科学研究費成果報告書「日本近代史料情報機関設立の総括的かつ細目に関する研究」(基盤研究(B)(1)、平成1314年度、代表者伊藤隆、課題番号:13490012

 

17.伊藤 隆氏

いとう・たかし 政策研究大学院大学政策情報研究センター教授

日 時   2003年1月27日

出席者   有馬学 伊藤光一 戸高一成 萩谷宏成 鹿島晶子 奥健太郎 近藤秀行

矢野信幸 濱田太郎 福地惇 長井純市 小宮一夫 浜田英毅 駄場裕司

服部龍二 中見立夫 茶園義男 井上隆治 笹本妙子 千葉功 清水唯一朗

武田知己 赤川博昭 小宮京 東中野多聞 中野目徹 大久保洋子

西藤要子 高橋初恵

 

 

伊藤(隆)  昨年の10月でしたか、史学会の百周年記念の大会がありまして、私はぜひ出ろと言われていたのですけども、私どものオーラルヒストリーの国際シンポジウムとちょうどかち合いまして出られなかったのです。だけど、大会のプログラムに何か書けというので書きました。

どういうことを書いたかといいますと、私は去年70歳になりまして、「これからの仕事は史料と史料情報の収集とオーラルヒストリーに特化する。それ以外の仕事はよほどのことがない限りやらない」という宣言をいたしました。ここのところ、実際にそういう状態になっているわけです。

この前、平成13年2月にここで報告をいたしました。それから2年ちょっと足らずですが、その間にやった仕事について皆さんにご報告して、皆さんのご意見も伺いたいと思っております。

前の回に触れました『鳩山一郎・薫日記』の下巻は、いろいろなことでかなり遅れていまして、しかしたぶん今年中には刊行できるのではないかと思います。これは薫さんのほうの日記でありますけれども、薫さんは身体不自由な一郎にずっとくっついておりまして、それ自体を読んでいると「何時登院」と書いてありまして、「主人が」とかなんとか書いてありませんので、まるで鳩山の日記のような感じであります。ずっと日ソ交渉の時もくっついて歩いていますので、いついつどこでどうやって誰に会ったとかいう話も詳細に記録してありますので、これは意味があるだろうということで薫さんの日記を出すことにいたしました。これは、人名索引のフルネーム化が非常に難航いたしまして、それでちょっと遅れたということもあります。

それから前回にも触れました『矢部貞治関係文書』は、黒澤・矢野・大久保他諸君のお力で目録の1〜3までが刊行されまして、近日中に四ができるということであります。以下、「黒澤・矢野・大久保」と言うのは大変わずらわしいので、「黒澤君ら」と略しますので、あしからず(笑)。

それから「木内信胤関係文書」も同じ諸君の努力で仮目録ができまして、最近ご遺族との間に寄託の覚書が交換されました。ということは、要するに公開されるということです。しかし、これは仮目録ですので、皆さんにお配りするわけにもいかず、ご覧になりたければ政策研究院の黒澤君他にご連絡をいただきたいということであります。

その次は尚友倶楽部関係ですが、『品川弥二郎関係文書』第6巻は近く刊行予定であります。これはたぶん8ぐらいまで続くのだろうと思いますが、6までやっと刊行が終わりました。

やはり同時並行でやっておりました『有馬頼寧日記』は第5巻で完結でありますけれども、1月に刊行して、完成いたしました。これは、全巻すべての人間についての人名索引がついております。フルネーム化できなかったものは姓だけで表記してあります。ですから、たぶん、ご覧になってこれは誰だということにお気づきかもしれません。これも大変なことでありまして、国史で古い方はご存じかと思いますが、山本一生君という古い時期の卒業生がおりまして、この人は元々は会社員なのですが、やめて競馬評論家になりまして、競馬評論家から有馬記念ということで有馬に関心を持って私のところにやってきましたので、これはいいと思ってとっつかまえましてですね(笑)。それで、人名索引づくりもお願いいたしました。この方は非常に熱心な方で、そのうちおそらく皆さんどこかで目にされることと思いますが、有馬頼寧のことを本にすると言っておりますので、非常に面白い本ができるのではないかと思います。その話をしていると長くなりますので、やめます。

続いて、季武氏などの協力を得まして、『児玉秀雄関係文書』を来年か再来年に刊行を始めるということであります。特に、朝鮮総督府の政務総監時代と関東長官の時代の史料は、非常に濃密でした。その前の寺内内閣の書記官長の時代も、非常にたくさんの史料があります。これは皆さん、大変役に立つ史料だろうと思われます。原文書をこれからどうするかというのはまだ考えておりませんけど、おそらくこれも政策研に寄託してもらおうと、今のところ私個人で考えております。これは前にもお話ししましたように、児玉家が絶えることで処理しようということになったものですから、たぶん大丈夫だろうと思っております。

それからジョージ・アキタさんたちと数人のグループで、参加しておられる方がここにいらっしゃいますが、『山県有朋関係文書』の刊行の準備に入っておりまして、第1巻の初校が出ている段階であります。

これもこのまえ触れたことでありますが、尚友倶楽部で預かっておりました樺山愛輔の関係文書。これは佐藤純子さんや黒澤君たちのグループで仮目録ができて、覚書交換をやりまして正式の寄託になりましたので、見ることができるようになりました。樺山の文書は、だいたい通信社関係などが主です。樺山さんの息子さんの話によりますと、例のヨハンセンという吉田のグループに彼は属しているわけで、吉田が憲兵隊にとっ捕まった時に彼も連座いたしました。そのときの関係の史料は憲兵隊に押収されたままで何も残っていないということで、拝見いたしましたらそれはたしかに何もないわけです。

次も前回にお話ししました「桂皋関係文書」ですが、この目録も黒澤君らの努力で最近刊行することができました。これは、ご遺族に送りましたら、たいへん丁重なご挨拶の手紙をいただきまして、「特に目録づくりに努力してくださった皆さんに篤くお礼を申し上げます」という手紙が来ております。

「桂皋関係文書」は、だいたい労務関係です。彼は、主なところでは東京瓦斯の労務担当をやっておりまして、もともとが東大を出て三菱か何かに入って面白くないというので辞めて、協調会へ行ったりして、そのうち労務関係に入っています。そして、最後のほうで末弘さんが委員長の中央労働委員会で中立の労働委員をやったり、神奈川県労働委員会の会長をやったりしておりました。具体的な史料の内容はそれほどのことはないのですが、面白いのは、この人は回想録を書いておりまして、労務担当の時代の回想も非常に詳しいのがあります。当時の東京瓦斯などの労働組合対策あるいは労務対策はいったいどういうものであったかということを非常に詳しく記述しておりますので、それが面白いのだろうと思うのです。

『桂皋談話速記録』は昔、内政史研究会でやったものでありますけれども、復刻を赤川さんのところでやってくださっております。それの第3冊目だと思いますが、これも今年中にはできるのではないかなと思っております。

これも前回触れておりますが、『大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将日誌』の刊行も、申し上げたよりだいぶ遅れてしまったのですが、そう遠からぬうちに刊行されることになろうと思います。これは永江太郎さんとか中山隆志さんたちが大変努力をいたしまして、書き起こしをやりました。

