科学研究費成果報告書「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」(基盤研究(B)(1)、代表者伊藤隆平成1516年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)より

 

6.武田 知己氏

たけだ・ともき 大東文化大学法学部専任講師

日 時:2004年8月23日

出席者:伊藤隆 服部龍二 季武嘉也 藤枝賢治 有馬学 梶田明宏 伊藤光一 

黒澤良 奥健太郎 矢野信幸 小宮京 岡崎加奈子 清水唯一朗 児玉圭司 

佐道明広 高橋初恵 西谷紀子 岩壁義光 佐藤純子 東中野多聞 河野康子    

塙ひろ子 戸高一成 鹿島晶子

 

 

伊藤 時間ですので始めさせていただきます。きょうは武田知己さんから、重光葵と松村謙三の史料を中心にお話をいただくことになっています。大体一時間半、長くなるようでしたら二時間でも結構ですのでお話ください。それでは、お願いします。

武田 いまご紹介いただきました武田でございます。きょうは私が報告しろということで、この部屋の机の真ん中に初めて座っておりますが、今まではずっと部屋の隅のほうでお話を聞いていたので若干、緊張しております。なぜ私がスピーカーなのかということをいろいろ考えてみますと、きょうレジュメを全部で4枚お配りしておりますが、最初の1ページ、2ページにいくつか名前が書いてあります中で、辞典の項目で私が執筆するはずであるけれども、まだ原稿が出ていないものがいくつかございまして、報告をすれば原稿ができるだろうということだったと思うんです。そこで、きょう報告する前に原稿をいくつか持ってこようと思いましたが、結局間に合いませんで(笑)、この報告を基礎にぜひ書きたいと思っております。

 辞典の項目を離れましても、私は2001年に学位論文を書きまして、2002年に幸い本にさせていただきましたが、それを軸としていくつか史料を見てまいりました。辞典の項目は結局それを軸として、自分が調査してきた、あるいはこれから調査しようとしているものも含めますけれども、そういう史料群の項目になっております。本日ご報告いたしますのは、その中で比較的まとまった成果があがったものとして、重光葵文書のいくつかの追加分がございます。その追加分のお話と、それから、私が研究している上でどうしても知りたいと思っていて結局、学位論文の執筆と本の出版までに手が届かなかった松村謙三の文書、この二つを中心にお話をさせていただくことになります。その他にもいくつかバラバラとお話をさせていただこうと思いますので、もしかするとあまりまとまった報告にならないかもしれませんが、ご質問をいただければ、その過程で少し補っていきたいと思います。

 まず、「別紙」をご覧ください。「未公刊一次史料」と書いてあるところを矢印で囲ってありますが、それが基本的に学位論文で用いた生の史料群になります。ざっと見ていきますと戦前・戦中・戦後、戦後と言っても昭和30年くらいまでですが、この間の関係の方々の史料を使いました。私は学位論文で重光葵の評伝研究をいたしましたが、重光について改めて詳しく説明する必要はないと思います。昭和の戦前期、それから戦時期の外務省の中心人物の一人であって、戦後はパージ、巣鴨を出てすぐに改進党の総裁になって、保守合同期のキーパーソンの一人になります。それで、鳩山内閣においては外務大臣を務めることになりますので、その足跡をずっと追っていくと、戦前・戦時・戦後の、昭和30年くらいまではずっと追わなければならなかったということで、時代的にはバラバラになるような史料を見てきたわけです。

  私の本が出てからもう2年くらい経っておりますが、たくさんの批判をいただきました。そこでよく聞かれるのは、「重光というのはそんなに偉い人物だったんでしょうか?」ということです。「吉田茂よりも偉かったんでしょうか?」というような聞き方をされることもございますし、「東郷茂徳よりも偉かったんでしょうか?」というようなことを聞かれることもあります。また、私はある先生にその本ができてお送りしたときに、「重光について書くことがあったんだね」というふうに言われて、それを自分にとっては褒め言葉だと受け取っておりますが、重光が吉田や東郷といった外交官、あるいは政治家と比較してどちらが偉いかということは、実は私はあまり関心ありません。重光という人間はあまり研究されていなかったことと、実際に外務省の中心人物であったことは間違いないわけですから、そういう人間をきちんと研究することが必要だろうというのが、私のそもそもの研究の出発であったわけです。ただ、実際に本を書く過程ではどうしても、重光の目から見た歴史ということになりますので、あれを読むと、何か重光がその時代の中心であったかのような、そういう印象を持たれた方が多いのかもしれません。私自身は、重光に対してそれなりの思い入れがありますけれども、あまり思い入れを込めないで論文を書いたつもりですし、その他にもいろいろな比較すべき人物にも目配りをしてきたつもりです。その過程で戦前・戦時・戦後といくつかの史料に手を付けたことを、はじめに申し上げておきたいと思います。

  それでは、最初に重光葵の関係文書についてですが、一般に重光の文書というのは、ここにいらっしゃいます伊藤隆先生と伊藤光一先生、それから渡辺行男先生のお力で、憲政記念館に入っていると思われております。それは決して間違いではございません。しかし、その他にも実は、憲政記念館を含めて四つの記念館と申しますか、そういう施設がございまして、それぞれが若干の重光関係の史料を持っております。

 まず、憲政記念館の史料からですが、ここに重光文書の大部分のものが入っていることは間違いございません。この経緯につきましては伊藤先生が、『重光葵手記』の正のほうに書かれております。憲政記念館では冊子目録を出しておりますが、実はその冊子目録に保管されている全ての史料が載っているわけではございません。どういう関係になるのか私はまだ一つ分かっておりませんが、手書きの目録がございます。私はそれを学位論文を提出してから初めて見たのですが、冊子目録に全ての史料が載っているわけではないということは、利用する場合に少し注意をされたほうがいいのではないかと思います。

  主要なものについては、『重光葵手記』の正続に入っておりますが、いくつかその手記に載っていないもので、小池聖一先生や渡辺行男先生がいろいろな雑誌に復刻されたものがございます。実はこの他にも重光の足跡を見る上でたいへん面白い史料がいくつかございます。たとえば、日記を取り上げてみましても、いちばん古いものが1917年の日記で、これは当時、重光がロンドンの日本大使館にいたときの日記だったと思います。その日記の中では、彼はたいへん貧乏だったので、お金もなくて正月にたった一人で餅を食べていると。その中で、将来のある人間というのは、貧乏でもこうやって頑張っていればきっと将来が開けてくるのだと、そのような記述がございまして、彼の若いときの気持ち、心境などを見る上では、たいへん面白いものだと思います。

  それから、ここに服部先生もいらっしゃいますけれども、20年代の日記の中には、重光は関税交渉の中心人物になるわけですが、中国人とのやりとりが書かれたメモというのが残っていると思います。これについては私も見て何とか使おうと思いましたが、先月に伊藤先生と一緒に出させていただいた小磯内閣期の重光のメモ以上に読めないもので、これを上手く解読できたら、きっとそれだけで一つ論文ができるだろうと思いますが、とても私にはその能力がございませんでした。

  それから、1930年代の日記、覚書というのもございまして、この一部は私も自分の本で使いました。1930年代に重光は外務次官になりますが、幹部会をかなり頻繁に開きます。その幹部会の議題をメモしているものがあって、30年代の外務省において幹部達の間でどういうことが問題視されていたのかということを知る上では、それなりに役に立つメモだと思います。ただ、内容については殆ど書かれていなかったと思います。

  書簡に移りますが、書簡についてもたくさんいいものがございます。たとえば、吉田茂からの書簡などは『吉田茂書翰』に殆ど全て収録されておりますけれども、その他、佐藤尚武がソ連大使だったときに外務大臣であった重光宛に送った書簡、東条英機への書簡などもございまして、この書簡もたいへん政治史・外交史上、有益なものがあると思います。主要なものは憲政記念館から出ている目録に報告されておりますので、冊子目録を手に入れれば見られるようになっております。

  重光の文書の中でたいへんいいのは次の書類の部分ですが、たくさんの外交書類を彼は残しています。たとえば、重光の冊子目録の中に、『対ソ外交政策』というタイトルで昭和17年にまとめられた史料が載っています。それは、いわゆる外務省のOBたちが作った会で出された書類でございまして、書陵部の高橋先生が「出淵日記」をまとめられましたが、そこに出てくるOB会の記録だと思います。

 それから、上奏案なども結構残されておりまして、実はこの上奏案は、私が見ていたときには気がつかなかった、つまり、冊子目録以外のところにあった案文です。これは彼が最後の駐英大使として日本に帰国してからヨーロッパ情勢を天皇に上奏したものです。これ以外にいちばん私が追っていたのは、外交意見書というものでございまして、これについては「別紙」で、私が手に入れたものだけをリストアップしてみました。先にこちらのほうを説明させていただきます。

 まず、重光葵が大使時代に本国宛にいくつかの外交公電を送っているということは、私の発見ではございません。いちばん最初にそれで論文をまとめられたのは、田浦先生だと思いますけれども、外交史料館の中にいろいろなところに分かれて入っているというのが、私が研究を始めた頃の状態でございました。それで、この研究会で塩崎弘明先生が、重光の外交公電というのは、実はイギリスにあるという話をしてくださいまして、なぜイギリスにあるのか私は全くそのときは分かりませんでしたが、国際会議に出席するという制度が都立大学にはございまして、98年のことですが、大学院生のときにイギリスに行ってみました。それで、ケンブリッジにあるということだけ聞いておりましたので、実際にケンブリッジ大学に行ってみましたら、Far East Collectionというところに、AOI Pavilionという日本関係の本を基本的に所蔵している部署がありまして、そこに私は飛び込みで顔を出してみたんです。そうしましたら、小山(のぼる)さんという方がたいへん親切に応対してくださいまして、「私はこういうもので重光の史料を探しているのですが……」と言いましたら、「それはいま展示しております」ということで、展示しているものを見せていただきました。それが「別紙」の「▲1937年〜1938年」のところにありますファイルだったんです。

  なぜこのファイルがケンブリッジ大学にあるのか、そのことについてはケンブリッジ大学で司書をしていらっしゃる小山騰さんが書いております。それによりますと、重光は日本からの最後の駐英大使になるわけですが、三国同盟が結ばれ、独ソ開戦が起きて、実は一時帰国という名目で日本に帰ってくるんです。重光の気持ちの上では、もう日英米は開戦する、自分が果たす役割はないということで帰ってくるわけですが、外交的な余韻を残すために一応、一時帰国という名目で帰ってくると。それが6月のことで、その後は上村伸一が代理大使としてずっと頑張っていましたが、日英が開戦すると日本大使館のさまざまな本や品物が接収されて、戦後にそれが売りに出されたわけです。その中で日本の大使館が持っていた英字新聞などは非常に重要なものだったようで、フランスのどこかの大学の図書館がそれを買ったそうです。それから、ロンドン大学に目利きの先生がいて、そこにあったさまざまな漢籍を一括して購入したと。それがずっと整理をしないで置いてありまして、小山さんが手を付けてみたら、どうやら原文書があったと。それは黒表紙で、どういう史料であるということは何も書かれていないものなんですね。それをよく見てみると、どうやら重光のものであろうという、そういう経緯でAOI Pavilionに入っていたようです。私はその後、これをマイクロフィルムに撮って自分の論文でも利用しましたが、おそらく駐ソ大使時代の外交公電というのは、これで全てであろうと思います。

