科学研究費成果報告書「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」(基盤研究(B)(1)、代表者伊藤隆平成1516年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)より

 

10.伊藤 隆氏

いとう・たかし 政策研究大学院大学教授

日 時:2005年1月11日

出席者:季武嘉也 萩谷茂行 有馬学 佐藤純子 武田知己 丹羽清隆 小池聖一 

奥健太郎 伊藤光一 村上浩昭 梶田明宏 宮杉浩泰 越澤明 藤枝賢治 

所澤潤 川越美穂 田辺宏太郎 塙ひろ子 長谷百合子 下重直樹 駄場裕司 

大久保文彦 松崎昭一 今井貞夫 桑野眞暉子 濱田英毅 高山京子 

高橋初恵 鈴木多聞 矢野信幸

 

 

伊藤 すみません、時間をちょっと過ぎました。私が司会者で報告者なものですから、早速始めさせていただきます。

 私は2年前の1月27日に、この研究会で平成13年から14年にかけての私の仕事についての報告をいたしました。今回はその後、平成15年から16年末までの仕事について報告をさせていただきます。それで、前回はオーラルについても報告をいたしましたが、時間的な余裕もなさそうですし、オーラルは省略いたします。実は、この2年間で費やした時間数から言いますと、オーラルのほうがはるかに時間を割いておりまして、何回やったのか自分でもちょっと計算ができないくらいであります。昨年末で私が担当しておりましたオーラルは全て終わりましたが、これから「まえがき」や「あとがき」を書いたり、自分の発言をチェックしたり、仕事が多く残っておりますので、まだ完全に終わりというわけではありません。

 それではまず、史料の出版事業についてお話をしたいと思います。史料出版の第一のものは、この前の回にも「近々に」と言っておりました『品川弥二郎関係文書』の第六巻を刊行いたしました。これは平成15年の9月で、私が一人でやったわけでは無論ありません。非常にたくさんの人たちの共同作業でございました。共同作業であるからには、ちょっと名前を申し上げたいと思います。ジョージ・アキタ、川上寿代、狐塚裕子、木畑和子、佐々木隆、柴崎力栄、季武嘉也、照沼康孝、鳥海靖、成田賢太郎、西川誠、沼田哲――故人になられました。広瀬順晧、福地惇、村瀬信一、以下は尚友倶楽部の人ですが、三島義温、上田和子、太田展子、内藤好以、堤伊雄、大久保洋子。ここでやっと差出人の「は」の行まで終わりまして、「ほ」まで行きました。

 現在、第七巻の校正中でありまして、これは多分、来年かそれくらいに出ると思います。全部で八巻になりますが、八巻目は残った書簡と補遺ですね。というのは、この編纂を始めたときにはこれで全てだと思っていたのに、まだ残っていたということで、途中で品川家からかなり大量なものが出てきまして、間に合うものは入れましたが、もうすでに刊行した分のものは最後に入ります。それで、全人名索引をいま拾っておりますので、人名索引が付きます。たいへん便利なものになるだろうと思っております。

 それから、これもこの前のときに、こういうものをやり始めるというお話しました、『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』の刊行であります。これは武田知己氏と一緒にやりました。この他に手伝ってくださったのは矢野信幸氏と鹿島晶子さん、そして編集者は吉田大作さんです。中央公論新社でいまこういう仕事をやってくだされる人は吉田大作氏でありまして、これからもいろいろ一緒にやっていこうという話であります。実はこのゲラが出たのは15年の4月でありますが、校訂に手間取りましたことと、解説を書くのもなかなかたいへんでありまして、16年5月に完成して、7月に中央公論新社から刊行されました。

 これに関連して『中央公論』に文章を書きましたが、この「書きました」というのはちょっと怪しい話でありまして、「とても忙しくて書いている暇がない」と言いましたら、中央公論の編集者が「お話を聞いて書きますから」ということでしたが、やはり自分で書かないと、自分の思ったことがあまり伝わらないものだということがよく分かりました。随分と手を入れましたが、私の文章ではありません。

 次は、『山県有朋関係文書』です。この編纂をしていることはこの前もお話をいたしましたが、ついに第一巻が昨年12月付けで、実は本日できました。回覧いたしますが、これは全四巻の予定でありまして、一巻でどこまでいったかと言いますと、桂太郎のところで切れております。ただ、最後に大正政変覚書が入っておりまして、桂まで入ったので四巻でいけるのかなと思ったら、いけるらしいという、そういう計算であります。これももちろん、たくさんの人のご協力を得て行った仕事でありまして、ジョージ・アキタ、広瀬順晧、小林和幸、長井純市、西川誠、上田和子、堤伊雄、太田展子、内藤好以ということで、半分は尚友倶楽部のベテランたちが書き起こしをしました。

 次は、『児玉秀雄関係文書』であります。これについては2年前にもお話しておりますが、大分進んでまいりまして、これは季武嘉也氏と一緒に編纂刊行する予定であります。書き起こしは尚友倶楽部の人たちがやってくれて、もう殆ど書き起こしは終わって、選択は私もやりました。それで、まず書簡の部から出すということで、いま年代順に配列をしているところであります。

 それから、これはなかなか長々とした話でありますが、『鳩山一郎・薫日記』の下巻、「鳩山薫篇」のことです。これが人名索引で非常にガタガタして、なかなか決着がつかないということで、昨年の末に断を下しまして、ゲラにすることにいたしました。鳩山の日記には、鳩山の選挙区の人たちの名前がたくさん出てくるんですが、姓だけの人がたくさんありまして、これを誰というふうに特定できないという問題がありましたが、それはしようがない、姓だけでまとめてしまえと、こういうことにしたわけであります。ですから、これは間違いなく今年出ます。解説原稿を私が「鳩山小伝」の形で書きまして、随分と分厚い解説にいたしました。これも吉田大作氏が担当してくれているんですが、彼の希望的観測では、3月には刊行するということであります。僕はちょっとどうだろうかと思っておりますが、索引だけが残っているわけですから、できるかもしれません。

 それから、これは前回お話した以後のことだと思いますが、『畑俊六日記』というのを昔、みすず書房から刊行いたしました。そのときに畑の日記はノートの2から始まっておりまして、1がありませんでした。また、彼の文中には「獄中で自叙伝を書いた」ということが書いてありましたが、その自叙伝はどうしても見つからなかった。ところが、やっぱりそれを借り出していた人がいたのです。ですから、その獄中で書いた自叙伝と日記の1、それから獄中日記の後半は出版されています。前半は出版されていませんでしたが、それも出てきました。しかし、これを全部まとめると、一冊の本にするにはちょっと大きすぎるので、獄中日記のところは後回しにしまして、自叙伝も陸軍大臣になるまでのところですから完全なものではありませんが、非常に面白いものであります。それから、日記1の昭和初年の部分をまとめて本にしようと。これは前からお話しておりますように、軍事史学会がそういう基本史料を刊行することの一環にのせているわけであります。それで、日記が原剛さんの担当で、私が獄中手記の自叙伝を担当しております。これは鹿島晶子さんに入力をしてもらいまして、すでに両方とも出来上がっておりまして、これから編纂に入るところであります。

 次は、「沢本頼雄日記」であります。実は予定としてはこちらを先にやるつもりでおりましたが、畑のほうが急ぐというものですから、畑のほうを先にいたしました。これは半分くらい打ち込みが終わっております。これもなかなか面白いもので、鹿島晶子さんや田浦雅徳氏に協力をしてもらっております。その他にも協力してくださっている方がいらっしゃるんですが、進んでいないということであります。

 もうひとつは『木戸孝允関係文書』です。これは堀口修氏と西川誠氏が発起人でありまして、私は担がれてその責任者になっております。実は『木戸幸一日記』を刊行してそれが完結した後、木戸日記研究会は解散をしたわけですが、『木戸幸一日記』の印税をその後もずっと「木戸幸一日記基金」という形で蓄積してきたわけです。それがかなりありますので、それでこれを作ろうということであります。東大出版会も最近はたいへん経営的に苦しいようでありまして、そういう資金がなければ、とてもこれは出せないということであります。これも随分と長い間、ゴタゴタ…ゴタゴタやっておりましたが、昨年11月に堀口氏と西川氏と私とで東大出版会といろいろ話し合いまして、来年の前半くらいに第一巻を刊行すると。そして以後、毎年1巻ずつ出していって、全五巻という形で完結をしようということであります。

 ただ、これはいろいろと問題があります。木戸孝彦氏が宮内庁書陵部に「木戸孝允関係文書」を寄贈しておりまして、その寄贈目録を見ますと、いま公開されている分よりもかなりあります。ただ、未整理ということで、その未整理の部分について向こうと交渉しまして、こちらが「あいうえお」順に始めるから、なるべくそういう順番で整理を進めてくれというふうにお願いをしたんですが、こちらの進行に追いつかないという状況であります。ですから、補遺で拾えるか、補遺でも拾えないかというのが現状であります。でも、大体はこれで収録できるということであります。参加者は、もう数年前からやっておりますので、山口輝臣、岩壁義光、梶田明宏、落合弘樹、それから故人になられました沼田哲、長井純市、村瀬信一、坂本一登、山崎有恒、小林和幸、佐々木隆の諸氏で、沼田氏が亡くなられたことと、長井氏が現在、在外でありまして、戦力が低下したため、狐塚裕子さん他に新たに参加してもらうことになりました。もう一人誰だったか、ちょっと名前を忘れております。

