松永さんがいろいろやる時に手足になった人がいるわけじゃないですか。松永さんがやったシンクタンクみたいなものは一体そのあとどうなったのかなという気もしますし。

橘川 そこは私はちょっとちゃんと調べてないので、たとえば東海道本線の高速化だとか、東京湾の湾岸道路だとか、いろいろ提言しましたので、電力以外のことを調べてないので、それは電中研をあたると何か出てくる可能性はあると思います。

伊藤 電中研もやっぱり一度見る必要がありますね。あれは高橋亀吉も関わったから、高橋亀吉文書のなかには当然あるんですね。それから、さっき話が出た戦前の奥村喜和男だけども、全然史料の話を聞いたことがないんだよね。

小池 奥村さんの遺族を訪ねましたけどね。石川さんというお宅を訪ねましたが、写真しかありませんでした。いまだに年賀状での御挨拶はしているんですけど、史料はなかったですね。

橘川 1つだけ私が知っている話だと、奥村さんというのは決して電力の専門家ではなかったわけですよね。にもかかわらず、電力国家管理案をつくれたという背景にはキーパーソンがいて、出弟次郎(いでだいじろう)です。出は、松永の東邦電力の時のブレーンなんです。それがある時期まで松永と一緒に動いているんですけど、電力統制が進まないのでいらいらして途中で飛び出て、国管派になるんです。彼がたぶん奥村喜和男のブレーンになった。そこがまたおもしろいんですが、国管の時には、松永・出という2人は対峙して論争するわけですけれども、たぶん友情みたいなのが残ってて、戦後、昭和30年代に東邦電力史をつくる時には松永が出に発注するんです。それで、東邦電力史をつくったりする。この人が本当はキーパーソンで、この人が書いたものは雑誌で追っ掛けたことがあるんですけれども、個人的なデータまではまだちょっと見たことがない。

小池 奥村喜和男は、僕が行ったのは20年ぐらい前ですから、まだ奥さんが存命でして、それがあったので見せなかったのかもしれません。ちょうど亡くなりましたから。

伊藤 ないと言った文書がある場合もあるんです。

小池 ある場合もありますね。1人娘さんで、いま石川さんという方がいらっしゃいます。ご主人も御退職されましたから、いまがいい潮かもしれません。いま、さっきのお話のなかで、社会党政権ですから、僕は森戸文書の整理をしているので、見ていたら、商工省電力局起案の文書なんかは少し。

橘川 それは見てないな。

小池 これは閣議文書なんですけどね。量的には多くなかったですね。だいたいが電力供給の労使関係とか、値段の維持という点が中心になりました。全体的には石炭国有化のなかにまぶして史料が入っている感じです。

橘川 炭労と電産の比較なんていうのも、ちゃんとやられてないような気がするんですけどね。

小池 それから、電送の四国の支社の史料は入ってます。あとは僕もあまり詳しく記憶が残ってないんですけど。

橘川 これは知らないですね。

伊藤 石橋文書を全部見てないからわからないけど、あれをそういう目で見たことはないけど、石橋日記にはずいぶんあの問題が出てくるから、石橋のところに来ている書簡とか、書類をちゃんと見直すと少しはあるかもしれないですね。

小池 文書ではないと思います。

武田 芦田の日記にもちょっと出てて、それで、芦田文書もちょっとみたことがあるんですけど、「雑」という項目がありますから、全部詳しく見るとあるかもしれない。

小池 森戸文書をずっと見ている限りでは、電力問題という形で47年にあるぐらいですけれども、政権内で問題になったという感じじゃないですね。

伊藤 きょうの話を伺って、もう少し政治的な側面からアプローチしてみたら、非常におもしろいかもしれないという感触を持ちました。これからもいろいろ史料を蒐集する上でご相談をまたしたいと思いますので、よろしくお願いします。質問がなければ、終わりにしたいと思います。貴重な意見をどうもありがとうございました。

橘川 ありがとうございました。

(終わり)