 では、駐英大使期のものはどこにいったのか。私はそれをずっと探しておりましたが、この研究会に参加することになって、大分県東国東郡の安岐町にございます山渓偉人館に何度か足を運びました。ここは基本的には遺品が中心ですが、若干の文書が置いてあります。地方の記念館ですから人が常時張りついているということではなくて、誰か希望者があれば鍵を開けて入れてくれるというところでしたが、文書があるというので、「見せてください」とお願いしたんです。そしたら、「いや、文書は見せておりませんので」ということでしたが、「ぜひ見せてください」とお願いして見せていただきましたら、「▲1939年〜1940年」にある『欧州戦争ト東亜』と書いてある冊子が目に入りました。これが、彼が駐英大使期に書いた外交意見書を冊子にまとめたもので、私はこのときに、重光という人間が自分が書いた外交公電(意見書)をちょっとした冊子にまとめていることに初めて気がついたんです。ケンブリッジ・ファイルのほうは、ただ黒表紙に紐で綴じただけのもので一応、保管しているという感じでしたが、こちらはタイプ印刷という形でまとめられたものです。

 この緒言を読みますと、私がいま申し上げたような、彼がイギリスから日本に帰ってくる経緯のことが書いてありまして、まだなおいくつかの史料はロンドンに置いてあるので『欧州戦争ト東亜』に集められた史料で全てではないというふうに書かれております。また、この緒言には、その外交意見書を英語に訳して「英国ノ朝野」の「啓発」に利用するため、『Japan in East AsiaNo.1からNo.3というものを書いたということが書かれております。この『Japan in East Asia』については、私は実は未見でございまして、日本にあるのか、外務省にあるのかどうか、まだ分かりません。

 前に戻りますが、「▲1934年〜1935年」と私は書きましたけれども、この時期に重光は外務次官で、いくつかの講演を行っております。この講演をまとめた冊子もこの山渓偉人館に置いてありまして、それは『東亜政策の建設』というものでした。この冊子をまとめた時期が昭和18年の2月5日になります。ただ、この三つの講演記録は、昭和10年に外務省の調書として一度まとめられているもので、重光は18年から東条改造内閣の外務大臣になりますけれども、そのちょっと前にそれをまとめたという、そういう種類の冊子だと思います。

  次に「▲1942年」のところに移りますが、三つ目の資料が山渓偉人館にありまして、それが『大東亜戦争一年』というものです。これもおそらく昭和18年の初頭に作成されたものだろうと思いますが、これは彼が汪兆銘政権の大使だった時代に書いたもので、四つの意見書が収められているということでした。駐ソ大使のときには重光葵という名前で送るのではなくて、“在ソ一記者”という名前で送っています。また、駐英大使のときには、“在欧一記者”という名前で送っておりますし、『大東亜戦争一年』のときには、“在支一記者”という署名で全て外交公電を送っておりまして、この四つの著者名もそういう形になっております。

 これが山渓偉人館にある重光葵の文書でございまして、実はその外交意見書以外にもたいへん貴重な史料があるのは、重光は東久邇内閣で外務大臣に就任しますが、そのときの執務史料がなぜかファイルであるんですね。「これも見せてください」とお願いしましたが、史料を寄贈している方、あるいは保管している方がなかなか慎重な方なのか、実はまだ手に取って見ていません。ファイル一冊なのでそれほどの量ではありませんが、多分たいへん貴重な史料になるだろうと思います。なぜそれが山渓偉人館という彼の生まれ故郷にあるのかということですが、彼は片足がなくて体が不自由だったので、必ず書生さんを連れていくと。その書生さんについては、やはり地元から連れていくということがあったようで、どうやらその書生さんの方から寄贈された史料のようです。その方が、外務省の公式な記録なので一応、なくさないように置いておくけれども、見せていいものかどうかということを多分、考えていらっしゃるのではないかと私は推測します。そこで、その方にぜひ会わせてくださるようにお願いをしているのですが、まだ返事はなくて、そこまで調査が及んでいないということです

 もうひとつ、大分県杵築市に重光家という見学施設のようなものがございまして、ここは彼が住んでいた家になりますけれども、そこにちょっとした蔵がございまして、その中に彼の蔵書が入っていると言われています。それを見せてくださいと私はここ数年、年に一回この研究会のお金で出張させていただきまして(笑)、頼んでいるのですが、まだこれはちょっと見せられないということなんです。それで、彼の書生をやっていた方の一人で、伊串憲一さんという方がいらっしゃいまして、伊藤光一先生などは多分ご存じだと思いますけれども、その伊串さんに今年の3月にお会いすることができたので聞いてみましたら、そこにあるのは、弟さんの重光(おさむ)という、東亜同文書院の先生をやられていた方ですが、その方の蔵書が殆どで、重光の若いときの蔵書ではないというようなことは聞いています。ただ、実際に入って見てみないと何とも言えないところがございます。

 そこには展示スペースが一応ございまして、重光は旧制杵築中学を首席で卒業するわけですけれども、その卒業式の答辞ですとか、彼のドイツ語の先生だったハーンさんという方からの書簡などが展示されております。それからもうひとつ、私は決して上手だとは思いませんが、重光は実はたいへん歌が好きでございまして、彼が詠んだ歌が屏風に貼ってありました。もう古い屏風なので綺麗ではありませんが、そういうものが置いてあったりします。その歌では、彼は重光葵という名前ではなくて、“藤原重光”というふうに書いているんですね。どうやら彼は藤原氏の子孫であることをたいへん誇りに思っていたようで、これも、珍しい史料かと思います。これについては科研費で出張いたしましたので、ちゃんと報告書に書いております。

 その他、杵築市には“きつき城下町資料館”というのがございまして、ここでも重光が杵築の関係者だということで、重光関係の史料をいくつか復刻しております。特に、重光のお父さんは直愿(なおまさ)さんという漢学者で、その方が書いたいろいろな文書を読み下したりしております。これが三つ目の重光関係文書の所在地です。

そして四番目が重光葵記念館でございます。これは湯河原にございます。重光葵の次男にあたられます重光篤さんがご自分で造られた記念館で、湯河原という場所は、重光が外務次官の時代に堤康次郎から買った別荘がございまして、その別荘を整備して造った記念館でございます。ここには憲政記念館で保管されている史料のいくつかが戻って展示されていますが、まだ憲政記念館に預けていない史料もいくつかございまして、そのひとつが『最高戦争指導会議の議事録』ということです。これは(『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』)3年くらいかかってやったものですが、先月ようやく出まして、矢野さんや鹿島さんにはたいへん御世話になりました。この史料と一緒に重光の関係文書――これは憲政記念館にあるものですけれども、その手記を合わせて一つの本にしたということで、この間、編集者からメールが来て、「上々の滑り出しでございます」ということだったので、たいへんホッとしております。ホッとしているというのは、3年間やきもきさせた重光篤さんに対して顔向けができるということでございます。

 この内容については、話しはじめるとたいへん盛り沢山ですので割愛させていただきますが、実はこの過程で、私は初めて重光篤さんと非常に親しくお付き合いさせていただくようになったんです。これは、私の学位論文が本になったことと、史料を本にするということで、初めていろいろ親しくお話をさせていただく機会を得まして、その過程で「もう少し重光さんのお父様の史料があるのではないでしょうか」という話をしてみたんです。そうしましたら「家にゴミがあります」ということで、「じゃあ、そのゴミを持って来てください」というふうにお願いしましたら、湯河原の記念館に私が行くときにちょうど持ってきてくださいました。重光篤さんはテニスのセミプロでございまして、テニスの大きなタッキーニの長いスポーツバッグにゴソッと持ってきてくださいまして、「これゴミだけど持ってこいというから持ってきました」と。そしたら、実はそこにはたくさんのゴミどころか宝物がございまして、また「別紙」に戻らせていただきますが、ここに書いてある史料の殆どは、重光篤さんがゴミと言って持ってきてくださった史料です。

 先ほど『大東亜戦争一年』のところまで説明いたしましたが、おそらく「二年」、「三年」というのがあるだろうと思っていたんです。そしたら、これは確か伊藤先生と一緒に湯河原の記念館に行ったときのことですが、その辺に無造作にポンと置いてあるんですね。「あっ、これは絶対に外務大臣時代のあれだ」と思って見てみましたら、まさにそうだったんです。それから、重光篤さんが持ってきてくださったバッグいっぱいのさまざまな史料の中にも、表紙が破れたり、半分折れたりしているようなものがたくさんございまして、それがこの「▲1943年」「▲1944年」「▲1945年」「▲1946年」にある史料です。中には『大東亜戦争何年』という形ではまとめられなかったものもありましたので、それも時系列で並べてみました。それで、先回りして言ってしまえば、今発見しているのは『大東亜戦争三年』までございまして、実は四年があるはずなんです。それは、「▲1946年」のところに『米英ト蘇聨』という外交意見書がありますが、それを読んでおりますと、「大東亜戦争四年という冊子に書いたことだが――」という一文がございますので、あることは間違いない。ただ、重光さんもまだ見つけられておりませんし、私も未見でございます。多分これは絶対あると思います。

  「▲1943年」のところに戻りますが、アスタリスクになっているものは、実は大体が演説の原稿です。43年の最初のアスタリクスのところは、世界経済調査会において重光が演説したものでございまして、私はこの研究会に入っていなかったら、世界経済調査会というのが一体何者であるかということは、おそらく分からなかったと思いますが、「この調査会は外務省がすべきことをやってくださっている研究会であって、自分がここで演説するのはたいへんな名誉である」と言う出だしで演説を始めております。ここには出席者の名簿がございまして、当時の財界人がほぼ出席しておりますし、澤田廉三の名前も当然ございます。その他に重光が世界経済調査会で演説したのか、あるいはどういう関係があったのかはよく分かりませんが、少なくとも重光は、この世界経済調査会がどういう活動をしているかということは、よく分かっていただろうということが分かる史料です。

  それから、次から4つくらいのアスタリスクは、全てこれは議会で行った演説史料になります。翼賛政治会総務会においても彼は演説しておりますし、貴族院でもやっていることが分かります。

 それから、御前会議における外務大臣の説明というものもございますが、昭和18年8月というのは、イタリアの政変がおきる時期でございまして、その時期に重光がさまざまなところで啓発活動、啓蒙活動を行っていることが分かります。その他、詳しく一つ一つ話をしていきますとたいへん長くなりますので端折りますが、こういうものを彼は外務大臣を辞めるまでずっと書き続けておりますし、45年、46年のものを見ますと、彼は外務大臣を辞めてからもずっと書いておりまして、そういうものももう少し見つけることができるのではないかと期待しております。