 ということで、刊行計画、刊行がすでに終わったもの、それから刊行計画はこんなところであります。他にもいろいろあるんですが、それはまだちょっと話すような段階ではありません。

 次に、史料発掘のことであります。前にもお話しました「木内信胤関係文書」でありますが、これは完全に寄託されました。さらにそれを大学に寄贈してもらおうという話になりましたが、大学側の事情でどうもあまり調子がよろしくないので、私はこれを憲政資料室に寄贈してもらおうと思いまして、木内さんの息子さんである木内孝氏にご相談いたしました。それで、よろしいということでありましたので、憲政資料室に寄贈していただくことにしました。憲政資料室もそれを受け取るということで、今年搬出する予定であります。

 これも前にちょっとお話をしましたが、「中沢佑関係文書」であります。これは、この前お話した直後、15年2月に引き取りまして、鈴木(東中野)多聞氏が整理して寄託となりました。

 次は高橋亀吉でありますが、高橋亀吉の文書というのは、もうすでに証券図書館と憲政資料室に寄贈されております。ただ、最後に「高橋亀吉全著作」という一つの棚がありまして、それについて高橋家から、「あそこを壊して新しく家を建てるので、君のところの大学で引き取ってくれないか」という話がありました。そこで僕が学長に話をしたところ、文庫として受け取ってもいいというものですから受け取りに行きました。また、残物がないかということで、多分あるだろうと。以前、憲政資料室に運びこんだときに、私は広瀬順晧氏と一緒に行きまして、家捜しをちゃんとやったつもりでしたが、今度行きましたら、また大分取り残しがありました。全著作というのは結局、段ボールで3箱くらいになりましたが、その他、家を壊すということで、いたるところからいろいろなものが出てきまして結局、全部で20箱の史料になりました。これについては、いずれ整理をして憲政資料室のそれと合流させようと思っております。

  それから、これは情報ということでありますが、「矢部貞治関係文書」につきましては、この前もお話をしましたが、鳥取県立博物館が矢部貞治の展示会をやるというのでいろいろとやったら、「憲政記念館にもまだ文書があります」と。「えっ、日記以外は全部こっちでもらったはずだけどな」と思いましたが、聞いてみましたら、展示用にかなり向こうがリザーブして、ちゃんと寄贈を受けたということでありました。その目録をもらってみましたら、かなり重要なものをバッサリともっていることが分かりまして、これは辞典とも関わりますので、それを追加情報として入れようとしております。

  それから、羽生三七さんのお話も前回ちょっといたしましたが、実際の引き取りは、15年3月に武田知己氏と一緒にやりました。飯田まで行きまして、段ボールで17箱くらいを搬出いたしました。鈴木茂三郎からの手紙とかいくつか面白いものがありましたし、非常に貴重なものもございますが、機関紙の類がかなり多くございました。

 それから、扇さんの史料のことはこの前もお話いたしましたが、追加として、藤岡泰周さんという方が、扇さんの伝記を書こうということで草稿を作っておられまして、その関係史料をちょっと持っておられた。その藤岡さんが亡くなられて、ご遺族の方からその史料をいただきました。それも付け加えて、黒澤良氏や矢野信幸氏から「扇一登氏関係文書仮目録 付藤岡泰周氏所蔵扇一登伝記資料」という目録を作ってもらいまして、寄託覚書を交換いたしました。その後、扇さんの息子さんの扇暢威氏から、昭和20年代の日記がみつかったという連絡がありまして、これはいずれということでありました。扇さんのような海軍の大佐が戦後どういうふうに生きたかということはちょっと面白い問題なので、個人的にはたいへん興味のあることですが、公的な職務に就いているわけではありませんので、そういう意味から言うと、それほどの意味はないのかもしれません。

  それから、田川誠一さんの史料ですが、一部こちらで引き取って整理をしたのですが、田川さんが、家の整理をしたら膨大な場所ができて、そこに史料集積をやりたいので返せと言ってきたので、これは返しました。田川さんは随分といろいろな史料をたくさん持っているということでありますので、一度見に来い、見に来いと言われておりますが、なかなか時間がなくて行けないということであります。

 それから、石井光次郎氏の息子の石井公一郎氏から私は寄付金までもらったことがあるんですけれども、石井さんの日記、特に朝日時代の日記について、いまも少し書き起こしを進めています。その他に、この前ご報告した直後くらいだったと思いますが、石井さんと石井さんの奥様から、「こういうものがありますが、あなたにあげます」とか言って、吉田茂から石井光次郎宛の書簡数通、それにちょっと他のものも入っているんですが、そういうファイルをもらいまして、いまロッカーにしまってあります。それで、石井光次郎日記の戦後の分は、僕が前に『This is 読売』に紹介したと思うんですが、その原本と、戦前から戦争直後くらいまでずっと書いている朝日時代の日記がありまして、当時の新聞界の状況が非常によく分かるということで少しずつ起こしはしているんですが、石井公一郎氏も相当ご高齢でありますし、もうそろそろ憲政資料室に入れてもらったほうがいいのではないかと思っているところであります。

 それから、川崎堅雄さんという方についても前にお話したと思いますが、新体制の関係で前にインタビューをしたことがありまして、その関係で川崎堅雄さんの関係文書を提供していただいたわけであります。さらに、川崎堅雄さんの秘書役であった西村つやさんという方が所蔵していた川崎堅雄関係の史料について、西村さんが亡くなられましたので、西村さんのお姉さんが提供してくださいまして、それを15年2月に追加いたしました。そして「川崎堅雄関係文書仮目録」を黒澤氏たちに作っていただきまして、川崎鈴江さんという川崎堅雄の奥様から寄託覚書をいただきました。

 次は「山県有朋関係文書」ですが、先ほどご回覧いただきました全4巻になる部分をやる過程で、現在の当主であります山県睦子さんといろいろお話をいたしまして、「あの巻物以外に史料は何もないのでしょうか?」と聞きましたら、「いえ、まあ、多少はございます」と。「何があるのでしょうか?」と聞きましたら、「色盲問題等に関わるものがございます」というお話でございました。そこで、「この全4巻を出し終わったらそれも出していただけますか?」と言ったら、「それはいいですよ」ということでしたので、まず4巻を出すことが先決というわけであります。まあ、これは続々と出していけるのではないかなと期待はしております。

 それから、ことの経緯は前回お話いたしましたが、「関之関係文書」であります。これは前回お話をした直後、15年2月に佐道明広、武田知己、黒澤良、高橋初恵の諸氏と一緒に引き取りに伺いましたが、これは大量なものでありました。また、継続的にある程度、詳細な日記が残っておりまして、日本の公安警察の歴史そのものと言ってもいいものであります。ただ、この文書は、やや個人情報として公開を憚られるものもございます。共産党のどこかの県委員会の内部情報と、どうもその県委員会の行われている会場の出入口の向かい側の家から望遠で撮ったのではなかろうかと思われる委員の顔写真とか、そういうものが貼ってありまして、これはどういうふうに処理したものだろうかと悩んでおります。これについては、公安調査庁の人といまコンタクトをしておりまして、目録が完成したところでいろいろとご相談しようと。公安調査庁は、自分自身の歴史を書くのに、史料を殆ど捨ててしまって、粗末にしていたものだからないらしいんですね。それで庁史が書けないということでありまして、前から何かないかと僕にいろいろと言ってきておりますので、このことをたいへん喜んでおりまして、お互いに相談しながらやっていこうということであります。

 さらに、これは2月に伺ったわけですが、6月に長女の藤原明子さんから追加史料をいただきました。これはGHQとの往復みたいな感じの文書であります。まだ私は詳しく見ておりません。それは一つであります。

 それから、これは前にお話してあったと思いますが、読売の戦後班の『戦後教育の歩み』の中心になっておられた乳井昌史氏からいただきました取材記録の概要と目録の一部ができまして、さらに追加目録もできましたので、寄託覚書を交換いたしました。現在は大学の寄託ということになっております。

 それから、渡辺武さんの関係文書も村井哲也氏が目録を作成してくれまして、さらに昨年4月に追加の1箱がまた送られてきました。この目録も村井氏が作ってくれましたが、これからも渡辺家から送ってもらえる可能性は十分にありますので、とりあえずまだ追加、追加、追加でいこうと思っております。

 それから「竪山利忠関係文書」ですが、川崎堅雄とか竪山利忠という人は、もともとは日共系の人でありますが、新体制運動の底辺を担うような活動をしていた人物であります。これが戦後、民主的労働運動の理論的なリーダーになるわけです。実は、私はオーラルで民主的労働運動のリーダー達――たとえば、全繊の宇佐美さんとか、金属の天池さんとか、はじめなかなかその名前を出しても反応されなかったんですが全逓の宝樹文彦さんなんかも接点があったようであります。宝樹氏はテープがとまってから、竪山さんは朋友だというようなことを言いまして、総評と同盟系の微妙な付き合いというものが分かって非常に面白かったんですが、その竪山氏の関係文書について、15年5月に武田氏と拓殖大学に行って調査をいたしました。日記・書簡等があって、遺族は「拓殖大学に渡したはずです」と言っているんですが、拓殖大学のほうには、どう調べてもそれを受け取った記録はないということでありまして、藪の中に入ってしまいました。確かに竪山氏の寄贈した図書はございまして、その目録もできておりました。それで、まあ、しようがないということで、5月に武田氏と二宮の竪山氏の息子さんのお宅に伺いまして、残された史料4箱を宅急便で大学に送りました。