私は軍事史学会の会長を昨年辞めたのですが、軍関係の重要史料の翻刻事業には今後とも携っていくことになっておりまして、これから毎年というわけにもいかないかもしれませんけれども、錦正社が乗り気でありますので、いろいろ少しずつそこから出していく予定です。

前回「近刊」と報告いたしました『石橋湛山日記』は、予定通り平成13年3月にみすず書房から刊行されました。これも、ある程度きちんと人名索引をつけましたので、ご利用しやすいかと思います。『石橋湛山日記』はその後いろんなところで取り上げられまして、みすず書房はだいぶ損をするのではないかなと思って心配しておりましたが、なんとかなったと私は聞いております。

これも前回触れました、黒沢博道さんという社会党・民社党の事務局にいた人の関係文書も、黒澤・矢野君たちの尽力でかなり目録化が進んでおります。

それから前回お話ししたことで、「田川誠一自治大臣日記」。伊藤光一さんと協力しながら少しずつテキストをちゃんと作ろうということで進めております。つい昨日ですけども田川さんに連絡を取りまして、田川さんの横須賀の実家にそのうち行こうということにしたのですが、とりあえず来週、田川さんと桜田会で会って相談しようと思っております。

それから、西川(誠)氏たちとの『木戸孝允関係文書』、「石井光次郎日記」、「郷古潔日記」も少しずつ進んでいます。季武氏とやっている「山県有朋談話筆記」の続、「松本剛吉関係文書」はほとんどデジタル化が終わった段階です。それから「徳富蘇峰書簡集」は、昭和12年、徳富蘇峰が生きている時から自分の出した手紙を収集していたのですね。その時点で筆写した分で200字詰原稿用紙で6,180枚、そのあとも加えると、伊藤博文関係文書のような形で組んで1,600ページになるものです。これをどこかで出してくれないかというので、あちこちに働きかけているのですが、これは採算が合わないだろうということで断られておりまして、この間も静岡新聞社に行って何とかしてくれと言ったのですが、「なんともならん」という話であります(笑)。これはどうしようかと思って、いま悩んでいるところであります。

「沢本頼雄日記」は、さっき言いました軍事史学会で出そうと思って今やっております。「棚橋小虎日記」は全部コピーさせていただきましたが、原本は大原社研に入るということでありまして、実際に入ったかどうか確認しておりません。それから、清水さんが手伝ってくださっております「上原勇作日記」と「上原勇作書簡」ですね。こういうふうなことがそれぞれ進んでいるけれども、まだ形をなしていないということであります。

次は、やはり前回触れました『昭和史の天皇』のテープの件ですが、あのときは法的に非常に曖昧な形でありましたが、読売の法務部と相談いたしまして、読売新聞社から私どもの大学に寄託していただきました。そしてさらに、このグループの中心におりました松崎昭一氏が持っていた『昭和史の天皇』の時の膨大な取材テープを寄託していただくことになりました。

さらに、『昭和史の天皇』のグループがその後、戦後班というのをつくりまして、『戦後教育のあゆみ』『再軍備への軌跡』他、それを含めて4冊の本を作りました。そのテープもあるはずだということで、武田氏と、ついこの間まで読売の文化部長をやっていた乳井昌史さんという方にアプローチをしまして、その人から一部テープも預かったのですけど、残りを全部欲しいということでお話ししておりました。この間、段ボールで三箱送ってきたのですが、中を開けてみましたらテープが入っておらずに、そのときに収集した史料の集積でありました。それ自体も非常に貴重なものだと思いますが、この文書を整理することと、さらにテープを追いかけることをしたいと思っております。段ボールを開けてパッと見ただけですが、ほとんど『戦後教育のあゆみ』の話だと思います。『再軍備への軌跡』や何かも、おそらくどなたかが個人として持っておられるのではないか。

新聞社が今ごろになって法務部を作って何とかかんとか言っていますが、実に整理の悪いところでありまして、取材したものや何かはみんな個人で持っているということで、そのうち散逸して無くなるのがだいたい常でありますので、相当一所懸命追いかけないといけないなと思っております。

なお、中央公論新社と『昭和史の天皇』及び戦後班の4冊を再編集して、テープの中で利用されていないが貴重なものを付録につけて復刻するというプランをつくりまして、いま話し合いをしている最中であります。

その次ですが、『日本近現代人物史料情報辞典』の編纂を考えているということを、前の会のときにお話しいたしました。これは季武氏と組みまして、武田氏が幹事になり、高橋初恵さんが事務担当として鋭意進めてまいりました。多くの皆さんにご協力いただきまして、現在ほとんど400――に到達したと思うのですが――に近い原稿が集まりました。当初の予定は500です。実は先週、吉川弘文館の担当者が決まりまして、打ち合わせの会をやりました。2月いっぱいで、あと100項目のご提出をいただこうということで努力しております。ぜひ今年中に出版に持っていきたいということで、出版社もそう考えていることですので、皆さんのご協力を得たいと思います。この2年間でいちばん大きな仕事はこれで、あとで出てきますが、この関連でまたいろいろ史料収集もやったということであります。

ここからは新たに始まったことであります。第一は「重光文書」の中に「最高戦争指導会議関係書類」があることが分かりました。これを早速、中央公論新社に持ち込みまして、出版してもらうことにいたしました。従来、『敗戦の記録』の中に史料はありますが、議事録がぜんぜんなかったわけです。最高戦争指導会議のものは会議で配布されたペーパーの集積みたいなものでありました。今回のものは重光の立場からではありますけれども、外務省の側の記録だと思います。一応、一問一答も書いてありますので、誰がどういう意見を言ったかということが分かります。そういう意味では、最高戦争指導会議の状況がかなりリアルに分かるものです。

ただ、これだけではちょっと分量が少なくて1冊の本にできないということがありましたので、前回、『重光葵手記』とその続を出す時に、これはちょっと読めないなということで後回しにいたしました「小磯・米内聯立協力内閣」と題するノートがありまして、この読みにくい字を武田君に協力してもらいまして、やっとこすっとこ、まだあちこちに●が残っている状態でありますけれども、一応書き起こしを終わりまして中央公論新社に渡してあります。ただ、中央公論新社が担当者の変更等で作業が大幅に遅れておりまして、この間また相談をいたしまして、早急にこの対策を立てることになっておりますので、今年中はちょっと無理かもしれませんが、来年には刊行できると考えております。

次の史料のとっかかりは、ひとつはオーラルヒストリーであり、ひとつは今度の辞典なのです。オーラルヒストリーというのはどういうことかといいますと、竹本孫一、元民社党の代議士ですが、元はといえば革新官僚のひとりであります。この竹本さんのオーラルの途中で「お話を伺うにあたってちょっと史料を出してください」と申し上げまして、かなり強引に史料をいただいたわけであります。いま住んでおられるところには何もないというので、前に住んでいたところでまだ売れていないマンションがある、「そこに何かあるのではないか」と言ったら、「たしかあそこには物置がある」と言うので行きました。そうしたら物置の中に、果たせるかな、ぎっしりといろいろなものが詰まっておりましたので、それをあずかってきました。