 今度は「()」になりますが、重光篤さんが持ってきてくださった史料の中で、この外交意見書という分類に当てはまらない史料がいくつかあります。ここに私は「(重光本人が書いたものではないと思われるもの)」というふうに書きましたが、これは正確には「書いたものではないと思われるものを含む」ということになろうかと思います。1935年、彼が外務次官だった時代に、いわゆる日中防共協定というものを彼は結ぼうとするわけですが、そのときの重光の試案が外務省の用箋にタイプ印刷されてございます。これがいちばん若い時代のものでございまして、その後は全て戦時期と言いますか、彼が外務大臣になる前後のものになります。

  「▲1942年」には「支那問題ニ関スル資料」「支那問題の現状」というものがございます。これは、いわゆる日華基本条約を改定しようとする前後の史料でございまして、平沼特使が中国に行く前後の時期にあたる史料です。これは雨にやられないように持ってまいりましたのでお回しします。それは汪兆銘政権が、改定してくれ、あるいは自分たちの政権基盤を強化するために大東亜戦争に参戦させてくれと、そのように言ったことは大体分かるわけですが、そのやりとりの過程がわりと分かる史料で、とてもいい史料だと思います。

  「▲1943年」のところにいきます。これは「戦後経済政策大綱」というものでございまして、もうこの時期には、戦後をどうするかということを考えるグループが何人かいたわけです。そこで「■」になっているのは、私が読めなかったわけではございません。墨塗りにされているものです。最初のものは多分、二つ分ではないかと思いますが、次はもしかしたら四つ分かもしれません。私がこれを打ったときには思わなかったことですが、もしかするとこれは、石橋とか清沢とかがやっている研究会の史料なのかもしれません。調べてみないと分かりませんが。これには「決定案」というふうに筆で書かれておりました。

  それから「▲1944年」には、「今後ノ情勢推移ニ鑑ミ戦争指導上七月頃従来ノ施策以外新ニ逐次措置スヘキ重要事項ノ予想」という非常に長いものがありますが、これは外務省のものではございません。参謀本部から来たものでございます。重光が軍側とかなりの接触があったということは、こういう史料からも裏付けられますし、それは最高戦争指導会議の史料にもよく書かれていることです。

 次に「覚」「無題」というものがございますが、これはいずれも、日本の戦争目的をどういうふうに設定し、どういうふうに宣伝するかということを書いたもので、重光が手を入れておりますので多分、重光の下僚が書いたものではないかと思います。この昭和19年6月前後の外務省用箋に書かれた史料は、実は憲政記念館にある史料にも数点ありまして、二つに分かれてしまったものなのだと思います。

 それから、「連絡会議了解」というふうに書かれてある「対支作戦ニ伴フ宣伝要綱」というものもございますし、「帝国ノ戦時経済運用方式ノ検討ト帝国経済国力ノ見透」という大体同じ時期の史料もございました。

 「▲1945年」に入りますが、ひとつは作者が不明ですけれども、「印度支那問題」と題されたものがあって、この内容は、それまでの最高戦争指導会議や閣議、その他のいろいろな経緯を追ったもので、おそらく外務省が作ったものだと思います。この「印度支那問題」については、これも『最高戦争指導会議記録・手記』にかなり詳しく書いてありますので、それとワンセットになるような史料だと思います。

  次のものは、村田省蔵がフィリピン大使を辞めて帰ってきたときに書いた報告書で、これはたいへん貴重な史料かなと思っていたのですが、『村田省蔵追想録』ですか、あれの後ろに全く同じものが載っております。その追想録の原本がいまどこにあるのかちょっと分かりませんが、おそらく村田はそれをいくつか配ったようでございまして、その一つが重光のところにあったということだと思います。

  それで、次の二つが私はたいへん貴重だと思うのですが、まず、「戦争収拾の前提要件に関する覚書」というものです。これは作成者・作成日ともに不明でございますが、中を見ますと、サンフランシスコでいま会議を行っていて、連合国は完全に和平に向かって動きはじめたという一文がございます。ですから、1945年の4月から始まって6月に国連憲章を調印するという、この過程のどこかで多分書かれたものだろうと。あるいは、これは終戦の直前なのかもしれませんが、いずれにせよ20年の4月以降に書かれたものであることは間違いないと思います。内容を読みますと、重光の外交意見書とほぼ同じような情勢認識が述べられているので、もしかしたら作者は重光ではないだろうかと思います。

 次の「今後ノ事態進展ニ関スル豫想」というのは終戦後の予想のことでございまして、外務大臣になる前に彼自身がいろいろなことを考えた記録になろうかと思います。

 こういうものを重光さんの家から持ってきていただきましたが、重光さんのお話では、その他に書簡がいくつか残されているということでございます。私は重光の文書を憲政史料室で見ておりまして、外国人からの書簡が非常に少ないということで篤さんに聞いてみましたら、「あっ、そういうのはたくさんあります」ということでしたので、また見つけたら見せていただけるのではないかと思っております。

 最近、牛村圭さんという人が、重光の巣鴨日記を使って本を書かれまして、その本にも書いてありますが、たいへん彼は英米の友人が多いわけで、特に戦後復帰にあたっては、アメリカではグルーが重光は戦犯ではないという運動を起こしますし、イギリスでは、ハンキー卿がそれを大々的に行うと。また、ピゴットなどもそれと一緒になって、重光の戦犯は間違いであるという運動をしております。実際にピゴットは、鳩山内閣時代に日本にやってきて重光とも会っています。それはある方のオーラルヒストリーでちょっとお話を伺いましたが、彼が海外でどういうふうに評価されていたのかということは、あるいは、どういう人脈があったのかということはまだ充分には分からないわけで、そういうものもぜひ知りたいと思っております。

 これから簡単にいきますが、いくつか追加の史料を見つけていく過程で、重光家のもの、それから近親者のいろいろな非売品のものなどにも接することができました。一つは「重光家家史」というものですが、こういうものはどこの図書館にも当然入っていないようなもので、重光家が昭和61年にまとめた重光家代々の歴史史料です。おそらくこれが重光家を語る上では最も正確なものになるのではないかと思います。それから、重光(ゆたか)さんという方が、『随想 技術の心』というものを書いておりまして、これは非売品ですが、その前半部分で重光葵のお父さんの直愿のことについて、かなり詳しく書いております。

 それから、竹光秀正さんという方は、重光の秘書をやっていた方です。この方の伝記ですが、これは半分口述みたいな、つまり『私の履歴書』的な形で書かれたものです。それを書かれた清原芳治さんという方が大分合同新聞におりまして、この方に研究会の出張のときにお会いしていろいろお話を聞かせていただきましたし、この本も頂戴しました。この本では、戦前・戦時・戦後の重光をそばから見ていた人のいろいろな回想が書かれておりまして、たいへん面白いものだと思いますが、その中の一つとしてたいへん興味深いのは、竹光さんというのは戦後、大分県の県議になるんです。そのときに重光に相談しましたら、「戦後は社会主義になるんだから社会党から出なさい」と言われて、実際にそうするんですね。大分の県政というのもなかなか激しいもののようで、社会党から結局は嫌になって出てしまうのですが、彼が社会党に入ったのは重光のアドバイスがあったからということになります。

 その後、戦後に書生をやられる伊串寛一さんにお会いして、お話を聞くことがありました。鎌倉の材木座にモリソン屋敷というものがあって重光はそこに住むわけですが、その家の隣には、林彦三郎という重光の支援者であった人間が住んでおりました。そこでの伊串さんの基本的な仕事は玄関番でございまして、玄関番だからあまり物事を知らないだろうというのは大間違いで、伊串さんはご自分で簡単な日記のようなものを付けておりましたが、その日記には、重光家に誰が来たのかとういことが克明に記されています。

 その方にいろいろお話を聞きましたら、竹内夏積という人がいるんですね。私は実はこれを調べておりまして、もしご存じの方がいらっしゃったら教えていただきたいのですが、この方宛の重光の書簡がございます。実はこれは大分の古本屋で買ったということでしたが、これもたいへん面白い書簡です。昭和201010日の書簡ですが、そこで重光は竹内に対して、社会党のさまざまな工作についてはたいへん御苦労様でしたと。いま自由党はいろいろ頑張っているし、戦前の自由主義者が復活してくるのはたいへん結構なことだけれども、彼らが本当に頑張れるかどうかは非常に不安であると。ですから、これからも社会党の工作についてはたいへんにご尽力願いたいと、そういう書簡でございました。重光が戦後、改進党に入る過程で、彼には他に、自由党にポスト吉田の一人として入っていく形と、それからもう一つは、岸と一緒に日本再建連盟でやっていく形があって、最終的には改進党の総裁という道を選ぶわけです。改進党というのは、修正資本主義的な政策を取っている政党で、重光がそこを選んだのは、政策論的に整合性があるんだということを私は主張しているわけですが、それを補強する一つの書簡があったということです。

 伊串さんのお話によると、竹内夏積というのは、吉田茂からも書簡をもらっていて、それを自分の知人が持っているとおっしゃっておりました。それでちょっと調べてみましたら、松岡洋右の演説集か何かを編纂している人なんですね。ですから、外務省の関係者なのかもしれないと思っていますが、詳しいことは分かりませんでした。もしご存じであれば、ぜひ教えていただきたいと思います。

 それから、そこに手書きで「牧野義雄」と買い手ありますが、この牧野義雄という人物は、重光の生涯を見る上でたいへん重要な人物です。しかし、政治史的にはあまり重要ではありません。彼は何者かといいますと、実は画家なんです。重光よりも十何歳も年上で、第一次大戦前に彼はロンドンで画家として大成しています。ロンドンの社交界に入れるのは、日本人では牧野義雄一人であって、フーズ・フーに名前が載っているのは、天皇と大使と牧野義雄の三人であるというふうに言われたくらいの人です。重光は最初はドイツに赴任しますが、第一次大戦が起きてしまうのでロンドンに行き、そこで3年間くらい過ごします。そのときに牧野義雄に出会って、その後、本当に密接な関係を築くことになります。どのくらい密接かといいますと、家に住まわせるくらい密接な関係で、彼と重光がなぜこれだけ仲が良かったのかというのは、非常に面白いテーマではありますが、政治史的にはあまり重要なテーマではございません。

 ただ、湯河原の重光葵記念館に行くと、一角に牧野義雄が描いた絵が並んでいるんですね。これは戦後、絵の具がなかった時期に鉛筆で書いたデッサン画で、そこに描かれているのは殆ど重光なんです。なぜそんな絵を描いたのかと申しますと、重光が書いた本としては『昭和の動乱』や『巣鴨日記』が有名ですが、その他にも戦後いくつか本を出す計画があったんですね。その挿絵として牧野義雄に依頼したものだろうという事をある方は言っておられましたが、篤さんはどうかなという考えでした。

 重光の話が随分と長くなってしまいましたが、次に「外交官の史料」のところで少しお話をさせていただきます。最初に「東郷茂徳」と書いてありますが、昭和の戦前期の外交史をやれば、東郷と重光という二人の人間が、非常にライバル関係にあったことは、史料を見るとよく分かります。重光の個人文書を見ても、東郷に対する非常に強い競争心は明らかでございまして、獄中で重光が書いた手記を見ましても、ご承知のように東郷は、海軍が戦争責任から逃げているということで、嶋田繁太郎だったと思いますが、彼が発言したときに随分と壇上から批判するわけです。そういうことは本当に見苦しいというようなことを重光は書いております。