 実は、いろいろ探したんですけれども2箱しかなかったんですね。そしたら最後に、私が座っていた後ろの辺りに段ボール箱がありまして、「あっ、あそこにテープがあります」と言うから開けてみましたら、これがまたさっきの話と符合する話なんですが、労働戦線統一の歴史みたいなことを、竪山さんに向かって宝樹さんが喋っているんですね。「エエッ!」とちょっと驚いたんですが、そういった類のもの、ネームのついていないものもたくさんありましたので、これは聞いてみないと分かりませんが、とにかくテープがガサッといっぱいあって、これは手間暇がかかるなと。年寄りになって……もうなったんですけど(笑)、閑仕事でやる以外にないと思っております。でも、さっきの宝樹氏のもの以外にも、なかなか面白いものがあるのではないかと思っております。

 それから、「水野錬太郎関係文書」を一部含みます「水野家文書」を、清水唯一朗氏が窓口になって引き取りました。ただ、これは水野錬太郎の息子さんのものがかなり多いようですが、まだ目録ができておりませんのでよく分かりませんし、ある程度、貴重なものが含まれている可能性は十分にあるということであります。

 今度は少し大きなものでありますが、「藤波孝生関係文書」を引き取りました。これは、オーラルの最中に「とにかく史料を渡してください」と申し上げておりましたので、とりあえず伊勢の事務所に行きました。この時は、有馬学氏、武田氏、小池聖一氏、川越美穂さん、それから小池氏の学生の石田雅春氏、非常な好青年でありますが、彼等と伊勢市の藤波事務所に行きました。それで、リクルート事件のときに事務所から押収されたものは持っていってよろしいということでありまして、それでも段ボールで50箱ほどあったと思うんですが、中を開けてみましたら、自宅から押収されたものと事務所から押収されたものとあまり質的な差がないので、「こっちも欲しいのですが」と言ったんですが、「まあ、まあ、とりあえず事務所のものだけ」ということで最初はいただきました。それからしばらくして、向こうも考えが改まって自宅から押収されたものも送っていただきまして、さらに今度は立候補しないことになりましたので、「議員会館の事務所にあるものもぜひください」と言いましたら、それも送ってくださいましたので、それは膨大な量になりました。これはあと3年くらいかけてきちんと整理をして目録化しようということで、これからのかなり大きな仕事になったわけであります。

 次は海原治さんでありまして、これも前にお話いたしましたが、15年8月に奥様の……名前は何と呼ぶんでしたか、瑞という字を書くんですが。

高橋 「みずえ」さんです。

伊藤 瑞さんが追加を送ってくださいました。どういうことかというと、「いちばん奥の物置を整理して、大半は捨てました」と言うんですね。「いやあ、それが欲しかったんですが……」と言ったら、「伊藤さんが以前来たときに、と書いてあるものは大事な史料だということでありましたので、と書いてあるものだけ残してそれをお送りしました」ということですから、いい史料がたくさんございました。そのの史料も、公開のときにちょっと問題が発生する可能性があるなと思っておりますが、場合によっては知らん顔ということもあり得ると。中を見てみれば、大体こんなものはいいんじゃないのというものが殆どだろうと思うんです、外務省と同じであそこも何でもにする癖がありますので。これは後ともちょっと関係しますので、またお話します。

 それから、「山本親雄関係文書」というのを、遺族の山本九三さんという方から寄託の申し出がありました。これは15年の8月だったと思いますが、鈴木多聞氏経由で、しかし現在まで何もしてくれていないと。

鈴木 一応、目録と軍令部作戦課長時代の日誌の一部を3月の東京大学日本史学研究室紀要に活字化して出しますので、その後、必ず。

伊藤 それから、これもオーラルをやっておりましたが、奥野誠亮さんが議員に立候補しないことになりましたので、「事務所の史料をください」と言いましたら、「よかろう」ということになりまして、3箱くらいですか。その後、4箱の追加があったのではないかと思いますが、とにかくある程度の数の文書をいただきました。本当はもうちょっとと思ったんですが、奥野さんの息子さんが当選いたしまして、議員会館というのは、息子が当選するとその親父の部屋に入るそうです。だから多分、まだ残っているのではないかという疑惑をもっていますが、とにかくいただきましたので、それを整理してからちょっと考えようということであります。

 次は、15年の10月に蝋山道雄さんを訪問いたしました。「蝋山政道関係文書」を段ボール1箱分お預かりすることにして、宅急便の伝票まで置いて「明日にでもヤマトを呼んで送ってください」とお願いしたんですが、今日に至るまで届いていない状況であります。私もちょっと多忙でありまして、とにかくもう一度足を運ぶ以外に方法はないと思っております。これにはかなり貴重なものが入っております。

 次に、辞典に曾禰益の名前をリストアップしたのに誰も書く人がいない、どうも曾禰益を研究している人もいないということで、しようがない、これは遺族に聞いてみようということになりまして、11月に曾禰益の長男であります曾禰韶夫さんに手紙を出しました。そしたら「史料は全部焼いて、段ボール1箱ほどもありません」と。そこで、「とにかくそれをください」と言ったら、「あげますよ」と言うものですから、12月にお宅を訪問しました。曾禰さんというのは、曾禰益のお父さんが曾禰荒助ですから名家でありまして、大きなお宅があったようです。ところが、ご当主が老人夫婦になったため、その古くなった家屋敷を維持できない。それで、思い切ってその家を処分してマンションに入ることにしたと。マンションに入るについては、いろいろな書類やがらくたがいっぱいあるが、これを一体どうしたものだろうと考えて、思い切って庭に山のように積んで火を放って、綺麗さっぱりと焼いたと言うんです。私が「ダイオキシンという話になりませんでしたか?」と聞いたら、「いやぁ、その寸前で助かりました」とかいう話で、本当に悔しい話でありましたが、ほんのちょっとだけ残ったものをいただきました。まあ、その残ったものもそんな意味のないものばかりではなくて、ある程度役に立つものは残りました。しかし、戦前期の外交官時代のものなどは殆どありませんでした。

 その次は今井武夫関係文書の話でありますが、11月に手塚和彰氏の紹介で、今井さんの長女の俊子さんという方にお会いしました。そのときは高橋さんと一緒に行ったと思いますが、史料を見せていただきました。史料庫というのか物置というのか、そこにかなりいろいろなものがあることが分かりまして、高橋さんと3箱くらい詰めたんですが、急にお願いして、「いいですよ」と言われてすぐに持ってくるというのもちょっと憚られたものですから、「今度、若い労働力も連れてやってまいります」と。その後、12月に武田、矢野、黒澤、高橋の諸氏と今井さんのお宅に伺いまして、史料の段ボール詰めを行いました。これは関係の書籍もあって21箱になりましたが、これも大学に搬送いたしました。今井さんの息子さん、きょうは来ていますか?

今井 来ています。

伊藤 この方が一所懸命、整理をしてくださっています。たいへん面白がって、自分の親父をもういっぺん見直して伝記を書くようです。僕に序文を書けと言っておりますが、もう1,000枚くらい書いたんですか。

今井  六万字くらいで、まだまだです。

伊藤 今井武夫の『支那事変の回想』どころの話ではない、もっとでかいものができるようであります。これには戦闘詳報などもかなりありますが、内容は後で今井さんからお聞きください。

 それから、もう一つまたでかいものに遭遇をいたしました。15年の11月に武田氏と宮澤事務所に宮澤喜一さんを訪問しました。何のために行ったかと言いますと、宮澤さんのオーラルの冊子化の許可を得るためで、私がちょうどオーラルの責任者になりましたので、交代のご挨拶も兼ねてまいりました。それで、私は「小川平吉関係文書」の関係で前からちょっと宮澤さんとは面識があったので懇談をいたしておりましたら、談たまたま「小川平吉関係文書」の話になりまして……

武田 誘導尋問(笑)。

伊藤 いや、談たまたまそうしたと(笑)。最初は、「アメリカでは大統領記念館というものがあって、多分あれは国の費用でかなりカバーされていると思いますが、それできちんと史料が残ります。しかし、日本にはそういうシステムがありません。宮澤さんご自身はどうなさるおつもりですか?」と聞きましたら、「いや、それでいまどうしたものか困っている」と。「それでは私にくださいますか?」と言ったら、「いいよ」と言って、すぐに事務所の、あれは書庫と言うべきですかね、そこに案内されました。この部屋の二倍くらいあるような大きな部屋で、そこにいろいろなものがいっぱいありました。

 最初は、「あっ、これが占領下で池田さんのお供をして最初にアメリカに行ったときの記録だ」と言って開けてくださいましたが、英文の日記とか、なぜか池田勇人宛の吉田茂書簡が二通ばかりそこにポッと入っていたり、そういうふうなものから始まって新聞の切り抜きまで種々雑多、いろいろなものがございました。それで、いちばん厄介そうなものは、「この金庫の中に大事なものがあるからこれも持って行け」と、こういう話でありまして、「私の大学には金庫がございません」と言ったら、「これごと持って行けばいいじゃないか」と。金庫と言っても、我々が普通考えているような金庫ではありません。