その前に住んでいたところもまだ売れていないで残っているというので、それをつい最近になって向こうに行く人があるというので、行った人に、とにかく紙であるもの、何ということを選別しないで全部段ボールに入れて、私のほうでお渡ししたヤマトの受取人払いの伝票で送ってくださいということで送っていただきました。これも黒澤氏らの努力で、仮目録がほぼできております。これから寄託の覚書交換を行うつもりです。

その次もそうなのですが、扇一登という海軍の方のオーラルをやりました。今年101歳になられる方ですので、ちょっと記憶が危ないところもありますが、日本からドイツに行った潜水艦で、いちばん最後に向こうに到達したものに乗っていた人でありまして、その時の日記とかですね。それから、ドイツの敗戦になってスウェーデンに行くわけですが、その間もずっと日記をつけておりまして、その日記も含むような史料であります。これも黒澤氏や高橋さんに手伝ってもらって、お宅に行って、ちょっと笑われたのですが、よその家の押し入れに首を突っ込んで史料をもらってくるというので、みんなに呆れられたのでした。非常に重要な史料だというわけではありませんけど、いい史料だなと私は思っています。

これも概ね仮目録が黒澤氏らの努力でできていますけれども、現在この史料を使って差波さんが扇氏の談話速記録に補注をつけてくださっているので、もう少ししましたら寄託の覚書交換をやろうと考えております。

私は、だいぶ前ですけど、勝野金政という、共産党に入ってソ連に行って片山潜の秘書みたいな役割をしていた人物で、そのうちスパイと言われて牢にぶち込まれて、だけど初期の頃ですからいちおう刑期を終えて外に出て、自分が憧れていた共産主義とはまったく違うということで日本大使館に逃げ込んで、なんとか無事に日本に帰ってきたという、ほとんど希有な例の人のインタビューをやりました。

そのあとずっと連絡を取っていたのですが、もう亡くなりまして、一昨年の9月に加藤哲郎さんという早稲田の先生あたりが中心になってロシアから名誉回復を受けた、それで生誕百年の会合を開くので協力してくれという要請がありました。それに出席したり私が持っている史料をお貸ししたりしたのですが、ついでに、私がかつてやったインタビューのテープが憲政資料室に寄贈してありますが、それの公開の許可を得ました。

加藤さんたちは非常によくやられたと思うのですけども、共産主義を見限って、その後は日本の参謀本部で対ロシア諜報関係で働いていた人でありますから、「名誉回復とは一体なんだ」ということをスピーチで述べましたら、どうも顰蹙を買って(笑)。「やっぱりあいつの言うことか」ということになったようでありますけど、しかしちょっと変な話だなと私は思っています。「今更ロシアから名誉回復してもらって、いったい何になるのだ。名誉回復なんてしてもらわないほうがいいのではないか」と私は言ったのです。

それから、さっきちょっと触れました黒沢博道氏なのですが、民社協会の持っている旧民社党の史料を寄託してもらおうという話を、COEで一緒にやっている梅崎氏と交渉いたしました。一度はくれそうな感じだったのですが、やっぱり民社協会はそれを持っていないと要するに大義名分がなくなるから、もうちょっと経ってからにしてくれという話であります。

それから、同じく社会党・民社党の活動家で生協運動の中心人物でありました井堀繁雄、そっちのほうでは非常に有名な方なのですが、その方が残した文書が川口に集積されておりまして、これをくださいとお願いしたのですけども、そのグループのほとんどの人が賛成したのですが、一人おばさんが不賛成でありまして、ちょっと待とうということになりました。こういうわけで、民社系のいろんな人の史料を少し得ることができるようになるのではないかなと期待しております。

それからぜんぜん違う話でありますが、ここの中の皆さんにもちょっとご協力いただいたかもしれませんが、「朝日新聞戦前紙面データベース」昭和元年〜9年、そして10年〜20年が、去年の8月ぐらい、もうちょっとあとだったかもしれませんが完成いたしまして、私はいちおう協力者ということで、その設計とか人集めとか宣伝とかに協力をしたわけです。新聞史料は非常に役に立つものだということを痛感いたしました。

さっき触れました鳩山の解説を書くのに、明治・大正は読売があるわけです。読売のデータベースで検索をして鳩山でひっかけて、全部コピーして片端から読んだら、そのものを使うかどうかは別として、非常にヒントになるという意味で非常に役に立ちました。昭和に入ってからは、朝日を使いました。ですから、新聞史料の使い方はいろいろありうると思いますが、有益であることを痛感いたしました。

またぜんぜん話がかわりますが、秋田市史の編纂委員をやっておりまして、その関係で明治期の秋田市長の御代弦(みよ・げん)日記の翻刻をいたしました。この校訂を行いまして、秋田市史叢書の1冊として平成13年の12月に刊行いたしました。

こういう地方の史料は面白いなと思ったのですが、その時期その時期で市長さんとして一体どういうところとアプローチしているのか、どういうことがその時々で問題になっているのか。それから、絶えず上京しているのです。明治の中頃からですから、秋田ですからまだ鉄道がないですね。どうするかといいますと、ひとつは青森まで出て、青森までは歩いたり人力車に乗ったり、馬に乗ったりなのです。そこから今度はいまの東北本線、当時の日本鉄道がありますので、それに乗ってくる。それからもうひとつは、秋田から船に乗って函館へ行って、函館からまた船に乗って青森に来て、青森から列車に乗る。もうひとつは、奥羽山脈を越えて、そこまでは歩きと馬ですね。盛岡あたり、あるいはもうちょっと南のほうに来て乗ると。これはどんどん変わってくる。今度は、奥羽本線が北からできてくるものですから、秋田から乗って青森を通って東京に来る。南線ができると、いよいよ青森から奥羽本線に乗って東京へやってくる。そういう交通手段の変化も非常によく分かって、面白いなと思いました。それは余談ですけれども、それぞれの地方で史料復刻をやることは大事だと思います。

私は、秋田市史の後始末があと3年か4年で終わるものですから、市の文書館を作ろうと。というのは、市役所の文書が全国でも珍しいぐらいよく揃っていることと、市史編纂の過程でその土地の有力者の史料をマイクロでかなり集めたのですけども、それを全部収納して新しいのをつくろうと。ただ、私は箱モノ作りに協力する気はないので、どうやったらお金をかけないで文書館ができるかという構想をこの間、書いて送りましたよ。なかなかいい反応がありました。これも、やがてご報告できるのではないかと思います。

その次はオーラルヒストリーの成果でありまして、天城勲さんという文部次官をやられた方のお宅に武田君とか黒澤君たちと一緒に伺いまして、書籍や文書、29箱お預かりいたしました。現在目録作成中ですが、戦後文部行政の貴重な資料が含まれているというものであります。

8月に、宮崎弘道さんのご遺族から図書及び史料の提供を受けました。これもオーラルヒストリーの関係でありまして、このオーラルヒストリー自体は私も当初参加しましたが、だいたい佐道氏たちが続けまして、その後ご本人が亡くなられて、ご遺族からお申し出があったのです。現在、これも目録作成にかかろうとしている段階です。