 それで、東郷の史料はぜひ見たいと思いまして、鹿児島に行ってまいりました。鹿児島の東郷茂徳の記念館には、展示されている史料がいくつかございますが、所蔵しているものは、私はそのときは見せてもらえませんでした。ただ、その後、蔵書が主であって多分、史料はないのではないかというふうに教えてもらいました。それであれば、ぜひ遺族にアプローチしたいとかねがね思っているのですが、遺族にアプローチする前に遺族がたいへんなことになっておりますので、現住所も私が調べた限りでは分からないんですね。ワシントンポストの事務所なら分かるんですけれども、ご自宅の住所がちょっと分からないと。ただ、お孫さんの東郷茂彦さんが書かれた『祖父東郷茂徳の生涯』は、『時代と外交』という彼の自伝とは違う記述があるノートを使って書いておりますので、少なくともその史料はあるだろうと。ですから、ご遺族のところに少々残っているのではないかと思います。

 それから、有田八郎と谷正之については、ぜひ調べてみたいと思っていたんですが、なかなか手立てがございません。ただ、有田八郎については、憲政史料室収集文書の中にいくつかの上奏文が入っています。憲政史料室収集文書については、おそらく明治期の方はよく見られているのではないかと思いますが、昭和をやる人にとっても思いがけない史料がありまして、他にも戦後の政党関係の史料がそこに入っていたりします。

 それから、谷正之についてもぜひ調べてみたいと思いますが、どうしてもまだ手についておりません。

 次の天羽英二の文書については、憲政史料室に入っております。私はこれもたくさん見てみましたが、たいへんいい史料で、もっと天羽英二の文書を使われるべきではないかと思います。重光との関係から言っても天羽声明というのはすぐ思い浮かびますが、その後も重光と天羽はたいへん密接な連絡を取っておりますし、天羽は天羽声明で非常に悪名高い人間になりましたが、実は欧米との関係もかなり積極的に構築している人間ですので、たいへん重要な人物だと思います。

 次の二人は親・重光ではなくて、反・重光に分類される人物だと思います。田尻愛義(あきよし)というのは、大東亜省の次官をした人間です。『田尻愛義回想録』というのがございまして、私はこれを自分の本でも使いました。彼はいわゆるチャイナハンドでございまして、重光が汪兆銘政権の大使をやっている時代に、特使で経済工作をしたりするんです。田尻は、重光の中国政策があまり具体的でないということで、たいへん重光に対しては批判的で、彼の史料なども見つけられたらたいへん面白いと思います。

 それから、杉原荒太という人物ですが、彼は反・重光的なのではないかと私は思っているんですが、必ずしもそうとは言えないところがあって、たいへん面白い、若干怪しい人物だと思います。杉原荒太の場合は、戦後の鳩山内閣による日ソ交渉の時代に、重光と本格的に対立する人間です。一説によると杉原荒太が、日ソ交渉をするべきだというふうに鳩山に進言すると、重光はそれに対抗して、杉原荒太は防衛庁長官をかなり短期間で辞めることになります。彼の史料などもたいへん面白いのではないかと思います。彼については、極めて哲学的な短い日記のようなものが中央公論から出されておりまして、それくらいしか私は知りませんが、たいへん重要な人物だと思います。

 次の上田仙太郎という人間ですが、これは憲政史料室に入っております。上田仙太郎という人物が何者かということは、私はこの文書を見るまでは存じませんで、実は佐藤尚武の回想録にちょっと載っていることを見つけました。レジュメに記載されている葦書房というのは福岡の本屋さんで、東京の芦書房とは違います。そこから坂口さんという方が85年に出された伝記がございまして、それを見ますと、ここで使われている文書が多分、そのまま憲政史料室に入ったのだろうと思います。この上田仙太郎文書の素晴らしいところは、外交官からの書簡がたくさん残っていることで、ここに書いてありますように、上田仙太郎は外務省きってのロシア通でございまして、いまで言えばノン・キャリでございます。ただ、重光をはじめ、有田八郎、吉田茂という人間が、「ロシアの情報をありがとう、役に立っております」というような書簡を上田にたくさん送っております。

  この中の重光書簡、それから吉田書簡のめぼしいものだけはザッと読んでみましたが、実はこの上田仙太郎というのは、いわゆる僚友会の文脈にもつながる人間なんですね、いわゆる白鳥系のほうに。それで、重光の上田仙太郎宛書簡の中で、白鳥が次官になるかならないかという、佐藤尚武が外務大臣のときに白鳥次官騒動というのがございますが、そのときに重光が上田宛に「佐藤外相しごく結構に存じ候。白鳥が次官として活躍することも当然と存じ候」というふうに言っているんですね。外交史をやる時には、重光と白鳥、あるいは松岡といった革新系の外交官との関係というのも、実際はどうだったのだろうかという問題がありますが、上田の史料などを見ると、何かそのヒントくらいはあるのかもしれません。この上田仙太郎文書の中で重光の書簡というのはたいへん多くて、重光はソ連大使時代までたくさんのソ連の分析をしているわけですが、そのネタを提供したのが上田になるのではないかと思います。外務省の中には上田の銅像があって、そのときに弔辞を読んでいるのは重光で、たいへん二人の関係は密接だったように思います。

  次の「その他の史料」のところに移ります。「松本忠雄文書」と書きましたが、これは東京都立大学の図書館にある史料です。この文書の概要につきましては、『近現代日本人物史料情報辞典』に書きましたので、詳しくはそちらをご覧ください。この文書は二つに分かれておりまして、一つが蔵書で、もう一つは書類です。私は書類のほうをこの研究会で小池先生に教えていただきまして、都立大学の助手時代に少し整理をしました。そうしましたら、松本文書の書類には、実は外交公電の写しが大量にあるんですね。その他、明治時代の外交文書も若干残っておりますが、私がたいへん驚いたのは、昭和期の公電の写しがたくさん残っていることでした。

 これを簡単な目録にしまして、確かこちらにも一部持ってきたと思いますが、それをやっている過程で、いわゆる松本記録と呼ばれるものの原本も、実はこの文書の中に入っていることに気がついたんです。ただ、その時はもう時間切れでございまして、外交公電の写しだけを目録化して、いわゆる松本記録があることは分かりましたが、それを整理するところまではいかなかったんですね。その松本記録は、昭和10年代の日中関係のものが多くて、須磨弥吉郎情報がたいへん多かったのが印象に残っております。その仮目録はあるのですが、仮目録の中で大雑把に分類されているものを一つ一つじっくり見ていくと、そういう発見がたくさんある文書ではないかと思っております。これは何とか都立大学の助手時代に整理をしたいと思っていたのですが、いろいろな事情でなかなか上手くいかなかったので、まだ引っ掛かっている文書の一つです。

  次に「その他の都立大学の史料」ですが、都立大学はいい史料をたくさん持っております。上原勇作の文書などは、伊藤先生がやられたものでたいへん有名ですが、先生がやられたものに入っていないものもいくつかありまして、確かそういうのも少し、上原さんと伊藤先生がやられたというふうに記憶しております。それから、詳しく全ては言いませんが、高橋是清の文書もございます。これは私が人物情報辞典で少し書きましたが、なぜここにあるのかということは、実はもう経緯があまり分からなくなっておりまして、かつて御厨貴先生とか坂本一登先生が書かれたものや、憲政資料室の方々の協力で少し謎解きはしてみたのですが、完全に謎が解けたわけではございません。おそらく高橋の文書というのは、まだまだ謎のところが多いのではないかと思います。ただ、いままで知られている以上に高橋是清の史料があることは確かだと思いますので、これも引き続き何とかしていきたいと思っております。

  それから、これはまだ辞典の原稿を書いておりませんので、なかなか言いにくいのですが、花房義質の文書もございまして、私はその時代の専門家ではありませんので勉強しながら書いておりますが、たいへんいい史料だと思います。中を見てみますと、田保橋潔さんなどからの学者の書簡があって、おそらく『日鮮関係史の研究』を書かれるときに、花房の史料を使って書かれたのではないかと思います。そういうのをきちんと調べてから原稿を書こうと思っておりまして、こんなに時間がかかってしまいました(笑)。花房の文書というのは、宮内庁の書陵部にもありますし、それから北大のスラブ研究所にも確か少しございます。それだけ分かっていればすぐに原稿が書けるだろうと言われそうですが、一応そういうことでございます。

  それから「石原莞爾文書」とありますが、これは繆斌工作という戦時期の重光の外交を知る上では非常に重要なテーマとの関係でアプローチしました。石原莞爾の文書を追っていくと何かあるのではないだろうかと思って、大久保文彦さんと高橋初恵さんと一緒に山形に行った記憶がございます。結局これは、石原の支持者の東亜連盟関係のさまざまな文書が中心で、私が見つけたいと思っていた史料があったわけではありませんでした。

  それから、戦中期のことでいえば、ちょっと順番がレジュメとは違いますが、『終戦史録』というものを外務省がまとめておりますが、今回まとめた重光の史料の中心は最高戦争指導会議の議事録で、これはいままで外に知られてこなかった史料であると言われておりました。ただ、私はどこかで読んだことがあるという確信がございまして、いろいろ調べてみますと、『終戦史録』にその会議録の一部が復刻されているんですね。それで、伊藤先生と一緒に復刻した中には、ちょうどその回数分がないということです。実は対応関係はまだ不明ですが、この『終戦史録』で集めた文書は一体どこにあるのか、まだ私は考えたこともなかったのですが、少し調査してみたいと思っております。

  戻りまして『昭和史の天皇』です。これについても私はいくつか報告しなければなりませんが、まだまだきちんとした成果が出ておりません。ただ、今年度に入ってつい最近のことですが、『昭和史の天皇』で集めた取材テープのうち、回数が多いものをいくつか何とか出したいと思って仕事を始めております。『昭和史の天皇』の中には、たいへん貴重な方のヒアリングがあります。木戸幸一もそうですし、駐独大使の大島浩もそうですが、ここにあげました杉原荒太のヒアリングもあるんです。こういうものも聞いてみるといい史料になるかもしれません。この『昭和史の天皇』のテープも、何とかしたいと思っております。

  それから「戦後の史料」ですが、私は芦田均の文書も大分見ました。芦田均は重光と外務省の同期で、戦後は一緒に改進党に入ります。それで、芦田は重光を支えるわけですが、途中から重光と芦田の間柄がおかしくなりまして、芦田は重光の批判者になっていきます。この芦田文書は憲政史料室に入っておりますが、戦前期の日記が非公開となっています。そこで問い合わせてみましたところ、これはずっと非公開であるというご返事をいただきました。それで、彼の故郷の福知山市に芦田均の記念館がございまして、私はそこにも調査に行きました。そうしましたら、その記念館からちょっと離れたところに城下町資料館というものが福知山市にもございまして、そこに芦田関係の史料があると教えられて、これも飛び込みで行ってまいりました。そうしましたところ、たいへん歓迎してくださいまして、史料を見せていただきました。これは、芦田均が翼賛選挙を非推薦で戦うわけですが、そのときの選挙事務所の史料がなぜか一式残っているんですね。これはかなり詳しい選挙活動の様子が追える史料で、有馬先生がご本に書かれましたけれども、選挙のパンフレットでハングルが書いてあるものを向こうの人から見せられまして、「どうしてこれはハングルが書いてあるんでしょう?」というような質問を受けたりしました。芦田均の翼賛選挙を見る上では結構、体系的に追えるものです。