武田 耐火金庫ですね。

伊藤 そうですね。引き出し式になっていまして、ダイヤルが付いているんです。「中は何ですか?」とお聞きしましたら、「三木内閣のときの外務大臣としての全記録です」と言うんですね。これは物騒だなと。おそらく外務省が公開していない文書も入っているはずであります。「そのときの秘書官が非常によく整理をしてくれて、全てのものが取ってあります」と。私が「これは公開しても大丈夫ですかね」と聞いたら、宮澤さんは「30年ルールで、もうそろそろ30年になるからいいんじゃないの」と、こういう感じでお話になりましたが、そう簡単なことではなさそうでありまして、これは小池聖一氏などともご相談しながらやっていきたいと思います。

 外交文書といいますと、木内の文書の中にも公電がたくさん入っておりまして、この扱いも問題になるのではないかと思っておりますが、これは知らん顔して憲政に渡してしまうと。憲政がどう扱うのか、まあ、向こうの責任でやっていただこうと思っております(笑)。しかし、向こうが公開しないと言うのであれば、その前にコピーを作ってやろうかなと、こう思っております。

 それで、これが分量として一体どのくらいになったのかというと、ちょっと分からないくらい多いんですね。あれは何箱というふうに認定しているんですかね。

矢野  何箱というか……。

伊藤  箱数では言えないですね。

矢野  そうですね。書類の箱だけでも3、40箱ですし、それ以外に、新聞スクラップ、アルバム類もかなりの量あります。

伊藤 それに、いまさっき言った金庫があるでしょう。だから、120箱とかそれくらいの感じだろうと思うんですけれども。

矢野  書類の中身はかなり充実していると思います。

伊藤  そういうわけでございますが、結局これは我々の力ではとても耐えきれないものでありまして、日通を頼んで大掛かりに搬送をいたしました。それで、その金庫については、鍵と番号を厳重に取り扱うことにいたしまして、どうなったのか忘れちゃいました(笑)。多分、高橋さんが覚えていてくれるだろうなと。

高橋  確か先生が鍵をお持ちのはずですが(笑)。

伊藤  いやぁ、鍵は持っていますが、番号が分からない(笑)。もういっぺん宮澤事務所に聞くわけにも行かず、さあ、困った。でも、三木内閣のときの外務大臣というのは、本当にいろいろなことがあったんですよね。

武田  金大中ですね。

伊藤  金大中の問題とか、おそらくそれが入っていると思うんです。それで、宮澤さんは気軽におっしゃいましたが、トラブルのもとになってもこれはたいへんだということで、大体いままで何事にも尻込みしたことがない私でありますが、さすがにこれと関さんの文書はちょっと危ないかなと。それから木内さんの文書も一部危ないと思って、少し心を痛めております。出してしまえというのもあるんですけれども(笑)。

 その次は15年の12月でありますが、これもちょっとでかいものでありまして、永田秀次郎であります。永田秀次郎については、やっぱり辞典で書いてくれる人がいないということで、遺族に聞いたら、誰か史料を見に来たとか、何かそういうのがあるのではないかなということで、遺族に手紙を出しました。そうしましたところ、「史料はありますので、ご覧になりたければどうぞ」ということでございました。場所は淡路島であります。そうかということで、お孫さんの秀一さんという方には直接お目にかからなかったと思いますが、奥さんと電話で話し合って、「では、伺います」ということで、16年の2月に黒澤良氏と奥健太郎氏と私の三人で伺いました。

 そしたら向こうの奥様は、「見られて困るようなものは、あそこには全然置いておりません。ですから、自由にお入りになって、必要なものをお持ち帰りくださって結構です」ということでありました。それでお話をしていたら、「手紙なんか多分ないと思います」ということでしたが、本当にそうかなと。よくそういうことを言う人がいるんですね。「うちの父は手紙は読んだら必ずすぐ破いて捨てます」とか。でも、大抵あるんですよ。

 それで、その蔵というのは母家に隣接してありまして、真冬でしたので、ストーブを焚いてくれていたんですね。三人であちこち引っ掻きまわして、「あった、あった!」とか言って箱詰めをしておりましたら、確か黒澤君が「ここはネズミの巣だ」とか言って、別段ネズミがいたわけではないのですが、とにかくほこりだらけですごいところでありました。でも、まあ、私は慣れているのでそんなものは普通だと思っておりましたけれども、奥君はたいへんお上品な方でいらっしゃいまして、かなりショックだったようです(笑)。

 蕁麻疹ができました(笑)。

伊藤 それで見ましたら、書簡や書類も随分あって13箱になりました。その中には息子の永田亮一のものもありましたが、永田亮一が議員になってからのものはあまりないようです。それは東京にあるのではないかというお話でありました。

 これも整理をしたらかなり面白いものになりそうですが、まだ整理が進んでおりません。彼が蕁麻疹になったこともありまして、ちゃんと燻蒸してから整理しようと。ところが、運んできたのは2月でありまして、その3月に、いままでやっていた燻蒸は、何か有害物質として……。

萩谷 オゾン層を破壊するそうです。

伊藤 それで使えなくなったということで、しばらく様子を見ていたわけであります。結局、最終的にはその有害物質を除いたものでやったんですか、何か代替するものを使ってやったのかな。

矢野 ええ。新しいシステムで、最初はこっちも不安だったんですが、向こうも初めてのことなので「調べてみます」と。ただ、まあ、大丈夫そうなので、一応全て燻蒸に出して無事に戻ってきました。

伊藤 まだ手はつけていませんね。

矢野 そうです。

伊藤 これからの仕事でありますが、これもかなり面白いものだと思います。

 それから昨年の1月のことですが、ここにおいでの松崎昭一さんの小岩のお宅を武田氏と一緒に訪問いたしまして、『昭和史の天皇』の取材資料をお預かりして、これも宅急便で搬出をいたしました。前にお話をいたしましたが、読売新聞社が持っていた分と合わせると相当な量になります。しかし、比較してみると、やはり松崎さんがお持ちだったもののほうが、重要な人物のテープでありました。前にも松崎さんにお話を伺ったことがあるんですが、「読売新聞社の調研本部に引き継いだから、あそこにあるはずだから」というお話だったんですね。それで、僕は調研本部の関係の人に言って、ある程度のものを引っ張り出したんですけれども、やっぱり松崎さんが大事なところは守ってくださっていたのだなと。

 それで、これを一部起こしました。木戸幸一のもの、それから大島浩のもの、今井武夫さんのものも起こしました。いま起こし中であります。全部はちょっと起こしきれないと思いますが、かなり起こすことができたということであります。あの中には、松崎さんが持っていた部分ですか、ノモンハン事件の関係者のテープが大分ありますね。

松崎 はい。それは社に置いてきたほうですね。

伊藤 そうですか。それで、ノモンハン事件については、司馬遼太郎さんがやりたいと言っていろいろ動きまわっていたようですが、僕が最近ちょっと聞いた話では、中央公論の事業出版、自費出版のところですが、あそこの社長になった平林敏男という人から、「ノモンハン事件の関係者とたくさん知り合いになりました」と言われたんですね。それで、ノモンハン事件についての思い出を自費出版で出そうという人がいるのではないかと思いまして、ちょっとこれもこちらの目録と突き合わせてみたいと思っております。この研究会で三回に渡ってお話を松崎さんと桑野さんから伺いましたが、桑野さんの涙の出そうなお話の中にノモンハン事件の話があったと思います。それで、私も少しそういう意味でノモンハン事件に関心を持って、中央公論のその人ともちょっと連絡を取ってみようかなと思っております。

松崎 ちょっと補足させていただきます。ノモンハン事件については、司馬さんが以前、NHKのテレビでやりましたけれども、相当克明に調査をされていたわけです。ところが、やっていると最終的にぶつかるのは現在も非公開扱いになっている『小松原師団長日記』なんですよ。『小松原師団長日記』については、当時の戦史室長だった島貫さんに自分が可愛がられて、「君のところだったら出そう。そのかわり条件が三つある」と。それは、コピーしないこと。プライバシーに関わるようなことは書かないこと。それからもう一つは忘れました、とにかく三つの条件を出されまして、「それは結構です」ということで原本をお借りして、それが初めて世に出たわけです。司馬さんはそのことを聞いて、どうしても『小松原師団長日記』そのものに当たりたいという強い希望があったわけです。

 『小松原師団長日記』の原本を見ますと、大型の当用日記にまるで針で突っついたくらいの細かい字で、その日の克明な戦闘日記と、各連隊長に対する評価、それから地図まで入っているというすごいものです。ある意味でこの人は精神がおかしいのではないかと思ったくらいのものです。