その次は9月に、辞典の関係、辞典の関係というのはどういうことかといいますと、松本重治の項も辞典になければいけないなと思いました。高橋さんと相談して、誰に頼んだらいいか分からないものは、その人が深く関係していた団体に頼むというふうにしておりました。たとえば、若松町の政策研究大学院大学の隣に東京女子医大がありますが、吉岡弥生が創設者でありますので、何かあるのではないかとホームページを開いてみましたら資料室があったのです。そこに直接、「辞典で吉岡弥生を取り上げますので、あなた方のところで誰か書いてください」と出しましたらヒットいたしましてですね(笑)。

というのは別にここだけではありませんで、たくさんのところにそれをやりました。そうしたらだいたいヒットして、本当に真面目に対応してくださいまして、すでにほとんど原稿が入っているわけです。

そういうことで、松本重治も国際文化会館に頼もうかと思ったのですが、考えてみたら国際文化会館の理事長は知り合いでありましたので、どうなっていますかとハガキで聞きましたら、「ご長男の方がここで理事をやっておいでですので、ちょっとお会いになったらいかがですか」というので行きました。そうしたら、もうダンボールに4箱か5箱、詰めてありまして、「なんだったらお持ちください」というので、「すみませんが、今日伝票を持ってこなかったので、あとで伝票を送りますからヤマトに渡してくださいませんか」と頼んで送ってもらいました。結局、私が書くことになったのですが、それで私の持ち分が増えるということなのです。それで戴きました。

ただ、戦前のものがほとんどありませんで、戦後のものがほとんどです。松本さんが出していた『民報』という、あの時期の珍しい新聞がだいたい揃ってありました。松本重治さんは戦後すぐはちょっと左翼同調者でありまして、この『民報』という新聞はちょっと左翼がかった、民報社の社員は社長である彼を除いては全部共産党員だったというところです。そのほかに、いろいろ貴重なものが含まれております。これも目下、目録を作っているところであります。

その次に「岩村通俊関係文書」。私は前に『史学雑誌』に紹介したことがあると思いますが、そのときに作りましたマイクロフィルムを憲政資料室に寄附したのですが、それの公開を許してもらいたいというようなこともあり、かつ原本を憲政資料室にいただけませんでしょうかという交渉をいたしました。

実は私、今までいろいろ持っていたもの――私個人として持っていたもの、それからいろんな研究会やなにかとして私が責任者で持っていたものを、先ほど申しましたように私も70歳になりましたので、いつ死ぬか分からん。もうそろそろ、私の家内が僕が死んだ時に困らないように、いろいろ処分をしているわけであります。そのかなりの部分は、国会図書館に寄附いたしました。ところが、寄附された国会図書館は、いったいこれは権利関係はどうなるか、特にマイクロフィルムとかテープですね。そういうことで、「伊藤さん、これはちゃんと後始末してください」というので、僕もそれをやっているわけです。

これもその中のひとつでありまして、ご遺族に来てもらって憲政資料室でいろいろ話し合いをしたのですけども、一族郎党で相談をすると。岩村通俊(長男)・岩村高俊(三男)・林有造(次男)という3人は兄弟でありまして、この兄弟の子孫たちが百何十人か、なんとか会というのを作って機関紙も出しているのです(笑)。そこに諮らないといけないということで、まだ結論が出ていないのではないかと思います。だけど、とにかくそういう形で、岩村通俊のものはだいたい見通しがついたと言っていいだろうと思います。

それからオーラルヒストリーですが、海原治さんは既に冊子を出しているわけですけども、海原ご夫妻にお願いいたしまして、お宅にある史料をお預けいただけることになりました。11月に武田君や黒澤氏らと一緒に行きまして、段ボールで29箱、ただし書籍を含んでおりますが、それを頂いてまいりました。新聞の切り抜きやいろんなもののコピーなどもたくさんあったのですが、あいだに「秘」とか書いた史料もところどころに入っているものですから、バラけさせないようにと箱に詰めて持ってきてあります。これも整理中でございます。

その次もオーラルヒストリー関係なのです。生産性本部のオーラルを梅崎氏がやっていたのですが、大中睦夫さんという方も生産性本部の仕事をしておられてお話を伺っていました。実はこの大中さんは、田川さんの新自由クラブの事務局にもおりまして、さらにそのあと田川さん1人の政党の進歩党の事務局長までやっていたという人物であります。この人が新自由クラブ関係の史料を段ボールで3箱ばかり預けてくださいまして、いま整理しているところです。

それからその次は、憲政資料室との関係とインタビューの両方なのですが、近衛新体制研究のときに私は川崎堅雄さんという方のインタビューをやりました。この方は、いわゆる民主的労働運動の側の人の聞き取りを今やっているのですが、だいたいそういう人たちの理論的な指導者でもあるのです。戦争中は近衛新体制の草の根の運動家といっていいのではないかと思いますが、残された資料を見せてほしいと奥さんにご連絡をいたしましたら、段ボールで3箱、送ってくださいました。戦後の民主的労働運動時代のものがほとんどですけれども、これも目録作成中であります。また、かつて20年ぐらい前にやりましたテープを公開することもご許可を得たのであります。

その川崎さんと同じ頃にインタビューをやりました竪山利忠という方がおります。この方も、戦後は民主的労働運動の側で活躍した方です。竪山利文という連合の会長をやられた方がこの人の弟なのですけども、この人のご遺族と連絡をとりまして、テープ公開の許可を求めて了解を得ました。その際に残された資料が一体どうなったかということをお訊ねしましたら、拓大に寄附したということで、小田村さんといういまの総長に連絡しました。

この小田村さんはオーラルを始めたところでありますが、茗荷谷の図書館を武田氏と一緒に訪問いたしました。一次史料ではないけれど、たしかに竪山氏が持っていたと思われるものを、雑誌ですが、未整理のものの中から見つけました。山崎靖純という経済評論家といいますか、戦中期はかなり有名だった方のあとを引き継いだのが竪山氏でありまして、その関係のものと思われる定期刊行物がかなりたくさん、未整理としてありました。拓大の図書館の方は「未整理で、もしここで必要ないということであれば、あなたのほうに差し上げます」なんていうようなことを言っておりましたので、「喜んで貰います」と言っておきました。

その次はちょっと面白い問題なのですが、さっき申しました101歳の扇さんですが、オーラルヒストリーをやっているときは99歳ぐらいだったのですけど、その方のオーラルをやっているときに、扇さんの息子さんの伸威(のぶたけ)さんという方とその奥さんも同席されておりました。僕は奥さんといろいろお話をしておりましたら、お父さんが公安調査庁の次長であった関之(せき・いたる)という方であるということを聞きまして、扇さんのオーラルヒストリーが終わったらぜひオーラルヒストリーを受けて欲しいと頼んでおいたわけです。どうも了解してくださっていたようでありましたが、一昨年そちらの方が先に九十何歳かで亡くなられてしまいました。それで、「史料を散逸させないようにしておいてほしい」とお願いしておきました。昨年ご連絡して「その史料を見せていただきたい」ということを申しましたら、伸威さん夫妻も一緒に来てくださいまして、佐道氏と史料を保管しておられる藤原明子さんという方を田園調布にお訪ねいたしました。それで史料を見せていただきました。