  それで、レジュメに書きましたが、翼賛選挙に関しては、政策研究のオーラルヒストリーで、そこにいる清水さんと一緒に、大室政右さんという方にヒアリングをいたしました。この方は、いわゆる国民精神総動員運動の事務局をやっていらっしゃった方で、その後、この翼賛選挙に関係します。大室さんはこの時代の史料をいくつか持っておりまして、翼賛選挙に関する文書もいくつかあって、それは政策研究院のオーラルヒストリープロジェクトのほうから報告書として出ている中に、無理やりコピーをしてその史料をいくつか添付しております。もちろんそれは大室さんの許可を得てのことですが、見られるようになっております。この大室さんの史料はその後、府中市の郷土の森博物館にいま移管されておりまして、この整理も私がしなければいけないことになっております。

  ついでに言いますと、大室さんは戦後、鈴木俊一のときの東京都議の幹事長をやっております。そのときのお話などもたいへん面白いものでしたので、もしご希望の方がいらっしゃったら、ご連絡をいただければ、そのヒアリングの報告書を送らせていただきます。

  次の「村川一郎文書」ですが、村川一郎さんというのは研究者です。この方がたいへん不幸な事故で亡くなられてから、持っていらっしゃった史料が憲政記念館に来ることになりました。これは多分、伊藤光一先生に教えていただいたのだと思いますが、村上先生は政党史をいろいろ研究されていたので、その政党史の関係史料も本などと一緒に憲政記念館に入ったんですね。それを見ますと、保守合同以前のいろいろな党の文書がございまして、これはいい史料だと思って村川さんの奥様にご連絡しましたところ、「この史料は早川崇と宮本吉夫のお二人から貰ったと記憶しております」というご返事をいただきました。それで「これで全部でしょうか?」と聞きましたら、「これで全部です。あとは事故でなくなってしまいました」というお話でございました。その後、本は参議院に移管されましたが、まだ文書は憲政記念館のほうにあると思いますし、目録もございます。

  保守合同以前の政党史料というのは、実は村川一郎文書以外にもたくさんございまして、そこにも書いておりますが、鶴見祐輔の文書の中には、彼は改進党ですので改進党関係の史料がございますし、すでに報告がありました堤の文書の中にもたくさんございます。堤の文書というのは、私が本を書くときに知っていればぜひ見たかった史料ですが、保守合同論者のようでありながら重光を応援し、重光を応援しながら保守合同も進めるという、たいへん面白い存在で、緒方竹虎とのつながりもありますし、重光とのつながりもあると。また、日ソ交渉についてもたくさんのことを知っている人で、たいへんいい史料だと思います。

  また戻りますが、次に「小楠正雄文書」ですけれども、この文書も戦後初期の保守合同期の史料です。もっと端的に言いますと、これは改進党が結成されるときの文書でございまして、伊藤隆先生にいろいろ助けていただいて、財団法人桜田会から小楠さんが持っていた「新党準備関係綴り」というもののコピーを頂戴いたしまして、それも使って学位論文を書きました。この小楠さんという方は、後で申し上げます松村謙三の秘書をやっていた方でございます。また、松村謙三と親しかった竹山祐太郎の秘書もやっていたわけですが、改進党というのはいろいろな勢力が集まった政党ですけれども、改進党を作るときにどうやらその方が事務局をやっていたようで、おそらくその関係で小楠さんのところに残った史料なのだろうと思います。

 この史料を最初に使ったのは、桜田会で『大麻唯男伝』を作ったときの方々で、急逝されました内川先生が、この小楠文書を使ってとてもいい論文を書いておられます。その後、私も含めて何人かがアプローチしたということです。ただ、現物がどこにあるのか分からなくて、コピーしかないという状態なんですね。と同時に、小楠さんのあの文書というのは、桜田会にはもう残っていない、小楠家にも残っていないということなので、松村関係のものとか、あるいは彼は大政翼賛会にも関係するので、そういう史料などもあれば面白いなと思ったのですが、全然残っていないということです。(※筆者注:その後、若干のものを見つけて現在整理中)

  次が「苫米地義三文書」ですが、これは東大の法制史料センターにある文書で、改進党の前身である民主党時代のことを調べるために読んでみたものです。法制史料センターには、原文書はなくてマイクロフィルムだけのものもありますが、これは現物があるものです。彼は農政関係の議員だというふうに考えていいと思いますが、食糧問題、農業問題関係の文書がたいへん多くございますし、サンフランシスコの講和のときの文書も結構残っております。

 「松野鶴平文書」ですが、これは、伊藤先生や有馬先生と息子さんの松野頼三さんのオーラルヒストリーをする過程で出てきたものです。それほど多くはございませんが、吉田茂からの書簡などがございます。これについては、おそらくまた後で伊藤先生から報告があるのではないかと思っておりますので省略いたします。

 次の「宮澤喜一文書」もオーラルヒトスリーの過程で出てきたものでございまして、これも何とかしなければいけないと強く思っています。

 最後の「綾部健太郎文書」ですが、これもやはり重光との関係で関心を持った史料で、重光が衆議院に出るときに地盤を譲るのが綾部健太郎なんですね。綾部の史料については、奥健太郎さんと一緒に遺族を探したりしておりました。そしたら、大分県のきつき城下町資料館に綾部の文書があることを知りまして早速行ってみたんですが、あるのは辞令類であって、いわゆる文書というのは何もない。それで、ご遺族を紹介していただいて問い合わせてみたところ、「マンションを造るときに全部捨ててしまいました」と。それがほんの数年前のことだったそうで、たいへん残念でございます。「末は博士か大臣か」という言葉がありますが、それは綾部のことでございまして、その言葉を作った菊池寛とは大親友でございました。加藤小太郎のところに下宿していたのが綾部健太郎ですから、古い史料もあれば結構面白かったかなというふうに思っております。ただ、終戦のときの海軍政務次官をやっておりまして、米内光政の日記を見たときに、綾部という名前は頻出しております。それくらいしかもう綾部の足跡は追えないのではないかと思っておりましたら、『昭和史の天皇』でやはり綾部健太郎に聞いておりまして、『昭和史の天皇』はやっぱり非常に貴重な史料だと思います。

 この作業をしている過程で、大分県杵築市出身の佐野学の史料が、佐野家から出てきたということを知りました。佐野の獄中の日記などもございます。これはおそらく先哲記念資料館に最終的に入るのではないかと思います。

 次の「松村謙三関係文書」ですが、松村謙三に関心を持ったのは重光の研究をしていたからでございまして、戦後の重光は巣鴨に5年近くおりまして、政界に何の人脈もないときに、松村謙三がかなり積極的に重光を改進党の総裁に推しまして、それで改進党の総裁におさまることになります。と同時に、私は自分の論文で、重光というのは保守二党論者であると。ただ、保守二党論と言うと社会党が残るというイメージがあって、政界に三党鼎峙するというイメージがありますけれども、保守を二つに割って社会党右派をとりこんで二大政党を作るという、そういうふうに重光は考えたと私は論じたわけですが、それとほぼ似たような政界構想を持っていたのが実は松村で、私が論文を書いているときにも、これは松村との関係はどうなんだろうということは、いつも気になっていたわけです。

 それで、これもこの研究会で出張いたしまして、彼の故郷の富山県福光町に松村記念館がございますが、そこに行って調べてまいりました。展示物の中にはたいへんいいものがあって、まさに重光からの書簡などもありました。そういうものについては、科研費の報告書に書いたわけですが、そのときに「ご遺族がいるから会ってきなさい」と言われまして、松村寿(ひさし)さんという方にお会いしてお話を聞いてきました。この方は松村謙三のお孫さんになると思いますが、「木村時夫先生が『松村謙三伝』を書かれるときにいろいろな史料を集めて、それがダンボールに入って福光町の町立図書館に預けてあります」と。「では、それをぜひ見せていただけませんか」と言ったら、それがちょうど2月のことでございまして、「雪が深くて蔵の戸が開けられません」と言われまして、「じゃあ、またご連絡させていただきます」ということでそのときは済んだんです。それが、今年に入りまして桜田会から連絡がありまして、「君が見ようと思っていた松村さんの史料を桜田会に送ってもらうから君が整理しなさい」と。「それはありがとうございます」ということで4月から整理をしております。福光町からダンボールで5箱分ほど送っていただきましたが、この史料は木村先生が伝記を書かれる過程で収集された後、町立図書館の蔵の中にボンと置いてあるという形で、ちゃんと管理・整理されてこなかったんですね。それで、まだ完全には終わっておりませんが、あと一、二回くらいやれば整理が終わるだろうと思っております。実際に整理してみると、これで全部だとは到底思えない史料で、かなり中途半端なものになっておりますから、今後も調査が必要だと思っています。

 まず書簡ですが、大体明治30年代から大正期までは比較的揃っております。これがなぜ揃っているのかということを考えますと、松村はこの時期、福光町の町議、それから県議をやっておりまして、地元にいるわけです。ですから、おそらく福光町の史料には、この時期の書簡が大分揃っているのだろうと思います。その内容を見ますと、中央の政治史だけでは到底分からない地元の人からの書簡がたいへん多いものです。それに対して代議士時代のものは圧倒的に少なくて、いま分かっているところで申しますと、昭和2年が一通、昭和3年が一通、昭和5年が二通、昭和7年が一通で、それも割と地元からの書簡が多いと思います。これについてはおそらく、この頃は東京に出てきておりますから、東京の遺族のところにあるのだろうと思います。ただ、なぜか昭和41年から46年にかけて、つまり、松村が病気になったり、あるいは亡くなられるときに中国の要人から来た書簡が若干ここには含まれておりまして、それは現物なんですね。どういう過程でこの史料が集められて、どういうふうに戻っていったのかというのは、なかなか分からないところがございますが、いずれにせよそれは再調査が必要だろうと思います。

  次に日記ですが、松村謙三の史料を見られることになっていちばん楽しみにしていたのは、彼の日記を読むことでした。これは以前、町田忠治をやられるときに伊藤先生などが存在は確認されていたものですが、実際に私が今回見た日記は、そこに書いてあるような年代のものになります。「(記述なし)」と書いてあるのは、本当に記述がないものです。ちょっと分かりにくいのですが、実はこの殆どが1月からの数週間のみの日記でございまして、それを知って私はたいへん愕然としたわけですけれども、そうなるとおそらく遺族のところには書類があるに違いない、書簡があるに違いないという、そういう前向きな考えでこれから調査しようと思っております。ただ、残された分だけでも結構面白い記述がございまして、そこには、昭和19年の分、22年の分、23年の分、26年の分、それから43年、44年の若干の分というのを書きましたが、昭和19年につきましては、二冊の日記にまたがって書かれています。一冊目の日記に2日分、二冊目の日記に1週間分という、何か不思議な書き方をしている人で、それをつなぎあわせてみたのが、レジュメに記載されていることですが、19年といえば、彼が戦時議会で活躍している時代でございまして、3月11日分、12日分の日記には、翼賛政治会の様子がかなり書かれています。