 それで、当時『週刊読売』に野村という記者がおりまして、彼が大阪駐在になったときに司馬さんと非常に仲良くなったんですね。司馬さんが『街道をゆく』でニューヨーク編を書いていますが、そのお膳立てをしたのが、いま言った野村という男なんですが、その野村を通じて僕のところに、『小松原師団長日記』を防研から借り出すことができないかという手紙が司馬さんから来ているわけです。しかし、司馬さんにもしその原本を見せると、司馬さんなりのものの見方で『小松原師団長日記』を書いていくだろうと。そうすると、いわゆる通説的なノモンハンとはかなり違って、これはやばい感じになるし、最終的には、僕が防研から原本をお借りしたことがきっかけでそういうふうに話が広がっていくと、これは果たしてどうなるものかと思って、僕は司馬さんにも返事を出さなかったんです。後に野村に聞いたところによると、司馬さんはそれをかなり痛恨に思っていらっしゃって、ノモンハンについての大きな枠組みを司馬さんはお持ちになっていらっしゃったわけですが、『小松原師団長日記』が手に入らない限りノモンハンは書けないと。まあ、そういうことで、ついに司馬版ノモンハン事件は挫折したという伏線があることは事実なんです。

 それで、中央公論の『歴史と人物』の最終巻で、『小松原師団長日記』を出せないかということを、秦郁彦さんが防研に対してかなり執拗にあの調子でやりましたところ、その当時、防研の室長だった栂野さんが全部チェックして、防研として駄目なところに随分と付箋を付けたわけです。その付箋を付けたものが『歴史と人物』の最終巻に、僕が解説を付けて出した。こういう経緯ですから、あの『歴史と人物』に載った『小松原師団長日記』は、完本ではないわけです。そのことだけをご了解いただくと、司馬版ノモンハン事件が出なかったわけが、少しはお分かりいただけるのではないかと思います。

伊藤 分かりました。

 では、先を続けます。私は松野頼三さんのインタビューをずっとやっていて、終わってからもときどきお話をしに行きましたが、そのときに「松野鶴平文書を何とか見せてもらえませんか」という話をしておりました。しかし頼三さんは、「私は三男ですよ」という話で、なんじゃかんじゃと言っていたんですが、16年の3月4日に電話がかかってきまして、「松野鶴平宛の吉田書簡が19通出てきたので見に来てください」と。それで3月19日に高橋初恵さんと一緒に行きまして、吉田書簡19通の他に、古島一雄書簡と重光の吉田宛書簡をお預かりいたしました。これについてはコピーを作り、読み起こして一旦返却をいたしまして、その他の松野鶴平関係文書の探索をお願いしてあります。いま忙しいので松野さんのところにプレッシャーをかけに行っておりませんが、4月以降にまた頻繁に攻勢をかけて、「松野鶴平文書」を何とかしようと考えております。

 松野鶴平宛の吉田書簡はかなり面白いものでありまして、吉田がかなり松野を信用していろいろなことを頼んでいることが分かります。特に私としては、池田の重光工作の話が関連で出てきまして非常に面白い。これは宮澤さんの話とも重なるということで、この辺はもう少しきちんとまとめてみたいと思っております。

 4月に入りまして、黒澤氏と南雲智映氏、高橋さんも一緒に行っていただいたと思いますが、金杉秀信さんのお宅を訪問しました。金杉さんは石川島造船の出身で、造船の労働組合のトップだった人です。その人のお宅に行きまして、文書を段ボール詰めして、宅急便で搬出いたしました。これもかなりの量だったと思いますが、彼はお宅がもう一つ幸手にあるということで、そのとき行ったのはどこでしたか?

高橋 京成の立石です。

伊藤 立石に行きましたが、「まだ幸手のほうにあるから、そのうち取りに来てもいいですよ」というお話でしたが、まだ行っておりません。

 4月に入りまして、宝珠山昇さんという、この方は防衛施設庁長官だった方ですが、この方のオーラルをやっていたら彼が非常に貴重な史料を持ってきて、「何だったら預けてもいいですよ」と、こういうお話でありました。「一部、当面公開はしないことを約束してくれるなら持ってきます」ということでありまして、最初は段ボール1箱でしたが、それから段ボール2箱ほどではありませんが、その半分くらいずつ持ってきてくださいまして、オーラルが終わりました。終わったときにかなり大量の史料を送ってくださいまして、「これは全部公開しても結構です」と言っておられました。それは、その辺りの鍵のかかったところにいま入っているものです。とにかく、防衛政策の根幹に関わるかなり大事な史料が大量にあるということであります。これについては佐道君が整理をすると言っていますが、大変忙しそうなので分かりません。しかし、いずれにしてもこれは整理をして、非公開にするものと公開できるものとを区別して、非公開にするものについては、一体いつまで非公開にするかということを決めて、きちんと整理をしたいと思っております。

 それから、後でお話しますが、辞典ができました。これは皆さんご承知だと思いますが、その辞典を見て大竹啓介氏が――この方は和田博雄等を書いてくださった方ですが、桜田武がないのは甚だ遺憾であると。そこで、自分の同級生か何かを通じて、桜田さんの秘書であった人に紹介してくれました。その方は矢田部守雄さんという方なんですが、その方が来てくださいまして、二次的な資料を非常にたくさんリストアップして持ってきてくれました。しかし、そうではなくて桜田さんのお宅に残ったものがどういうものであるかということを知りたいと。なおかつ、『いま明かす戦後秘史』という鹿内信隆さんとの対談本が上下で二冊あって、それを見ましたところ、吉田茂からの手紙の封筒だけダーッと並べたのが写っているわけです。あと、矢田部さんが持ってきてくださった長男の鉄之助さんという人が書いた文章を読んでみますと、「父は毎日克明に日記を書いていた」と書いてあるんです。私は矢田部さんに「桜田さんの長男の鉄之助さんにぜひ会わせてください」とお願いしましたら、「分かりました、紹介しましょう」ということになりまして、私が「伺いますよ」と言ったら、「いや、ここに連れて来ます」ということでありましたので、お待ちしておりましたら来てくださいました。それが昨年の10月であります。お二人で揃って来られましたが、やはりこれもですね、お宅を壊して、そこにマンションを建てて、そのマンションの一部に住んでいて、まだ引っ越したばかりでしたが、「吉田からの書簡と日記は間違いなく残してありますが、それ以外の部分はある程度は処分しました」と。

 それで、これは変な縁ですが、前にオーラルヒストリーのシンポジウムがあったときに、僕はこういうことを言ったんですね。「政治家であろうと何であろうと、資金源の話はやっぱりなかなかタブーだ」と。そうしたら、ある方から「ちょっと面白い史料があるからあなたにあげます」と言われまして、それが『正論』のもと編集長だった方なんですね。その史料を見ましたら、日経連の裏組織なんですが、共同調査会という会の成立から解散までのかなり詳細な記録のコピーなんです。どこからどれだけのお金を徴収して、どこに配ったか。赤尾敏であるとか……。

武田 矢部貞治とか。

伊藤 矢部貞治もあったかな。

武田 ありましたよ。竪山さんとか。

伊藤 そうそう(笑)。それから、その対談の中でも言っているんですが、「民社党はたいへん苦しんでいて、あれがなかったら民社党はできなかったろう」というようなことも書いてありました。それで、矢田部さんによれば、それがゲラになったときに、民社党の春日一幸か誰かが飛んで来て、「そこだけは勘弁してくれ」と言われたけれども、残ったという話でありました。

 その史料を見せましたら矢田部氏が、「これは私が扱っておりました。よくこんなものがここにありますね」と、そういう話でありました。「原本があるのかどうか私はもう分かりません」と言っておりましたが、そういうことでいろいろお話をしまして、「日記と吉田書簡を含む大事なものは保存してありますが、マンションに移ったばかりで、段ボールがワーッとあってその中のどれに入っているか分からないので時間を貸してください。必ず見せますし、場合によっては預けてもいいです」ということでしたので、「日記が出てきたら出版ということも考えたいのですが」と言ったら、「あえて拒否はしません」というお話でありましたので、非常に期待をして待っております。当時、財界の四天王と言われた一人でありますし、特に日経連の中心的な人物ですから、これは非常に期待ができるものであります。

 それから、これは去年の7月ですが、扇さんの息子の扇暢威さんから、「阿部勝雄という海軍の軍務局長をやった人の日記を遺族の方が持っているのですが、どうしましょうか」というので、「では、伺います」と言ったら、「いや、連絡すれば来ると言っています」と。そしたら、10月に阿部信彦さんという勝雄さんの息子さんがやって来まして、「置いていきます」と、日記を二冊ボンと置いていきました。これは昭和13年から20年の日記で、ロッカーに入れてあります。まだ目を通していません。

小池  あそこの家にはまだありますよね。行ったことがありますが、段ボールで3箱か4箱くらい。

伊藤 「まだ他にもあります」と言っておられました。

小池 それから、阿部さんのご親戚なんですけど、お近くにお住まいの横山さんのところにも日記があります。

伊藤  小池氏がいろいろなところをやっていることがよく分かりましたので、僕は後でまた貴方の名前を出します。

  それから8月に、かつてインタビューしたことがあります豊福保次という人、これはこの前もちょっと触れたと思いますが、宮崎まゆ子さんという彼の娘さんから段ボールで3箱送ってもらいました。この人は有馬頼寧の秘書で、革新農村協議会の幹部であります。ですから、産青連、革農協等の史料がありまして、これは非常に面白い史料であります。

 次に竹本さんでありますが、「竹本孫一関係文書仮目録」を、これも黒澤氏たちが作ってくれまして、竹本哲子さんに寄贈を依頼して一旦了解を得ましたが、さっきの木内文書と同じ事情で、それを憲政資料室の寄贈に切り換えることをお願いいたしまして、了解を得ております。これは木内文書と一緒に今月でも来月でも搬出をする予定であります。