まだ亡くなられてから1年ぐらいだったものですから書斎がそのまま残っておりました。その書斎に公安調査庁、特に破防法制定過程を示すような膨大な史料が残っておりまして、それ以外にも戦前の経済警察関係の立法に関わっていたようでありまして、その関係の史料も相当大量にございました。且つ日記が残されておりまして、戦後公安調査庁史を作るにはこれは絶対必要だと思う、非常に詳細な日記がありました。その日は運び込むと思わなかったものですから何も持たない手ぶらで行きまして、そこのお宅にありました段ボールを1個借りまして、1箱分だけ政研大に送りまして、来月全部引き取るということで日にちを既に設定してあります。これは非常に貴重な史料だなと思っております。

それから、やっぱりインターネットの時代だなと最近つくづく思うわけですが、鈴木喜三郎の史料のことを私は前にちょっとお話しいたしました。そうしたら、鈴木さんの曾孫で新井夏子さんというアメリカにおられる方が、私どもの研究会の速記録が掲載されているKinsのホームページに、自分のお祖母さんの名前とか曾祖父の名前が出てくるものですから、検索をして、「あなたは鈴木喜三郎の娘のところにアプローチしているけれども、長男のところにあるいはあるのではないか」というので、そのアドレスを教えてくれました。昨日手紙を書きまして、明日その手紙を出すというわけであります。これはあまり期待はできませんが。

そういうことはほかにもありまして、有馬頼寧(よりやす)の側近でありました豊福保次(やすじ)という方の孫からメールで、「私は祖父のことを調べているのだけれども、まだ豊福さんの未亡人が生きている。自分の母親である宮崎まゆ子という人に連絡したらどうか」と言ってきました。一応連絡をしましたけれども、ちょっといまは連絡が途絶えておりますが、まだ昔のところに住んでいるといいますから史料はあるはずでありまして、これはなんとしても手に入れようと思っております。

それからまたオーラルヒストリーのことですが、オーラルヒストリーで有馬元治さんという元労働事務次官をやられた方としばらくお付き合いしたのですが、そのお宅を武田君と一緒に表敬訪問という形で伺いました。いろいろお話をして、「ちょっと書斎を見せてください」とか何とかいろいろ申しまして、結局、将来的に持っておられる文書を預けてくださるという約束をしていただきました。それほどのものはないのではないかとは思いますが。

それから、竹下さんのオーラルヒストリーの時に同席しておられた娘婿の内藤(武宣)さんという方から、竹下派の機関紙であります『創政』『経世』『新経世』という一連の流れのものを拝借いたしまして、全部コピーをとりました。各派閥にいろんな形での機関紙がありますが、こういうのは国会図書館の雑誌室にも入らないものでありますので、なるべくそういうものを少し集めたいと思いまして、これを手がかりにして次々と集めていこうと思っています。

その次は、これもたぶんインターネットで検索したのだと思いますが、私が上塚司という、高橋是清の秘書をやっていた方のインタビューを中村隆英さんとやったことがあるということを、どこに書いたのかちょっと忘れましたが、孫の上塚芳郎さんが検索をされまして、そしてそれが国会図書館にあるらしいということで国会図書館に行ったと。そうしたら、あるけれどもこれはまだ公開の手続きができていない、了解を取って欲しいと言われて、私のところに連絡が来ました。僕は、いい史料を持っていたら出してもらおうと思ったら、実は国会図書館に「上塚司関係文書」という形で寄贈してしまったばかりだという話でありまして、がっかりしたというわけではありませんけど、よかったなあと思っています。

これは中村隆英さんと一緒にやったインタビューですので、コピーしたいというお話でありましたので、中村さんの了解も得てそれはよろしいと。ついでに憲政資料室に公開の許可も得てくれということで、たぶん得てもらったのだと思います。

そういう形で、憲政資料室に私が寄贈したものの後始末を着々と今やっているところであります。死ぬまでには終わるだろうと思っておりますが、まだかなり量がありますので、遺族がなかなか見つからなくても、こういうふうに向こうから飛び込んでくる場合もありますが、必ずしもそうだとは限りませんので、なんとかして調べたいと思っております。

今度はまた辞典の関係でありますけれども、私が「渡辺国武」と「渡辺千冬」について担当しておりますので、それを渡辺武さんにお送りして意見を求めました。かつ、渡辺氏自身の史料『渡辺武日記』は大蔵省の財政史室が編纂して東洋経済から出たものでありますが、これの原本はどうなっているかということを問い合わせました。そうしたら、渡辺氏は老齢のために娘さんの久保寧子さんという方がお返事をくださいまして、いろいろ示唆してくださいました。かつ、武氏のものをご覧にいれましょうということで、とりあえず段ボール1箱をお送りするという回答がありまして、しばらくして送っていただきました。内容は、戦後大蔵省の非常に貴重な史料でありました。

それで早速、村井哲也氏に目録を作成してもらいました。それをお送りして、次をお送りくださるようお願いしましたところ、さらに3箱送ってくださいました。その中には、ちょっと書籍もあるのですが、大蔵関係のものもありました。それから、最初のものの中にもあったのですが、渡辺国武・渡辺千冬関係のものもかなりあります。10通ばかりあったのは第1回目のときでありまして、第2回目のときはもっとある。これは憲政資料室のそれと一緒にしてはどうかと、私はアドバイスしております。

結局、渡辺武氏の辞典の項目をつくりまして、私が書くことになりました。いま下河辺さんの項目と渡辺武さんの項目がありますので、生存者の辞典の項目が2つになりました。

それから、昨年末ギリギリになりまして千葉大の手塚和彰氏が、「伊藤さん、今井武夫の史料があるぞ」というので、今井武夫の息子さんと娘さんに紹介していただきました。一緒に行っていろいろお話をいたしまして、最終的に大学に預けてくださることになりました。暖かくなったら引き取りに行くことになっております。屋根裏の3階に家財道具と一緒にゴタゴタと入っているので、多少労働力が必要であるというお話でございました。

先ほどの関さんのところもそうでありますけれども、関さんのところはお父さんが亡くなられて娘さんが2人で、娘さんの1人が扇さんの息子さんの嫁さんで、もう1人は藤原さんと言うのですけども、その方々も私と同年ぐらいであります。お父さんの家は田園調布の北側にありまして、藤原さんという方は南側にあって、お父さんのところは閉め切っているわけです。これは将来どうするかということが見えない。しかも、将来どうするかといったって――文書や遺品やなにかをどうするかですね――非常に考えにくいと。お父さんが非常に大事にしていたいろんなものといっても、子どもたちにとってはあまり意味が無い。

こういうことを考えてみると、自分たちも老齢になって、たくさんいろんなものを持っている。これを残したら子どもたちに迷惑になるのではないかということをそこの人たちと話していたのですが、私自身も、いまの私の書斎をそのまま残したら子どもたちに大変迷惑になるというので、なんとかしなければいけないと思っておりますが、多くの人たちはそういうことなのですね。