 その部分を持ってきましたので、少しだけ読んでみます。「翼政総務会、国民運動一元化のために政府翼政、翼賛会の連絡本部を置くとのこと全て時宜に失す」ということで、非常に批判的であることが分かります。それから、この時期に海軍の軍令部の更迭があったようで、「永野前軍令部長の打ち明け話として伝わるものあり」として、その噂話を書いていたり、ちょっと面白い記述が19年3月11日にございました。

 12月の記述になりますと、町田忠治が「病気で大臣を辞めたいのだけれども……」というような相談を松村にするんですね。その話を町田の主治医に相談しに行くと、町田はもう心臓が駄目で余命数年というふうにはいかない。もう危ないので、このまま大臣を続けるか辞めるかは、本人の意向に任せるしかないと。このようなことを聞いて、たいへん愕然とするというような記述があったりいたします。それから、小林躋造から一万円もらって、「調査研究に使いなさい」というような記述があったりいたします。

 それで、私が非常に面白かったのは、1220日の「対ソ外交について」というところです。松村はどうやら対ソ外交については、重光に対してやや批判的なところがあったようで、そのような記述が書かれています。「澤田外務次官の招宴に赴く、翼政会幹部あり。食後、澤田氏より外交に関する詳細な報告あり。そのうち対ソ外交については、小問題を逐次片づけるがごときことよりも、大局に基づき手を打つ方法もありというふうに大臣にも進言せる旨語れり。従来、重光外交は、複雑なる小問題を逐次解決し、大局を好転せしむる方針を取りたることは、しばしば議会等にも述べたることあるが、次官の意見が行われれば対ソ政策の一転換あるべし。逆に言えば、従来の重光外交の方針の行き詰まりを示すものあり」というようなことを述べておりまして、彼の回想録を読むと、重光の外交演説を聞いて松村はたいへん感銘したと言われているけれども、もちろんそれだけではなくて、さまざまな批判があったことも分かると思います。

 それからこの時期に、いわゆる新政治結社、これは大日本政治会――日政のほうにつながっていく動きだと思いますけれども、それについても議論があったことが書かれています。同じ日の日記ですが、「総務会において政治新体制確立の議論起こり、本日、勝田永吉君の国内必勝体制委員会において、その政治結社の組織を可とする意見にほぼ一致す」と。それで「大体、余の総論通りなり」というふうに言っているので、松村がその新政治結社結成についてかなり共感していた、そっちのグループであったことが分かるような記述になっております。

 今度は22年に飛びますが、ゼネストの予想と感想などが述べられている部分がございますし、この頃はもうすでに農林省を辞めているわけですけれども、農林省の役人からさまざまな相談を受けていることが印象的です。それから政局については、幣原との会談の様子が随分出ています。最初に出てくるのは2月9日ですが、22年も一部分しか日記の記述がありませんから、その前からずっと付き合いがあると考えるべきだと思いますけれども、たとえば6月4日には、民主党の党首選で芦田に破れると、その直後に会って幣原をなぐさめるというような記述があります。逆に5月29日には、芦田に招かれて旧進歩党関係者が集まったときに、芦田は最近、党内の内訌で随分いろいろやっているようだから顔つきが悪くなったと、そのような感想を残しております。

  それから、こういう日記を読むといくつか発見があります。2月17日には苫米地義三と会談していて、私は意見が合ったのだろうと、つまり、松村と苫米地は似たような考えを持っていたのだろうと思っていたのですが、苫米地義三に対して割と松村は批判的なんですね。自分で書いた本ではそういうふうには書きませんでしたが、少し訂正の必要もあるかなと思っております。

 それから、23年の日記でたいへん面白いのは、高碕達之助と外交論を行っているところです。この外交論というのは、つまりは日中関係論でございまして、この段階で松村は日中関係にかなり積極的であると。それで、高碕達之助をかなり推すんですね。順序から言うと、まず松村が戦後に日中関係を始めて、その後、高碕と廖承志との間の覚書ができると思いがちですが、この時期に高碕達之助がかなり中国の貿易代表団とつながりがあって、そういう関係で高碕と松村がかなり会っているようでございます。その内容もちょっと長いので省略いたしますが、戦前の高碕の足跡をかなり評価すると。つまり、満州国の情勢を知っているのは高碕であって、君と一緒に満州国にアメリカと日本と朝鮮の三ヵ国で開発をして、反共の防波堤を作ろう、そうすれば中国とソ連は分離するに違いないと。そういうふうなことを高碕達之助と語っているので、これはたいへん面白い記述だと思いました。

 それから、1月27日の日記も面白いと思いますが、幣原にまた会いまして、幣原を中心に健全野党結成をやろうと言っています。私は学位論文に書きましたが、松村というのは割と野党であることが好きで、野党の立場に回ると非常にファイトが出るタイプだと思いますが、ここでは幣原を担いで健全野党を作ろうと。それで、自民党が形成された後は、これは佐藤栄作の日記に書いてありますが、佐藤のところに行って、今度は自民党に参加しなかった吉田・佐藤、それから佐藤のお兄さんの岸を使って、また新党を作ろう、何とか政界再編をしようではないかと、そういうようなことを言う人で、ここでは幣原を中心としてそういう構想を考えていた節が見られるわけです。

  それから、5月30日には吉田茂に呼ばれて会談をしています。そこで「吉田自由党を罵倒す」というふうに書かれてありますが、それは本当に罵倒したのだと思います。

 それから、この時期に『町田忠治伝』を作るわけですが、桜田会に旧民政党関係者が集まって、自分が代表になることになったという記述がございます。その後、宮沢胤男が中心になって、いろいろな打合せなどをするわけです。これは『町田忠治伝』を書いただけではなくて、それによって、いわゆる旧民政党系の人間が会合する口実ができるわけですね。それで「大麻唯男を事務所に訪ねる」などという記述かたくさんありますので、割と重要な記述ではないかと思います。

  26年になりますと、重光との関係で言えば、1月31日に外交官の桑島主計と会談しているときに、「政界再編の際には重光葵氏を担ぎ出すのも一つの手である」ということを記述に残しておりまして、私が日記を見た限り、この時期に初めて重光の名前が戦後の松村関係の史料の中に出てくるということで、たいへん面白い記事だと思いました。

  2月19日のところに「山田」と書いてありますが、これは山田久就さんです。実は山田久就というのは、松村謙三の日記にしょっちゅう出てきます。たいへん親しかったようですし、同時に山田は、反・吉田というか吉田茂に嫌われて、外務省を辞めたかったのに辞められないという事情があった人ですが、その山田久就がパージの情報を持ってきたり、ダレスの来訪があったけれどもどうだったのかと聞いたりする。山田のほうでは、あわよくば松村にお願いして政界に出る相談をしているのが分かりますが、その2月19日のときには、山田にダレスが日本に来たときの情報を聞きたいと言ったけれども、山田は殆ど聾桟敷に置かれているので分からないという、そのようなことが書かれていました。もう少し系統的に日記が残っていれば面白い話が作れるのだろうと思いますが、この程度でございます。

 昭和43年、44年は、正月の1日から7日くらいまでというような感じで、殆ど日記が残っていません。43年、44年の日記を見て思うのは、かなり字が読みにくいんですね。弱々しい字で、もしかしたら体力的な問題もあったのかもしれません。ただ、毎年お正月に三木武夫がご挨拶に来るというのがたいへん面白い記述で、三木武夫本人ではなくて、松浦周太郎と鯨岡兵輔が代わりに来ると。

  もうひとつ決定的に面白いのは、佐藤の三選阻止は44年でしたか。

河野 44年ですね。

武田 その44年に三木武夫が総裁選に出るときに、松村謙三に支援してくれるようにお願いするのですが、政治家には何か経綸のようなものが必要だが、三木武夫君にはそれがないので応援しないと。ただ、佐藤内閣が日本のためにならないという点では意見が一致しているから、それについては意見が一致したことを確認するという、そのような記述がございました。そこで面白いのは、中曽根康弘は激励しているんですね。桜田会の周りの人に聞いてみましたら、松村さんというのは誰でも激励する人だと言うのですが、この中曽根の激励の仕方はちょっと違うのではないかと私は思っています。ただ、これが一回しか出てこないので、あまり推測してもしようがありませんが、そういう記述もございます。

  44年のお正月になりますと、藤山愛一郎が出てきます。藤山愛一郎はこのとき訪米するんですね。それを基礎として今度は日中関係をやろうというときに、松村謙三が藤山愛一郎をたいへん強く推していることがよく分かります。その場所も桜田会で、桜田会に古井喜実と藤山愛一郎を呼んで激励して、帰朝報告を聞いております。

 それから、昭和44年1月15日の記述を読みますと、「東京プリンスホテルにて午後6時より、川崎(秀二)、古井及び小生と三人にて、公明党幹部4名を招き懇談す。これらの諸氏は中国行きの目的を持ちたるにつき、中国へ紹介することを約す」ということで、公明党とのいろいろな橋渡しもしていることが分かります。

 たいへん残念なのは、もう少し日記があればということでございますし、書類のほうも殆どございません。しかし、ないということは有り得ないので、おそらくどこかにあるだろうと思います。ただ、書類ではひとつ面白いものがあります。それは、第二次訪中ですから1962年だろうと思いますが、その前段階で会談をしている、打診している書類があって、おそらく実際に中国に行って会談したのは、宇都宮徳馬ではないかと思うんです。桜田会の人に聞いてみると、宇都宮徳馬と松村謙三との関係はよく分からないと。つまり、そんなに親しくないのではないかというようなことでしたが、“U”という名前で発言があって、もうひとつが“R”で、おそらく時期的には第二次訪中の頃に当てはまるかと思います。そこでは、石橋湛山が日中関係にたいへん積極的であることが書かれてありますし、池田内閣のうちに日中関係を少し進めておかないと、佐藤栄作になったらたいへんだというような発言があったりして、若干面白いものでした。こういうものはもう少しあるのではないかと思いますが、まだ見つかっておりません。

 それから、実際にあるものとしては、大学の講義ノートなどがたいへん多くて、早稲田時代の講義ノートが何冊かございました。また、そのときに提出したレポートがございまして、甲乙丙丁で評価も付いておりまして、「ああ、松村先生もいろいろ頑張っていらっしゃったんだな」ということが分かるような成績でございました(笑)。その中では、彼が西郷さんを非常に敬愛していることが分かったり、日露戦争前後の社会は軽薄で仮面の社会であって、もう少し国民の元気を取り戻さなければいけないというような徳富蘇峰的なことを述べていたり、割と楽しく読める史料でした。