 それで、その竹本哲子さんに「奥村喜和男の遺族についての情報はありませんか」と言いましたら、「彼が社長をしていた東陽テクニカという会社に聞けば分かるのではないでしょうか」というアドバイスを得まして、インターネットで東陽テクニカを調べて電話をかけました。実はこういうことなんだけれどもと言ったら、向こうはたいへん警戒をしまして、紹介者がなければ駄目だと。そこで竹本さんに東陽テクニカに電話をしていただきましたら、ちょっとお時間をいただきたいというようなことを言われました。それで結局、一人娘でありました石川和子さんという方がおられることを教えられまして、電話をいたしました。そして、11月に訪問して話し合いをいたしまして、「地下室にもいくつかありますので、それは差し上げてもよろしいです」と。そのときにはもう、先ほど木内と竹本のところでお話をしましたように、大学の事情がちょっと変わったので、「国会図書館に寄付していただきたいのですが」とお願いしましたら、「よろしいです」ということでありました。

  それで、1216日に憲政資料室の堀内寛雄氏と高橋さんと三人で訪問をいたしました。これが田園調布の豪邸の中にありまして、あの家も豪邸であります。いちばん最初に行ったときのことですが、「この史料は小池さんも……」とかいうような話がありましたので、「(えっ、そこまで手を広げているのか)小池さんとどういう関係ですか?」と伺いましたら、「小池さんのお母さんが、私が料理を教えているときの生徒でした」とかいうような話でありまして、何かやったのかというとそうでもないみたいなので、単なる社交かと。

小池 写真と史料を見せてもらいましたが、そのときはまだ考えさせてほしいということでした。

伊藤 そのときに「駒沢大学の小林さんという方もお見えになりました」と言うから、小林和幸がそんなことをやるわけがないなと思ってよく考えてみたら……あっ、武田氏に言われたのか、小林英夫氏だなと。それで、「必ず書くと言って全然それから書いていません。返せと言いましたが、全部返ってきたのかどうか分かりません」とかいうことを言っておりました。とにかくこれは堀内氏と高橋さんで訪問をいたしまして、そう多くはないけれども、憲政資料室に寄贈してくださるという了解を得まして、現在まで見つかったものを見せていただきました。その中には、鈴木貞一さんからの手紙とか、徳富蘇峰からの手紙とか、そういうものもありましたし、満州電々創立の一件書類をまとめたものもありました。これは今年いただきにあがる予定であります。

 それから、「曾禰益関係文書目録」ができたことと、「黒沢博道関係文書目録」「大中氏旧蔵新自由クラブ関係史料」の目録ができました。これは黒澤氏たちの努力によるものであります。

 ちょっと別な話ですが、笹川良一の『獄中日記』を私は以前、御厨氏と一緒に監修して出しましたが、笹川史料があるはずだと。これを見たいということで笹川陽平氏に言いましたら、「まとめてちゃんとありますのでお見せします、担当者に連絡しておきます」と。その担当者から連絡がありまして、いまどなたかが非常に一生懸命見ておられるところだから、来年にしてくれということを言われましたので、今年になってもういっぺんアプローチをしようと思っております。

 以上が史料のアプローチ関係であります。

 次は辞典の関係であります。皆さんご承知のように、辞典は7月に刊行されました。前にご報告した段階で400くらいでしたが、それからなんだかんだやって9月くらいで締めたときには539項目になりました。それで、宣伝をかねて『本郷』という吉川弘文館の雑誌の9月号に、季武氏と私の二人で文章を書きました。私は「近現代史料の現在」ということで、季武君は「この辞典の読み方」という、たいへんありがたい文章でありました。

  それから、私は「追補版」と言っておりましたが、吉川弘文館から来た出版依頼の手紙を見ましたところ、「二」になっていたんです。ということは「三」を出すという意味で、「続」ときたら「続々」というふうにもちろんなるわけですけれども、追補版というふうにしますと、また「追補二」になるのかどうか分かりませんが、とにかく最初からもう「二」と決まっているから「三」が出るのだと。「三」を作らなければならない。そこで、最初のものが出版された7月の段階で、「二」の原稿は…もう二と言っておりますが…130集まっておりました。それで、「二」は大体200集めようと考えておりましたが、その後、順調にと言いますか、高橋さんに尽力していただいて催促をしまして、皆さんの渋々ながらのご協力も得て、昨年の11月現在でついに200になりました。また、12月の末には249になりまして、現在は250いくつかになっております。

高橋  254です。

伊藤  そうですか。それで、かなり重要な人物も入りました。どうしてもこれは入れなければみっともないというもので残ったものは多分、一つくらいだと思うんですね(笑)。

武田 (笑)すみません。

伊藤 それで、「二」については多分、260くらいまでいくと思います。そして、それに人名索引を付けると。人名索引というのは、たとえば、山県のところに児玉源太郎とかいろいろな人の名前が出てきますよね。そういうのを全部拾う。それから、誰かのところに小池聖一のこういう論文があると書いてあったときには、その小池聖一を拾う。こういうふうなことで、歴史的な人物とそれ以外も全部拾いました。ですから、歴史的な人物とそれ以外の二つに分けて人名索引を載せることとしまして、拾う作業は完全に終わりました。これからの作業としては、分類と打ち込みですね。そして、「二」の原稿が最終ゲラになったときに今度はそれを拾わなければなりませんから、それを入れて出すということでありますので、上手くいって今年の11月に刊行できればベストではないかと考えております。いまの段階で、どうしてもこれは項目にしたいという数が1,500くらいですか。

高橋  そうですね、1,200300でしょうか。

伊藤  ですから、この「二」ができる前に多分、また執筆者探しを行いますので、「三」の見通しもそろそろつけはじめようかなと、こういうふうに思っているわけであります。今年、年賀状をもらってみましたら、「たいへん便利に使っております」という方が何人かおられましたし、売れ行きについては、吉川弘文館で把握している分で1,000くらいでしたか。あと、書店に流した分は1月の末に精算ということですが、まあまあいい数字だということでありまして、それを見て「二」を出すという判断になったのだと思います。

 それで、あの本の末尾に執筆者一覧を付けましたが、200人を越していましたか。

高橋  230人くらいでしたね。

伊藤  項目数が539200人を越した執筆者ですから、この管理がいかにたいへんかということが分かりました。それを高橋さんが上手くやってくれて、最後のほうで少し心配しておりましたが、向こうに渡った原稿と実際に集まった原稿の数が合わないとたいへんだということで計算をしましたところ、539ばっちりあったので安心いたしました。

  一つだけ事故がありまして、高橋さんが使っていたパソコンがクラッシュしました。そのときに原稿が一つ入っておりましたが、たまたま知っている人がやったもので、その人のパソコンからもういっぺんデータを送ってもらって事無きを得たと。以上のようなことで、辞典は見事に出来上がったことをご報告したいと思います。皆さんのご協力には、本当に感謝しております。二百何十人がここにいるわけではありませんので全員に申し上げるわけにはいきませんが、ここにいらっしゃる方でたくさん書いてくださった方もいらっしゃいますので、厚くお礼を申し上げます。

  その他でありますが、これはいろいろな情報の類です。15年2月に『渡辺昭談話録』というのが尚友倶楽部から出ました。これは、私がインタビュアーになりまして、渡辺昭さんというのは、渡辺千秋のお孫さんであります。非常に話が面白くて、「大学を出て何をしておられましたか?」と伺ったところ、「伯爵をしておりました」と。これには私も呆気にとられました。

武田 言ってみたいな(笑)。

伊藤 それは要するに、お金のために働くということではなくて、公共のために奉仕するという意味でございました。それは難しいでしょう(笑)。

武田 はい(笑)。

伊藤 だけど、戦争が終わって伯爵がなくなったものですから、いろいろとお仕事をなさったようであります。

 その渡辺昭さんに続いて、そのまた従兄弟といいますか、渡辺武さんのオーラルをまた尚友倶楽部で私がインタビュアーになりましてやりました。それの速記録が平成1612月付けで出るはずでしたが、現実にはまだものは見えていない、幻であります。

  それから、この前もお話をしましたように、私が東大を定年退官したときには、私の研究室にあったいろいろな史料を国会図書館に寄付いたしました。その頃も確か「日本近代史料研究会」と称してやっておりましたので、その名前で寄付したのだと思いますが、そのインタビューの記録やマイクロフィルム等を公開する許可を得てくれと言われて、この前もいくつかやったという話をしましたが、小楠正雄氏と羽生三七氏のインタビュー記録テープを公開する許可を得ました。それが15年2月であります。また、この羽生氏のインタビュー記録テープの公開許可を得ることが、羽生さんの史料をお預かりするきっかけになりました。

 それから、同じく「岡田良平関係文書」のマイクロフィルムを、国会図書館で公開する許可を遺族から得ました。これが15年3月であります。岡田譲三郎さんというのが、その息子さんであります。

 それから、「川崎卓吉関係文書」のマイクロフィルムを、憲政資料室で公開する許可を得ました。これが4月であります。

 それから、岩切重雄談話テープについて、憲政資料室で公開の同意を岩切龍雄さんから得ました。これが7月であります。なお、史料につきましては、あるかもしれないけれども、納戸の奥のほうにあって未整理であるということですので、いずれ出てくる可能性はあると思います。岩切重雄は、民政党の代議士であります。