私も、有馬元治さんの家に行って「あなたね、今これは大事にしていますけども、あなたの子どもさんたちにとって、これは何か意味がありますか?」と。「たぶん、これはゴミになって捨てられますよ。それだったら、私のほうに渡したほうがいいじゃないですか」という説得をしております。ほかの方もだいたい似たり寄ったりの話です。「息子が大事にしてくれます」なんていう人は、あまりいません。(一同笑)

その次は、きょうここにおいでの東中野氏が昨年から一所懸命おやりくださっている、中澤佑の関係文書です。政策研究大学院大学の寄託がほぼ固まりまして、来月に覚書交換と一緒に搬入する手筈になっています。これは東中野氏が東京大学日本史学研究室紀要に詳しい紹介を書いておられますが、相当な分量のもののようですね。

東中野  そんなに多くはないと思いますが。

伊藤(隆)  いえいえ、かなり多いですね。そういう予定になっております。

最後に、オーラルヒストリーも口述記録といいまして、歴史研究の史料の一種であると私は考えております。文書史料だって、みなさん歴史研究をやっておられる場合には、史料批判が非常に大事だと。その史料批判のやり方は、口述史料の場合は二次史料でありまして、自伝やなにかとある意味では通じているところもあります。だけど、残されている自伝は非常に役に立つわけです。渋沢栄一の自伝や高橋是清の自伝など、非常にいいものがたくさん残っています。そういうことを考えると、オーラルをやらなければそのままですけど、その人に自叙伝を書かせるお手伝いをしているようなものだと思います。

  私も先ほど申しましたように、これからの仕事のひとつとしてオーラルヒストリーをどんどんやっていこうということで、2年間にかなりやりました。最後に時間があったら計算してみようと思ったのですが、かなりの回数をやっています。最初の天城さんで12回、その次の福本さんで9回、木田さんで14回というふうに足していきますと、100は越すのではないかなと思いますが、ちょっと時間がなかったもので数を数えきれなかったのです。(高橋さんによれば、171回とのことです)

木田さんは元文部事務次官。扇さんは、さっきお話ししました。

海部さんは元総理ですけれども、20回やってまだ進行中でありまして、まだ総理になっておりません。いったいいつになったら終わるかなと、ちょっと心配しております。

松永さんは駐米大使をおやりになった方ですけど、21回やって尚進行中でありましても、これもいつになったら終わるか分からない。

松野頼三さんは、いま冊子化を武田氏あたりが中心になって進めてくれていますが、これは抱腹絶倒の物語です。

伊藤圭一さんは国防会議の事務局長で、海原さんのあとですね。

天池さんは総同盟系の中心人物でありまして、ちゃんとした本になりました。

宮崎勇さんは、僕はあまり多忙で途中で抜けましたが、非常に興味深いお話で後髪をひかれる思いでした。

柳谷謙介さんは外務次官をおやりになった。これも進行中でありまして、柳谷さんは日記をお持ちでありまして、「いやあ、日記を読み返してみると、すっかり忘れていたことがありありと思い出せる」と。「もっとも日記を読んでも思い出せないこともある」ということでありまして(笑)、その日記をもとにしてお話しくださっているものですから非常に面白いのですが、いつ終わるとは言えないという感じになりました。

宇佐美忠信さんは労働関係でありますが、もう終了いたしまして、本になる。

宝樹文彦さんは総評の事務局長をやった方ですが、昔、内政史研究会でいっぺんやったのです。そのお話が終わった時は、これで労働界から一切引き揚げて、もう何を言ってもいいとかいって言いたい放題言っていたのです。だけどその後、労働戦線の統一に乗り出して、ちょっとまずいからやめるということで突然やめになったのです。また今度の機会にやって下さいと言ったら、じゃあやろうということになりまして、今度は本当にもう終わりですから言いたい放題言って、ちょっと大丈夫かしらなんて思うような危なさでありますが、もうなんでも話してくれています。

それから吉本さん・太田さんは、太田さんは前の沖縄知事で、吉本さんは副知事でありました。いずれも革新系でありまして、私はどちらかといいますと革新系ではございませんのでなかなか辛いところがあったのですが、しかし意気投合いたしまして(笑)、よく話してくれました。吉本さんは実力者でありまして、吉本さんのほうがずっと話が面白くて、琉球新報社から本にしようということになっています。太田さんのほうは、私どもの冊子で出すという感じであります。

その次の金杉秀信さんは進行中ですけども、労働運動の指導者でありまして、先ほどの川崎さんとか竪山さんという人たちの直系といってもいいのでしょう。佐野・鍋山と言ったような人たちとも関わりのある人であります。

夏目晴雄さんは防衛事務次官をおやりになった方で、いま進行中。

それから大賀良平さんは、海上幕僚長をおやりになった方です。

藤波孝生さんは皆さんご承知の中曽根内閣の官房長官で、リクルート事件でもうすぐ執行猶予が終わるだろうということです。

小田村四郎さんはいま拓大の総長ですけども、元は大蔵官僚で、防衛庁にもしばしば出向して防衛問題でもいろいろおやりになった方でありますし、最後は行管の事務次官で拓大の総長という方であります。

こうやってやってきまして、実際に進行しているのとブック化を準備するのとで重複しまして、なかなか大変なことになっています。70歳の老人のやることではないなと思いながら、また広げてやっているわけであります。

公開については、こうやって冊子化を準備したり、もうすでに冊子化できたりということでありますけども、ずっと前にやった奥野誠亮さんのオーラルがPHPから昨年、出版されました。PHPの人と相談して、タイトルを『派に頼らず、義を忘れず』というなかなかかっこいいタイトルにいたしました。奥野さんにちょっと経済的にも援助してもらいまして、やっと本になったということであります。ご本人は満足しておられるのかどうか、ちょっと分かりませんが、「おまえにすべて任せてあるのだから、勝手にやれ」と、自分は関わらないような感じでいますが、それほどでもないだろうと思っております。

こうやってなるべくいろんな人の、ある意味で証言といいますか自叙回想録といいますか、そういうものとして残していく作業を鋭意やろうと思っています。

ただ、これは今の大型の研究費があと2年ですので、そのあとどうやってオーラルをやっていくか。オーラルでいちばんお金がかかるのは、速記代とブック化するときの印刷代です。印刷代は自分たちで裏表印刷をやって簡単な製本をすれば、できないことないのです。でも、速記を自分たちでやるのはなかなか難しい。それだけの費用を稼げればやっていけるのではないかなと思っております。それぐらいは誰か寄附してくれる人がいるのではないか、あるいはどこかの助成金があるのではないかなと思っております。

駆け足でありましたが、この2年間の私の活動報告でございます。何かご質問ございましたら、どうぞ。いろいろ付け加えてくださることもあるのではないですか。

茶園  これだけお仕事なさいますと、暇はぜんぜんないというぐらいお忙しいですね。

伊藤(隆)  まあ、あまり暇はないです。

茶園  大変なことですねえ。

伊藤(隆)  まあ、それで生きているのだからしようがないですよ。茶園さんみたいに、他に楽しみがあるわけではないし(笑)。

茶園  70歳になって今のようなお覚悟ですが、私は77歳になったのですが、やっぱり思い切れないですね。自分の手元から持っているものをなかなか離しにくい。大したものはありませんけども。