 たいへん長くなりましたが、このようなことをたくさんやっておりまして、報告をしてすっきりするかと思いましたら、残された仕事がたくさんあることに気がついて、すっきりすることはできませんでした。たいへん長くなって申し訳ありません、これで報告を終わらせていただきます。

伊藤 どうもありがとうございました。いよいよ重光の項目もできそうな感じでありますし、松村謙三はもう書いたんですね。それから、苫米地が残っているとか、いろいろ仕事を思い出していただいてありがとうございます。どうぞどこからでもご自由にご質問ください。私は武田君と随分いろいろと話をしておりますが、聞いたこともない話が結構ありまして、いろいろやっているなと感心して聞いておりました。

小宮 二点よろしいですか。堤康次郎のものは確か加藤先生がこちらでお話になられたと思います。あのとき加藤先生は、見られるかどうか分からないとおっしゃっていたと思うんですけれども、いまはどうなっているんでしょうか。

武田 数ヵ月前に緒方竹虎の展示をやって、そのときに聞いたのは、目録はお見せしてもいいというようなお話でしたが、まだ本格的には公開していないのではないでしょうか。どうなんでしょうかね。

小宮 もう一点。綾部の史料がないというのは非常に残念です。共産党関係者の日記などがあることを僕はあまり知らないのですが、佐野学の日記というのは戦前も含まれているんですか。

武田 佐野の日記については、もしかすると大分の先哲記念館でもほやほやの情報なのかもしれませんが、たまたま杵築市で佐野家の資料展というのをやったんですね。佐野家というのは、杵築市では非常に立派なお医者さんとして有名でございまして、そこでおそらく佐野家のほうでドンと預けたと思うんですね。つまり、佐野家の史料で、佐野学の文書だけではないんです。その中には、軸ものとか、絵とか、書とか、そういうのがたくさんあるわけですが、その中に佐野宛の書簡もありますし、佐野学未発表原稿とか、獄中の日記などが若干あると。それで、獄中ですから戦前ですよね、そのときの日記だと思います。これは隠しているものではなくて、まだ整理されていないので見られないというような、もちろん言えば見られるかもしれませんけれども、そういう史料です。

小宮 戦後のものもあるんですか。

武田 目録を見る限りはないですね。

矢野 重光の関係で、大分合同新聞の清原さんがお書きになった竹光秀正の伝記ですが、竹光さん自身はもうお亡くなりになられたんですか。

武田 亡くなられました。

矢野 その竹光さん自身の史料というのは、何かあるんでしょうか。

武田 清原さんに少し聞いてみましたが、あるという話はなかったんですね。でも、実際に秘書をやって、汪兆銘政権の大使団のときにも行っていますし、外務大臣のときもやっていらっしゃったから、ある可能性はありますよね。

矢野 史料のことというよりも武田さんの研究に関わることかもしれませんが、レジュメの3ページに書いてあるところですけれども、松村の日記の中に「昭和26年。1/31桑島主計に重光担ぎ出しの件」とありますが、武田さんがいろいろな史料を見た限りでは、重光を担ぎ出す動きが最初に出てくるのは、これは松村でなくてもいいのですが、これはかなり早い時期のものなんでしょうか。

武田 この1月31日というのがですか。

矢野 ええ。

武田 そうでもないですね。これはもう少し周辺を追わないと分からないことですが、彼は巣鴨から仮出所する第一号で、そのときにはもう国内外の世論には、重光待望論みたいなものができるんですね。そういうのを見て、岸信介と重光が獄中で盟約をして、「今後は一緒にやろう」と言ったというのが本当だとすれば、まあ、十分あり得る話ですけれども、それは考えられると。それで、大分の地元の関係者は、そういう重光の人気みたいなものをよく感じていて、むしろ自由党に入れようとする動きが強かったというふうに記事にはありますが、大体彼が出ることは間違いないわけで、かなり早い段階からそういう動きはあると思います。

矢野 そうすると、この時期に書かれているのは、特に珍しいわけではないんですか。

武田 特に珍しいわけではないと思います。重光は確か進歩党の総裁にもあげられたんじゃないですか。

戸高 松村の日記で19年のところに「軍令部長の更迭についての噂」とありますが、具体的には何か内容が書いてあるんですか。

武田  書いてあります。「先般、海軍軍令部長の更迭に関し、永野前軍令部長の打ち明け話として聞き得るものあり。陸海軍間の飛行機分配問題につき、海軍は最初3万5000を望み、後に2万8000に切り詰めたり。幾往復の後、ある程度にてほぼ解決せり。今後の辞職については、海軍大臣よりその希望を述べたるにつき、政略と統帥を尊重せざるを条件として承諾せし」云々と。

戸高  そうすると、その記述自体は19年に書かれたものではなくて、その後に遡って書かれたものですか。

武田  19年です。

戸高  “先般”ということは。

伊藤(光) 辞めた後ということでしょう。

武田 そうですね。

伊藤 一点だけ、「別紙」の1942年のところに「大東亜戦争一年」と書いてありますよね。それを山渓偉人館と重光葵記念館の両方で所蔵しているということは、同じものが複数あることを意味しているわけですか。

武田 そうです。全く同じ、つまり、冊子になったものを……。

伊藤 冊子と言っても別段、印刷したわけじゃないでしょう。

武田 印刷したんだと思います。

伊藤 あれは印刷ですか。

武田 タイプ印刷で、何部かあると思います。

伊藤 外務省にある可能性もありますか。

武田 あると思います。ただ、外務省でどこに保存することになるのか、ちょっと分かりません。大使時代のこの手のものはいろいろなところに入っていて、「重光駐英大使報告一件」というのは有名ですぐヒットするものですが、それは本当に一つか二つだけで、そんなにたくさんはないんですね。だから、あるとすれば一体どういう形で分類されているのか、ちょっと不案内で分かりません。

伊藤 それはやっぱり秘になっているものですか。

武田 その判子は押されていません。ですから多分、公文書というような感覚は全くないですよね。ただ、名前を“重光葵”とは書いていないので、在何とか一記者というのはペンネームと言ったほうがいいのでしょうか、そういう形で書いているので。

伊藤 ということは、公務として作ったわけではないと。

武田 ではないと思います。ついでに言いますと、外務大臣時代の意見書ですごく目立つのは、連合国の会談の様子を逐一追っているんですね。私はこれをたいへん面白く読みましたが、ただ、極秘の情報などがあるわけではなくて、殆どが新聞情報やそういうので読んでいるように思いますけれども、かなり詳しく追っています。

有馬 ちょっとこういう外交官の史料についてよく知らないのでお聞きしますが、こういう形で自分の意見書をまとめるといいますか、そういうことをやる人というのは、かなり異例なんですか。

武田 外交官の意見書については、単発的には有名なものがたくさんありますけれども、こういう形で連続してずっと追えるというのは、珍しいのではないかと思います。同じように長い期間あつかっているものと言いますと、天羽英二の日記などになると思いますが、彼は情報局に行ったりするので、重光のような同じテーマでずっと追っているわけでは必ずしもありませんから、たいへん珍しい史料だと思います。

有馬 さっきの伊藤先生の質問と重なるかもしれませんが、そうするとこれは一体何なんだろうとずっと思っていたのですが、武田さんはこういう類の文書を何と呼ぶべきだと考えていらっしゃいますか。

武田 まさにそれなんですけれども、たとえば、1930年の『革命外交』などは、割と事実を発掘しているものなんですね。それが1933年の次官時代のものになると、こうすべきだというのが出てきて、その後はずっと、いま世界はこうだから日本はこうすべきだというようなテーマになります。では、これをどこの誰に見せたかという問題があって、重光の中央公論から出た手記を読むと、これは外務省に送ったと。それからもう一つは、宮中に送ったという話があるんですね。実際、アメリカ軍に接収された外務省文書を見てみると、その中にある重光の外交意見書は、原田熊雄に転送されているという記述がありますから、間違いなく宮中に送られていると。ですから、外務省と宮中に送って、外務省の中の意見が英米派と革新派に分かれたときに、あるべきものはこうであって一致しなければいけないという、ある種の啓蒙であると考えられます。ただ、本当に啓蒙するのであれば軍部に送ればいいわけで、それは送っているのではないかと思うのですが、その形跡はどうも分からないんです。だから、一つは啓蒙という意味があって、もう一つはやっぱり、国際関係自体が日々変化している時期なので、ずっと追っていかないと彼自身が古くなってしまうというか、時代についていけなくなってしまう。走りながら考えるというか、書きながら考えていくような、そういうような試行錯誤のあとがずっとあるのではないかと、そういうふうに思っています。

  それで、そういう中でときどき予測しているんですね。たとえば、独ソ開戦は必然であると。それはいつか、1939年である。それは1年はずれるわけですが、そのようなことも書いていたりします。これからどうなるか分からないときに、自分自身でいろいろあるべき姿というものを考えた、そういうあとなんだろうなというふうに思っています。

有馬 逆に言うと、外務省にとってこれは一体何なのかということもあると思うんです。それを具体的なところから考えると、これを誰が受け取って、たとえば、非常に即物的に言うと、どこの棚にしまったりするのかという、そういうことはどうなんでしょうか。

武田 1955年に『お役所シリーズ』という5巻くらいの本が出ましたが、河村欽二さんが書かれた『外務省』というシリーズがあるんですね。あれを読むと、戦前の外交官の電報の中で有名な電報は三つあると。一つは大島浩で、もう一つが加藤外松で、三番目が重光葵であると。そういった記述があるので、外交電報のお手本であると言われていたようなんですね。これが本当にお手本となるような文章なのかどうか、私にはたいへん疑問がありますけれども、確かに何かすごいなというところはあって、それを外務省がどういうふうに呼んだのかというのは、ちょっと分からないところはあるんですね。ただ、これは田浦先生の発見ですが、西園寺が重光の外交電報はすごくいいと褒めているし、さっき松村謙三は批判的なことを言っているというふうに言いましたが、素晴らしい演説だったと言っていることも確かですし、大木操の日記にも、重光の外交演説はたいへん素晴らしいという記述もありますから、それなりに感銘を与えたのではないかと思います。

伊藤 これは外交電報とはちょっと違うのではないですか。

武田 違うと思います。

伊藤 意見具申というものではないですか。その意見具申が一体どういうふうに取り扱われるのか。

武田 そうなんですね。交信ではなくて、半交信という形で海外から送るようですね。それは前にちょっと聞いたことがありますが、それが外務省の中ではどういうふうに扱われるんでしょうか。

戸高 これは何部くらい作られたものだと思いますか。

武田 どうでしょうね。

戸高 たとえば海軍では、正式なそういう秘密配布文書については、相手先の一覧表が付いていて、全体で何部刷り、どこに何部配布、何部控えみたいな表がきちんと付いているのが普通なんですね。付いていない極秘文書というのは一種の意見で、特に軍としてオーソライズしたものではないというスタイルがあって、配布についても、一定の数でタイプのコピーとガリ版、それより多くなると活版ということで、大体の部数が分かります。しかし、外務省のこれはよく分からないですね。