 それから、これはまだ情報ですが、『本庄繁日記』をかつて出したときに預かっておりました山川出版社が保存しておりましたアルバム、これを本庄家と相談いたしまして、本庄史料はどうなったのかということを聞きましたところ、日記や何かも全部含めて靖国神社の遊就館に寄贈したと。それで遊就館に入ってしまうと、あそこは公開をしておりませんので靖国文庫にしようかと思いましたが、バラバラにするのはやっぱりまずかろうということで、遊就館の係の人と相談をして、そこに送りました。そのときにいろいろお話をしましたところ、理由がはっきりしていればお見せすることは可能ということでしたので、完全に非公開ということではないようです。

 それから、『現代史を語る3』として、かつて内政史研究会で行いました桂皋さんの談話速記録を復刻。これは、現代史料出版の赤川さんがやってくださいました。索引と解題を付けて多少の付加価値を付けて復刻をしたということであります。「4」が今年出るということで、松本学でありますが、黒澤良氏が解題を書いてくださったはずです。

 それから、前に近く出るよと言っておりました軍事史学会編の『大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将日誌』が、私が監修いたしまして錦正社から刊行されました。これは軍事史学会の一連の作業のひとつであります。

 次は「松本剛吉関係文書」でありますが、憲政資料室があれを購入したいということでしたので、私が松本剛一氏と交渉いたしました。松本さんは、ご家族とご相談の上ご了解になりまして、国会図書館がこれを購入いたしました。これは『松本剛吉日誌』として刊行されたものの他に、彼が死ぬ寸前までつけていた日記の残りの部分ですね。ほんのちょっとですけれども、数ヵ月分はなぜか政治日誌では抜けているわけですが、それが入っています。それから、いろいろな手紙や何かですね。田健治郎関係のものが多くございましたが、それが購入されて多分、もう公開になっているのではないかと思います。

 それから、一昨年の7月に小池君のご案内で大平記念館にまいりました。有馬氏、小池氏、武田氏、佐道氏、石田雅春氏で、「森田一日記」や「津島寿一関係文書」もあるということでした。

 それから、一昨年の8月に加藤恭子さんがこの研究会で「田島道治関係文書」について報告してくださった後、「田島道治日記」の公刊問題が浮上しておりまして、これについてはいま武田君と加藤恭子さんとの間で検討されているところであります。

 それから、一昨年の9月に武田氏と一緒に、『最高戦争指導会議記録手記』の原本校正も兼ねて、奥湯河原の重光葵記念館に行きまして、史料を多少見せてもらいました。これについては後で武田君に話してもらってもいいと思いますが、入って行きますと玄関のところにいろいろなものが並べてあって、その中に貴重な史料がありました。「あーッ!」とか言ってびっくりしたわけですが、お話によるとまだ書簡類もかなりあるということで、そのうち探しておくということであります。

 それから、これは昨年のことですが、小池氏に引っ張りこまれて三木会館に「三木武夫関係文書」を見に行きました。段ボールで151箱ということでございましたが、これは明治大学で整理をすることになっておりまして、その後どうなったのかは知りません。これについては、小池氏は積極的に手伝うと言っておりましたので、後で彼から聞きたいと思います。私のほうは、自分のもので手がいっぱいで手伝うどころのことではないと。ただ、昭和30年代以降のものでありまして、「その前のものがどうなったのか睦子さんにぜひ早く聞いておいてくれ」と言ったんですが、それが一体どうなったのかもよく分かっておりません。ですから、これについては小池氏が多少、責任があると思っております。

  ついでに、小池氏でありますが、昨年11月7日に広島大学文書館の設立記念シンポジウムがありました。小池館長から……館長さんですよ、広島大学助教授・広島大学文書館長、何で教授にしてもらわないの?(笑)そこで「文書館における学問と社会的役割」という非常に立派なシンポジウムがありまして、私は「個人文書の現状と課題」という題で講演を行いました。大濱徹也氏がその前に非常に高邁な講演をなさいまして、私は地を這うような思いの話をいたしました。

 この2年間は大体そんなことであります。これでオーラルの話をしたらたいへんなことですから、これで終わりです。では、先ほどの件について補充をお願いいたします。

小池 いくつか補充する点があります。まず、「三木武夫文書」ですが、運び出しを明治大学が行いました。全部で200箱位だったと思います。それで、これについては明治大学が全て予算化することになりまして、10年間で8000万のお金を出す、記念室を造るということで、その記念室も含めて予算化に成功しております。

 また、睦子さんからその後、ご自宅のほうからということで、それ以前のものが50箱ほど出てきました。現在、まだ粗整理の段階ということです。

 それで、私はお手伝いをしなければならないわけですが、最初にアタックをしたのは私でしたが、広島大学文書館と明治大学大学史料センターの共同作業という形になりました。ですから、これから休み期間に整理してこようと思っております。

  それから…何か尋問されて白状するみたいな感じですが、それ以外に「津島文書」があります。実は津島の日記は二種類ありまして、いわゆる手帳のような日記は大平正芳記念館に、もう一つは坂出の郷土史料館にあります。その郷土史料館にある日記を全てマイクロ化しまして、私どもの文書館に入れました。公文書の類は全て大蔵省の財政史室が持っているということで、これについての解題を僕が書くつもりでしたが、うちの石田君が書くことにしました。

 次に広島大学文書館の話をいたします。広島大学文書館は今年度の4月1日付でできました。国立大学で館としては二つ目の設置です。実は、館長は学長に内定をしておりましたが、国立大学法人化の過程で、学長と兼任ができないこととなりました。誰かいい人がいないかと言われたんですが、いないものですから、まあ、しようがないということで、学長命令で僕がなりました。ちなみに、部局長連絡会議に出られる唯一の助教授という立場です(笑)。もちろん教授になれないのは、人格・識見がないからということですが、まあ、それは身から出た錆ではないかなと思っております。

 文書館のコレクションの中心は当然のように大学の公文書の類ですが、それ以外では、もとの学長の「森戸辰男関係文書」が2万2000点ほど。それから「飯島宗一文書」の片割れ。これは臨教審関係をやった元広大学長ですが、実は二つに分割されております。私どもも狙っておりましたが、一つは名古屋大学が取りました。ただ、それは名古屋大学の文書室が取ったのではなくて、図書館が取ったんですね。それで全く全容が分からなくなりました。

  それから、現在整理しているものは、大牟田稔という方の史料です。この方は、地元の中国新聞記者で論説主幹もやっておりました。戦後、「きのこ会」という原爆小頭症関係の運動をやっていた人です。それから、在日朝鮮人、韓国人被爆者関係の平岡敬氏文書ですね。現在、前広島市長でもある広岡氏のオーラルをやっています。

  その他、戦後平和運動関係の史料については、広島大学文書館で全部揃えるつもりです。

 それと同時に、「被爆と復興」という研究会を今度作ります。その中で竹下虎之助氏という、県政で50年間、いわゆる課長から知事までやられた方ですが、その方のオーラルをやっておりまして、その方の史料を手に入れます。

  それからもう一つ、以前からの懸案で先生ともやったんですが、池田勇人の史料があります。「池田勇人文書」はあるのですが、なかなか遺族の許可が出ない。この間、孫にあたる寺田稔代議士とお会いして、呉海事歴史科学館の戸高さんとも手を結んで展示をやりましょう、といっています。これからいろいろな形で史料が多分出てくると思います。

  同じような形でいまもう一人やっておりますが、これはまだちょっと名前のほうは。

  あと、阿部さんのほうは、実はずっと前に史料を見せていただいて、コピーも若干とってずっとやっていたんですけど、伊藤先生にしてやられていて(笑)。平静を装っておりましたが、内心では非常に悔しい思いをしております。

 もう一つ、横山一郎という同じく海軍少将ですが、その方日記も含めた書類が、阿部さんと同じくらいあります。そこのご当主は非常に堅い方で、阿部さんはお酒好きなほうですから、お酒を持って行くと簡単に。

伊藤  鏡山ですか(笑)。

小池  広島は酒都西条ですので、必ずその関係の葉書をお送りして誼をずっとつないでおります。

  あと、実は石山賢吉を昔ちょっとやっておりまして、ご自宅に史料があることは確認を取っております。

伊藤  リスト(笑)。

高橋 はい。

小池  ただ、ちょっと人間関係が切れましたので、直接は伺うのはちょっとあれですけど。

  原爆関係では、峠三吉とか。やっぱり広島はそういうところですから、「広島から世界の平和について考える」という公開講座を行う予定です。いかにも『世界の中心で愛を叫ぶ』をもじったようなものですが(笑)、その過程でまたちょっと探していこうと。もう一つが、地域の史料ということで、「我が家の近代史」という公開講座もします。「家の史料がありませんか、私どもが整理の仕方をお教えしましょう。一ヵ月にいっぺん講座を開きますので、ぜひ文書館に来てください。講演料は無料ですよ」ということです(笑)。そういう形で恒常的に公開講座を行って、地域史料を集めていこうと考えています。

 あともう一つ、次にオーラルヒストリーを想定している方が実は面白い方で、東京と広島の財界の往来をやっていた方です。この方のオーラルもほぼ内諾を得まして、そういう意味では、オーラルも恒常的に行っていこうと思っています。