伊藤(隆)  オーラルでもそうですけど、やりまして自分でいい話を聞いた時にそれを引用しようと思っても、相手が読んで「これ、おかしいんじゃないの?」と思った時に、公になっていなかったらそれを聞かせてくれということはできないのですよね。ですから、公にしないといけないし、史料もそうだと思うのです。せっかくいい史料で、「これで俺は何か書こう」なんて思って押さえておくのは最悪でして、どうせだったら誰かが書いてくれたほうがいいのですよ。

茶園  その史料になるものが、いかに上手に語ったと思っても、一方的に取り上げられるような感じの場合が時々ありますね。

伊藤(隆)  それはそうですね。

茶園  それがまた残念であるし、そういうことでまた仕事が続いていくことだってあると思います。

伊藤(隆)  史料はいろいろな解釈の可能性があるわけですし、可能性があるだけではなくて、前後や状況をよく見ないで自分の好きなように使うこともしばしば起こっているわけでしょう。それが起こった時にやればいいことであって、そうしたら筆誅を加えたいと思っているわけですけど(笑)、使う分にはどんどん使って、それこそ話題を起こしてくれたほうがよほどいいなと思っています。

茶園  そうですね。まあ大変なお仕事で。

伊藤(隆)  やったら面白いですよ。

小宮(京)  4ページ目にある喜三郎の史料のお話ですが、先生が最初に本を書かれた際に、鈴木というのは重要な人物として扱われているわけですけど、長男の国久さんとはその際に会われたのですか。

伊藤(隆)  手紙を出しましたけど、ご返事いただけなかったと。『昭和初期政治史研究』の時は、とにかくいっぱい出せというので百人からの遺族から御本人から、手紙を片端から出したわけですよ。あとで考えてみますと、返事が来ない時はもういっぺんぐらい出すとか、「ない」という返事が来た時は「ちょっと会いたい」ということをやればよかったのですね。ただ、その時は夢中じゃないですか。最初のことですしね。で、やらなかった。

それであとで分かったことですけども、「ありません」と言ったところに実はあるのですね。それは直接、面と向かって説得しないと、「ある」とはならないのですね。ですから、ちょっと粘り強くやらなければならないなと。

それから、たとえば国会図書館の憲政資料室に史料が入っている、じゃあそれだけだなと思ったら大間違いで、遺族のところにまだ残っていることが多いですね。ですから、今は「底ざらえ」と言っているのですけども、もう一度やる。

樺山資紀の史料はそうなのですよ。国会図書館の憲政資料室に立派なのがあるのです。だけど、遺族に聞いたら「まだ蔵の中にあります」というので出してくださったわけです。

茶園  だいたい遺族の方自身の目で見て選んで、これを見てもらいたいというのが多いでしょう。そのために残るのではありませんかね。そうでもないですか。

伊藤(隆)  そうではないですね。遺族はだいたい分からないですよ。多くの人は分からないです。大事なものなのかどうか分からない、で、見てもらいたいとなるわけです。

茶園  やっぱり関心のある者でないと分からないものがたくさんありますからね。

伊藤(隆)  だいたい親が子どもたちにあまり言っていないのですよ。自分の仕事についてあまり話をしない。だから、子どもたちは分からない。だいたい職業が違う場合が圧倒的に多いですから、さっき言いましたように、ある種ゴミですね。ですから、親の家を潰す時は、壊し屋に渡してしまうわけですよ。その中にある文書だとかいろんなものは壊し屋のものになりますから、クズ屋を呼んできて売るわけ。あるいは持っていってもらう。今は、クズ屋はお金をつけないと持っていかないぐらいですから(笑)、そういう費用も含めて壊し屋は取るわけです。

茶園  だいたい本人が亡くなりますと、骨董屋さんとか古本屋さんが押しかけてバラバラに持っていくという例が徳島にありましてね。ほとんどなくなっているのです。

伊藤(隆)  地方の物持ちはそうですけど、都会に住んでいるちょっとした人は古本屋を呼んで。古本屋も本だけ持っていきますからね。文書なんかはぜんぜん分からない古本屋が多いですから。

茶園  金になりそうなものだけを引き抜いていったりしましてね。

伊藤(隆)  そうですね。

茶園  先生のお話にもあったのではないかと思いますが、私らも少々持っておりました時に、家内は嫌がるのです。古い文書を置いておきますと、「臭い」とかいろんなことを言って。亡くなったら処分しますよ、というような感じなんですね。

伊藤(隆)  まあ、それはそうですよ。

茶園  金を添えてでも引き取ってもらいたいというような感じでいます。息子たちも、あまり寄りつかないですね。

伊藤(隆)  私は、自分では原文書を一切持っていません。

茶園  2年間にこれだけのお仕事というと、本当に……

伊藤(隆)  やっぱり協力してくれる人がいなかったらできないですよ。

茶園  それは当然そうだろうと思いますが、しかしなかなか大変ですね。これだけのことをなさるのは、さすがに立派なものですね。

伊藤(隆)  実際の仕事は、黒澤君とか矢野君とかたくさんの人がやってくれていますよ。

インタビューはだいたい1回2時間なのですけど、人によっては3時間やる人もあります。喋っているほうは3時間でも大丈夫なのですけど、聞いているほうは3時間というのは相当つらいですね。半分聞いて半分質問、次をどう展開するかというのを考えていなければいけませんので、2時間が限界だなと思っているのですけども、夢中になってお話しくださる方は3時間を越す場合もあります。せっかく興に乗っているところを「きょうはここでおしまいです」と言うのは、なかなか難しいのです。

茶園  私のインタビューした中で一番印象に残っているのは、安岡正篤先生ですね。1時間半ほど聞きました。終戦詔勅の裏話です。全部あとでテープを起こしまして印刷にはしているのですけど、あの方は終わり頃は繰り返し繰り返し言うのが多いのです。最後に、奥さんの細木数子さんがテープを録っていて、私のとある程度、重なるのです。それを起こして書いたものが、講談社の雑誌『現代』(昭59.3月号)に載りました。それが私の持っているテープと間違われて、私は先生の秘書からだいぶ怒られましてね。結局、インタビューをやったのは私しかいないので、あるはずがないということだったのです。

ところが、最後の奥さんの細木数子さん、占い師の方が、先生のお亡くなりになる直前ぐらいに喋らせているのです。その話の中に、参内すると天皇が手を握って「ありがとう、ありがとう」と言ったなんていう言葉が出てくるわけです。あれは、総理大臣の鈴木さんがそう言ったのです。それを起こすほうが間違ったということもありました。

伊藤(隆)  「本人が言っているんだから間違いない」と言うのですが、そんなことはないので(笑)、本人が言っていることは、間違いがいっぱいあるのです。自分で言ったことで間違っていることは、たくさんあるのです(笑)。自覚して言っていますので。

茶園  本人が間違わないということはもう絶対にないので、そう思っているだけでしょう。

有馬  さっきの底ざらえの話ではないのですけど、きょう出てきた人の中でも、竹本さんは以前にもインタビューされていますよね。

伊藤(隆)  でも、お元気な時は史料をくれるとは言わないですよ。

有馬  インタビューのほうですが、以前にやったテープが先生単独でされたものを含めてずいぶんたくさんあるのではないかと思います。昔いくつかはチラッと見せていただいたことがありますが、先生が自分で起こされたものもあるし、要約程度の書き方のものもあるし、起こしていないものもありますよね。テープは、あとどういうふうに?