伊藤 “外務省の”というのとは、ちょっと違うんじゃないですか。重光個人に近い、しかし、意見具申ではある。

武田 たとえば、43年のもののいくつかについては、これを見つける前に牧野の新しい追加された文書の中に見たことがあります。それから、都立大にある松本文庫の書籍のほうに、重光の戦中期の小冊子があります。だから、ある程度配られてはいると思うんです。

伊藤 ナンバーはふってないんでしょう。

武田 ふってありません。“秘”と書いてあるものもありますし、書いていないものもあります。この間、亡くなられた秘書の加瀬さんも、そういうことを重光さんはずっとやっていたんだというふうに回想録に書いてあるんですけど、彼自身、こういうのがあるということを手記のどこかに書いてあるということは、多分なかったと思うんです。

伊藤 そういう意見具申のときに宛先は書いていないわけでしょう。

武田 書いてありません。

伊藤 きょうは5時半からこの部屋を別の会議で使うということなので、あと5時までで終わりということですが、まだ10分くらいありますけれども、これだけは聞いておきたいということがありましたらどうぞ。ございませんか。もしなければ終わりにしたいと思います。武田さん、どうもありがとうございました。

武田 ありがとうございました。

 (終了)

 

別紙

(1)重光葵の「外交意見書」一覧 

以下に、重光が残した外交意見書(情勢判断書)のうち、筆者が入手したものの一覧を記す。

 

注記1:重光が冊子に纏めたものを基本とした。但し、『米英ト蘇聯(ロンドン第一回国際聯合総会)』(昭和二十一年二月末記)によれば、『大東亜戦争四年』と題する冊子も纏められているようだが、2004823日現在、発見されていない。

注記2:外務大臣時代に編纂した『大東亜戦争○年』にはまとめられなかったものの、それに準ずる小冊子は、*で時系列で挿入した(全て『重光葵記念館』所蔵)。

注記3:また、『重光葵手記』(正続)中に、意見書に相当するものもあると思われる(一部付記した)。また、外務大臣時代の議会演説もこれに順ずるものとして加えてよい(リストからは割愛した)。

 

▲1930年

 

『革命外交』外交記録にあり。服部龍二氏による復刻有。

 

▲1933年

 

『意見書草稿』(重光葵関係文書所収。1933年ごろ執筆と推測。正文となった形跡はない)

 

▲1934年〜1935年

 

『東亜政策の建設』 昭和十八年二月五日作成 大分県山渓偉人館所蔵

注記:但し、昭和十年に一度調書としてまとめられている 

「『我外交ノ基調』二就イテ 国際協会総会ニ於ケル重光外務大臣ノ演説」(昭和九年五月十一日)

「我外交陣容ノ充実改善ニ就テ」(昭和十年三月廿二日外交協会ニ於テ)

「国際関係ヨリ見タル日本ノ姿」(昭和十年八月一日記)

 

▲1936年

 

未発見

 

▲1937年〜1938年

 

『無題(「ケンブリッジファイル」と仮称)』 c昭和十三年作成 ケンブリッジ大学図書館(AOI Pavilion)所蔵

注記:書き込みあり。駐英大使異動に際して仮に纏められたものと推測。黒表紙で紐綴。 

 「欧州ノ政局 之ニ対スル帝国ノ地位」(昭和十二年三月一日記)

 「仝上 補足第一」(昭和十二年四月一日記)

 「仝上 補足第二」(昭和十二年五月十日記)

 「『スターリン』革命」(昭和十二年七月上旬)

 「赤露ト世界」(昭和十二年十一月十五日記)

 「赤露ト欧州ノ動揺」(昭和十三年三月一日記)

 「仝上 補足一」(昭和十三年四月一日記)

 「仝上 補足二」(昭和十三年五月一日記)

「『ボルセヴィキー』ノ変遷ト其本質(未定稿)」(昭和十三年五月一日記)

 

▲1939年〜1940年

 

『欧州戦争ト東亜』 c昭和十六年作成 大分県山渓偉人館所蔵

注記:英国より一時帰国後直ぐにまとめられたものと推測。なお、「緒言」によれば、これらの文章から、"Japan in East Asia,  No.1,2,3”[英文]が書かれ、「英国ノ朝野」の「啓発」に利用されている。

 「東亜ニ於ケル平和機構」(昭和十四年七月十五日記)

 「欧州政局」(昭和十四年八月一日記)

 「欧州戦争と外交戦」(昭和十五年八月十五日記)

 「世界の新秩序」(昭和十五年九月一日記)

 

▲1941年

 未発見。但し『重光葵手記』(中央公論社、昭和60年)収録の『霧のろんどん』の一部(149頁―289頁)がこの代わりとなる。

 

▲1942年

 

『大東亜戦争一年』 c昭和十八年初頭作成 山渓偉人館、重光葵記念館所蔵

 「大東亜戦争と支那問題」(昭和十七年三月八日記)

 「世界戦争ト支那問題」(昭和十七年六月八日記)

 「世界戦争ト亜細亜ノ解放(第三編)」(昭和十七年八月三十日記)

 「大東亜戦争一年(第四編)」(昭和十七年十二月末記)

 

▲1943年

 

『大東亜戦争二年』 c昭和十九年初頭作成 重光葵記念館所蔵

注記:書き込みあり。表紙及び「世界戦争ト対支政策(第五編 決戦体制ト支那問題)」六十一頁まで破損しているが、重光記念館所蔵の別冊により補完可能である) 

 「世界戦争ト対支政策(第五編 決戦体制ト支那問題)」 

*『世界経済調査会ニ於ケル重光大臣演説』 昭和十八年二月二十日記

注記:出席者名簿有り。

「世界戦争ト対支政策(第五編 決戦体制ト支那問題)追補」(昭和十八年三月二十四日記)

 「世界戦争ト太平洋(大東亜)憲章」 昭和十八年とのみ記載。下記参照。

  「第一編『カサブランカ』ヨリ華府会議ニ至ル」(昭和十八年五月三十日記)

*『最近ノ国際情勢ニ付テ』 昭和十八年七月十九日記

*『翼賛政治会総務会ニ於ケル重光外務大臣演説−伊太利政変ニ就テ』 昭和十八年八月四日記

 「第二編伊太利政変ト世界大戦」(昭和十八年八月十五日記)

 「『ケベック』会談」(昭和十八年八月二十八日記)

*『貴族院調査第二部会ニ於ケル重光大臣演説―最近の国際情勢ニ付テ』 昭和十八年九月六日記

*『翼賛政治会総務会於ケル重光大臣演説―最近ノ国際情勢ニ就テ』 昭和十八年九月十四日記

*『昭和十八年九月三十日御前会議ニ於ケル外務大臣説明』 昭和十八年九月三十日記

 「帝国戦時外交ノ基調ニ就テ」(昭和十八年十月一日記)

 「我当面ノ外交問題」(昭和十八年十月十一日記)

 「『モスコー』会談ト国際情勢」(昭和十八年十一月二十三日記)

 「『カイロ』会談ニ関シ」(昭和十八年十二月三日記)

 「米英妥協ト蘇聯ノ進出」(昭和十八年十二月二十日記)

 「米英蘇ノ妥協」(昭和十八年十二月二十五日記) 後半破損あり。欠。

 

▲1944年

 

『大東亜戦争三年』 昭和十九年十二月作成

注記:書き込みあり。

 「戦争ノ深刻化ト米英」(昭和十九年二月十五日記)

 「最近ノ国際情勢(於司法官会議)」(昭和十九年二月二十八日記)

 「蘇聯ノ進出ト英米」(昭和十九年三月十日記)

 「対外政策ノ基底」(昭和十九年三月二十四日記) 表紙欠。タイトルは目次通りに記載。

 「日蘇交渉ノ背景」(昭和十九年五月十五日記)

 「外政問題ニ付テ」(昭和十九年五月二十日記) 講演録(講演先不明)

 「第二戦線ト支那問題」(昭和十九年五月三十一日記)

 「支那問題ト国共妥協ノ背景」(昭和十九年六月五日記)

 「第二戦線ト太平洋戦」

「緒言」(昭和十九年六月一日記)

「第一章第二戦線ト対独包囲」(昭和十九年六月十二日記)

 「英米ノ情勢ト世界戦局ノ帰趨」(昭和十九年六月十六日記)

 「対外施策ニ関スル一考察」(昭和十九年八月七日記)

 「大東亜戦争ノ決戦段階」(昭和十九年八月十三日記)

 「支那問題ヲ中心トシテ米英及蘇ト日本」(昭和十九年八月二十日記)

 「最近ノ国際情勢(地方長官会議訓示)」(昭和十九年八月二十三日記)

 「対外政策ノ動向」(昭和十九年九月八日記)

 「最近ノ国際情勢(翼賛政治会訓示)」(昭和十九年九月二十五日記)

 「我外交ノ動向」(昭和十九年十月十八日記)

 「『スターリン』演説ニ付テ」(昭和十九年十一月十八日記)

 

▲1945年

 

*『国際聯合ト新勢力範囲政策』 昭和二十年十二月末記

注記:「於鎌倉夕陽楼」と有。

 

▲1946年

 

*『米英ト蘇聯(ロンドン第一回国際聯合総会)』 昭和二十一年二月末記

注記:書き込み有。

 

(2)重光篤氏提供の史料(重光本人が書いたものではないと思われるもの)

 

▲1935年

日支提携条約案に関する重光試案 昭和十年八月二十七日

 

▲1942年

「支那問題ニ関スル資料」 作成者不明 昭和十七年十月

「支那問題の現状」 作者不明(外務省か) 昭和十七年十月三十一日記

 

▲1943年

「戦後経済政策大綱」 ■■経済■■■委員会(戦経 一八、一一、二〇)

注記:「決定案」と筆書。■は墨塗りされているもの。

 

▲1944年

「今後ノ情勢推移ニ鑑ミ戦争指導上七月頃従来ノ施策以外新ニ逐次措置スヘキ重要事項ノ予想」

 第二〇班、昭和一九年六月一七日

 

「覚」 作者不明 昭和十九年六月二十一日 外務省用箋 

「無題」 作者不明 昭和十九年六月十九日 外務省用箋

注記:この両者及び重光自筆のメモは一括。「6-23 受」と朱筆。戦争目的の件

「対支作戦ニ伴フ宣伝要領」 昭和一九年七月三日 連絡会議了解

「帝国ノ戦時経済運用方式ノ検討ト帝国経済国力ノ見透」 作成者不明 昭和一九年九月十五日   

 注記:「19/9/15 受領」の書き込み(鉛筆)有

 

▲1945年

「印度支那問題」 作者不明(外務省か) 昭和二十年三月十日記

「比島及比島人ノ特質 新比島育成失敗ノ背景」 特命全権大使村田省蔵 昭和二十年四月

「戦争収拾の前提要件に関する覚書」 作成者、作成日不明

注記:サンフランシスコ会議、19454月以降。作者は重光か?

「今後ノ事態進展ニ関スル豫想」 作成者不明(外務省か) 昭和二〇年八月十七日 

注記:重光の書き込み有