武田  僕はあまりご報告することはありません。重光の文書については前にご報告しましたし、田島道治の件は、なかなか進まないところがあるんです。あまり急がずにやろうと思っています。

伊藤  今井さん。

今井  先生が先ほど21段ボールとおっしゃいましたが、千葉大学の手塚先生のところに行ったものも持ってきましたので23箱くらいあります。いまのところ13箱済んで、いまいちばん重要な14箱のところをやっています。いままで整理したところまでで寄託予定の資料を分類してみますと、次のような具合になります。

 まず、発表原稿・随筆におきましては、「原稿綴り」というものを今井武夫が作っておりまして、そこに自身で加筆修正した発表文の切り抜きがございます。たとえば、国立国会図書館等に入っていない雑誌とか、いろいろ記録がございます。この中で面白いなと思ったのは、昭和25年に『日本評論』に出した座談会「汪兆銘脱出行」というのがございまして、これは、伊藤芳男という一緒に行動した人が、この年に死んだ最後の証言でもあって、意義深いものではないかなと思っております。ただし、これは国会図書館にあるはずです。

 それから、その原稿綴りの中に「夏友会(元六十五旅団歩兵一四一連隊)戦史」というものがございます。これは、六十五旅団歩兵一四一連隊で武夫が連隊長をしていたわけですが、その戦史が書かれております。ご存じのように、本間雅晴中将はバターン作戦で非常に苦労して、本間中将から唯一の賞詞をもらったのが一四一連隊だけです。ただ、松崎先生もおっしゃいましたように、非常に苦労した作戦ですが、当時の部下から聞いたりして自分自身でまとめたものでございます。これが冊子として昭和52年に出しておりますが、これはあまり世に出ていないのではないかと思います。

  それから、季刊『劇と新小説』(新小説社)というところに随筆を2年間ほど出しておりまして、このうち最初の5、6冊は国会図書館にないものです。

 それから、これは国会図書館にあると思うんですけども、秩父宮殿下といろいろ話をした記録がございますし、板垣征四郎、土肥原賢二、根本博等を追悼している随筆のようなものがございます。あと、よく知られておりますが、小倉正恒、汪兆銘、何応欽、張自忠等についての追悼文がございます。

 あと、未発表となっておりますが、フィリピンの戦線で捕虜千余名を処刑するように電話命令を受けたときに捕虜を逃がしたのですが、そのときの心情を述べた文章がございます。また、それを英文でまとめたものがございます。この両方ともが未発表ですが、ジョン・トーランドかな、この未刊文章について少し言及した部分がございますが、この原文がございます。

  次に本人の作成した書類ですが、非常に重要なものとしては、支那大使館付の駐在武官補、いわゆる北平武官時代に、参謀総長に報告したと思われる対支政策の検討他、中国の国民政府、冀察政権、冀東政府、華北情勢、中国における英国勢力の動向等についての資料があります。これは未発表だと思います。また、これはまだ見ておりませんが、皇紀二千六百一年紀元節日支和平交渉之真相、支那事変、汪精衛工作書類、汪精衛関係資料、桐工作、謀略関係、軍旗親授式、これらに関する簿冊がございます。それから、先ほど先生がおっしゃられましたが、一四一連隊バターン作戦戦闘詳報、行動詳報のオリジナルがございます。あと終戦書類に関する簿冊、支那派遣軍情報会議資料、これは何かに発表されていたかと思います。あと、大東亜会議記録などがございます。

  日誌と手帳については、戦前・戦後の日誌と手帳がございます。支那事変日誌。それから支那事変手記については、昭和12年から14年まで書かれております。あと、個人的な日誌としては、古くは昭和3年の陸大卒業頃の日記と、昭和1314年の支那事変手記、支那派遣軍報道部長時代の昭和16年の日記。それから、昭和19年1月から2月までの、ビルマ・タイを訪問したときの日記。戦後については、一時的な中断がありますが、かなり日記をつけておりまして、死ぬ2年前の昭和55年まで、約八割か九割は存在します。

 書簡については、まだ全部見ておりませんが、面白いなと思ったのは、南京に抑留中の岡村寧次が戦犯容疑者として残されたときに、武夫のほうが内地に先に帰ってきましたので、南京の生活の現状報告というのがございます。それから、畑俊六、板垣征四郎、土肥原賢二、本庄繁、磯谷廉介、西尾寿造、河辺正三、中野英光、小林浅三郎等の陸軍の将軍からの手紙がございます。

 あと、盧溝橋事件関係ほかということで、井本熊男、小笠原清、寺平忠輔、松山良政、この人は盧溝橋事件当時河辺正三旅団長の副官ですが、この人達からの書簡もございます。あと民間人では、犬養健(タケル)が戦時中に出したものと、あと合わせて……。

伊藤 犬養健(ケン)でしょう。

今井 はい。多分犬養健(ケン)が正しいんですよね。『揚子江は今も流れている』では「ケン」とルビが書いてありますので、そちらが正しいと思うんですが、辞典では「タケル」になっています。その『揚子江は今も流れている』の執筆中、入院している病棟から武夫に問い合わせてきた書簡とか、死ぬ三ヵ月前に発信された書簡等、計8通。

  それから、安岡正篤、松本重治、重光葵、村上知行(ムラカミチギョウ)、これは作家ですが、清水安三、桜美林学園の創立者です、画家からの書簡もございます。

 書類・雑誌はかなりあるんですけれども、ここら辺はちょっと省略します。

 あと、新聞記事スクラップとして面白いのは、昭和1312月末に第三次近衛政権が発表されてから翌昭和14年1月までの約一ヵ月間、武夫が香港で収集した汪兆銘の行動を報道した欧米の新聞の詳細なスクラップが、約300点ございます。それから、渡辺工作の現況ということで、渡辺というのは高宗武のことを「渡辺」と仮称したのですが、この人のことを報告したオリジナルがございます。あと、青木一男大東亜相に帯同して大東亜省を旅行したときの訪問記録。これは新聞も含めてございます。こんなところですね。

松崎  渡辺工作のオリジナルというのは、表に番号がふってありませんか。

今井  一、二、三、四号ですね。三、四号の複写が防衛庁にあるんですが、一、二、三、四とオリジナルは全部あります。一号は何も数字を打ってありません。

 それから、太平洋戦争準備資料として資料がございます。これはどこまでか知りませんが、大本営陸軍部や参謀本部が調整したタイとか英領ボルネオ、英領馬来、フィリピン、ビルマ、蘭印、仏印等の国情を述べた冊子がございます。

 名簿としては、紅梅会という梅を愛した汪兆銘に縁のある人たちの集まりとか、信濃財政経済会とか、信武会という長野県出身の陸・海軍人の会の名簿等がございます。多分この後、まだ見ておりませんが、陸大や陸士三十期の名簿も出てくるはずだと思っております。

  以上のところで非常に面白いと思ったのは、最初に申し上げましたが、北平武官当時、盧溝橋事件の起きる前に参謀総長に提出したと思われる資料。それから、支那事変当時の資料と日誌。日中和平交渉資料。歩兵一四一連隊長当時の軍旗親授式から奉安するまでの次第を記した資料。これは防研にはないと言っておりました。本当かどうかは分かりませんが、いかに軍旗を大切にしなければいけないかというのがよく分かるような資料です。あと、バターン半島戦闘時の戦闘詳報・行動詳報です。まだ半分くらいしか整理していないので、もうちょっと出てくるかもしれません。

伊藤  さて、どうしましょう。私、司会でございますので、どういうふうに進行したらいいのか、せっかくだから皆さんから……。

松崎  いま今井さんがおっしゃった一件書類は、今後どういうふうになさるんですか。

今井  まだ整理は半分くらいですから、とりあえず全部まとめたいと思っています。あとは、伊藤先生とご相談して処理を決めたいと思います。これをやっている途中で年譜が書けてまいりまして、そうすると面白くなって伝記が書けるようになってきたりしました。

伊藤  私およびその他の方で何か質問がございましたらどうぞ。

  先ほどちょっと申し上げましたように、私は政策研究大学院大学に史料の集積をオーラルの集積と同時にやろうと考えておりましたが、それが上手くいかないことがはっきりいたしましたので、史料は概ね憲政資料室に移管するつもりでおります。ものによっては、たとえば防衛庁にすることも考えられると思いますが、防衛庁は必ずしも最善ではありませんので、見やすいという点から言うと、国会図書館のほうかなと思っております。

松崎  いままで先生がおやりになったオーラルについてはどうなるんですか。

伊藤  先ほどの話は集積した史料についてのことで、オーラルは別です。オーラルの運命はどうなるのか、いまはまだ定かではありません。

  私としては、今年の3月で定年になります。そうしますと研究費もなくなるわけですが、研究室らしきものを一応もらいまして、外部資金を導入して3年間仕事をすることにいたしました。いまその外部資金の導入について、かつてやったことのない金集めということを一生懸命やっておりまして、大体の見通しがつきかけております。ですから、大体3年やって、これらの史料を全部整理して、処置をしていくつもりでおります。皆さんのこれからのご協力もお願いしたいと思っておりますので、よろしくお願いします。それでは、きょうはこれで終わりにいたします。

                                   (終了)