伊藤(隆)  テープは全部、国会図書館に寄附したので、その処理、公開の手続きを今やっているわけです。国会図書館としては、速記録があるのは簡単に公開できるというのですが、テープそのものはどうするかというので、いま考えているみたいですね。

茶園  個々に出版等がなされて、総括してシリーズの形で出るわけではないのですか。

伊藤(隆)  そうではありません。一応商業ベースに多少乗りそうなものは、本屋さんに出してもらう。そうでないものはわれわれが冊子化して、ホームページに出ていますので「どうしてもこういう訳で欲しい」という方にはお分けしています。それがなくなったら、今度はご本人なりご遺族の了解を得てホームページで出してしまおうと思っております。

オーラルの法的な処理も非常に難しいのです。これは結局、インタビュアーと聞かれたご本人との共同著作物ですので、全員の了解がないと公開はできないということでありまして、それの権利関係をきちんと決めていこう、形をつくっていこうというのが、われわれの今の研究グループのひとつの大きな課題なのです。

茶園  では、遺族の方は、喋った方のものを引き継いでいく形で著作権を持つわけですね。

伊藤(隆)  そうです。

茶園  著作権は死後七十年とかになるのですか。そんなことを言っているようですよ。

伊藤(隆)  いや、そんなことは聞いていませんけど。

武田  『昭和史の天皇』のテープは、読売新聞社も入ってくるわけですよね。

伊藤(隆)  そうです。読売新聞社の主張なのですけども、「これはインタビュアーと言ったって新聞記者が業務上やったことであるから、社が著作権を持っているのだ」という理解なのです。『昭和史の天皇』のときのテープは、実際に『昭和史の天皇』に引用している部分がうんと多いわけではないのです。いろんなことを聞いて、その中から選んでいますから。このことを聞こうと思ってそのことだけを聞くというのは、とてもではないけどできないわけです。その周辺のことを向こうは喋りたいですから、喋った中で取るわけです。ですから、あの本に収録されていない証言は、非常に貴重なものもたくさんあるのです。

ただ、これはなかなか厄介でして、カセットテープが壊れているというか、テープガイド(スポンジの部分)が外れてしまうと、ちょっとどうしようもないのですね。これを修理するとだいぶお金がかかるので。

茶園  あの頃はオープン式ですか。

伊藤(隆)  オープンのもあるのですけど、これがまた厄介なのですよ。

武田  古いものだと速度が合わないのですね。それは本当に困っていて、どなたか旧式のものを……。

茶園  あれはテープそのものが若干伸びるのですよ。

武田  そうですね。でも、今まであまり問題はないです。

伊藤(隆)  誰か、昔のオープンリールのテープレコーダーを持っている人がいたら、ちょっと提供してくれませんかね(笑)。

武田  新しいもので買っても、古いものは速度が速くて聞けないのです。どうしようもないです。

茶園  オープン式のものは、始めの頃はテープが紙でしょう。昭和27年ぐらいから出たのですね。

伊藤(隆)  そんな古いのは僕は使っていませんよ(笑)。僕の知識は、オーラルで聞いた知識ですから。東通工と言った時代のソニーの技術者の方のオーラルをやりまして、最初は紙だったという話を聞いているだけで、僕自身は紙のテープは実際に使ったことはないです。

鹿島  これだけの史料をご遺族とか関係者の人から頂いた場合、手際よく、でも的確に整理する術みたいなものはあるのですか。

伊藤(隆)  それは、持ってくるのは僕の仕事ですけど、整理したりしてくれているのは矢野君ですから、矢野君に聞いてください(笑)。

鹿島  頂いてきたものの目録を取りますよね。なにか目録を取るうまい方法はあるのですか。

伊藤(隆)  うまい方法はないのです。あれは、箱があるでしょう。箱に何か意味があるかもしれないから、箱毎にとにかく上からどんどん、どんどん入力していくわけです。で、あとで整理しようと。もしかしたら整理しないでいいかもしれないですから、そのままデータベースとして出してしまえば検索できるようなものを作っておけば、自分で探せるだろうと。すると、番号がついているから、あとはそこから持ってくればいい。

鹿島  その人の文書があった押し入れなり書斎なりから、どの箱にどう詰めようという判断は先生がなさるのですか。

伊藤(隆)  それはその時によるのです。もうめちゃくちゃに入れてくる場合もありますし、もともと段ボールに入っているとか、どこか1ヵ所にまとめてあるとか、そういうのは意味があるのではないかというのでそういうふうにします。

あと、目録の作り方についての規格みたいなのをあまり厳格にやると、ちゃんと整理してから目録をつくらなければだめではないですか。そうではなくて、どんどん入力だけ先にやってしまえということです。それで仮目録を作って、本目録にする時にはちょっと加工するということです。

僕としては、辞典をとにかくなんとか今年中に刊行に持ち込みたいなと思っていますので、皆さんのご協力をぜひお願いしたいと思います。

なお、近現代史の史料は日々出てくるのですね。ですから、これは続編をどうしてもつくらなければならないと考えております。いろいろなところに行ってみますと、思わぬところに思わぬ史料があったり、遺族のところにあったり、その人の関係したいろいろな協会とかそういうところで持っていたりということで、そういう場合はしばしば段ボールに入ったままとかいう場合もあります。そういうものをどんどん、どんどん探していきますと、簡単に100や200は出てくるのです。情報として流れていませんので、研究者は使えない。辞典を作ることと同時に、史料を発掘したり公開したりという作業・運動ともつながっていくと考えておりますので、今度、本を作ることでおしまいではなくて、エンドレスなことになるのではないかなと思っています。

たとえば、中曽根康弘という人ですが、この人はリストアップしていませんね。だけど、いずれこの人の文書をなんとか、と考えざるをえないわけです。私の隣にいる伊藤光一さんは、いろんな史料について知っているわけですよ。なかなか言わないですね(笑)。言うとまた仕事が増えるかも知らんと思ってるみたいでね。そういうのをちゃんと聞き取ってうまく手当をすれば、まだまだ史料はあちこちにいっぱいあるのですね。長野県なんて、いっぱいあるのです(笑)。

伊藤(光) 井出さんのところへ行ってきますから(笑)。

伊藤(隆)  続編に入れられるように、是非お願いします。

伊藤(光)  続編のほうで井出さんはやりますので。

伊藤(隆)  まだそういうものもだいぶあるのです。ですから、今度また『近代日本研究通信』で宣伝をして、こういうものは執筆者が未確定である、それから今まで原稿が出ているもの、原稿依頼中のもの、依頼者の決まっていないものをリストとして掲げて、これ以外の人で史料があるとか、あるいは自分が書きたいという人を募集するということでご協力をいただこうと思って、考えております。

どうもありがとうございました。

(終わり)